ゾンビと戦う

 深夜、内側から鍵がかけられていた扉が突然開き、男女一対のゾンビ(ro lang)が踊り狂うように、飛び出してきた。ハイタカが闖入した鳩の群れのように、我々は逃げ惑った。私を除くすべての人が、火花が飛び散るようなゾンビのビンタを食らった。彼らはときには「カ、カ、カ」と高笑いし、ときには八つのてんでばらばらの表情を(喜怒哀楽を)顔にあらわした。

 私は逆にゾンビに襲いかかり、彼らの髪をひっぱり、地面に投げつけた。ぴくぴくと痙攣している彼らを私は足で踏みつけた。そして懐から秘密のプルバを取り出し、それを振り下ろすと、ゾンビたちは硬直して動かなくなった。いまが好機と、私は仲間たちに石を持って加勢するよう求めたが、恐れをなした彼らはどこか遠くへ逃げていた。仕方なく、私はひとりで石をもち、ゾンビたちが灰のかたまりになるまで打ちつづけた。私が「もう大丈夫ですよ」と叫ぶと、彼らはおそるおそる近づいてきて、倒れたゾンビを見ると、ただ驚くばかりだった。

 仲間の僧侶たちは、「この巡礼者は隠遁した高僧にちがいない」などと話し合っている。そのなかのひとりの老僧が私に向かって言った。

「尊者さま、今日もしそなたがいらっしゃらなければ、我々はみなゾンビに殺されていたにちがいありません。ほとんど鬼門関の扉を叩いていたところです。貴下の大恩、忘れることはできません」。彼らとロギャ全員が私の足元で涙を流しながら五体投地し、(保護を願う印として)わが足に頭を当てた。

 私は彼らに言った。「たしかにゾンビは凶悪であり、恐いものである。しかしもっと恐いもの、それは輪廻(から脱却できないこと)である。とくに三悪趣(すなわち畜生、餓鬼、地獄)の恐怖。昼夜途切れることなく、永遠に、終始その恐怖は、あなたがたにからみついてくるだろう。もし輪廻から脱却することができないなら、せめて悪趣から脱却したいと思うだろう。それは善悪の業の果に応じているのだから、善行、悪業の取捨選択こそが重要なこととなるのである。もし正しい道を捨て、色狂いに走ったら、それは悪行である。それとおなじように、恐いからと一目散に逃げるような者がただしい果を得られるだろうか。ミラレパもこう言った、心が逃げられないのに身体だけ逃げたとて、何の益になるだろうか、と」。

 このとき私はすこしおしゃべりにすぎたようだが、ほとんどいまでは何としゃべったか覚えていない。あのゾンビについてはよく覚えている。ひとりは髑髏に筋だけついた者、ひとりは皮と肉と頭髪だけの者。まったくもって羅刹のようで、人を慄然とさせるものがあった。とくに前者(髑髏と筋)は調伏するのが難しいといわれる。以前からよく、死後「入筋」したゾンビは、「入肌」したゾンビより厄介であると聞いていたが、まさにその通りであった。

 その夜、みなの恐怖心は消え、寺の廊下で飲食をして、なんの心配もなく眠ることができた。翌朝は早起きし、みなで同じ行程をたどった。五日後、大きな村に着くと、何人かが近寄ってきて、尋ねた。

「あんたたちはどっから来たんだい? 村からか? おれたちの両親はこのまえ死んじまって、ゾンビになっちまったんだ。おれたちは懸命に逃げて、ここまでやって来た。それ以来、だれも村には戻ってねえんだ」。

 そう言って、驚きの表情を浮かべている。モンユル地方から来た巡礼者は、インドの言葉もわかるので、彼らに通訳をさせ、村で起こった事の顛末を伝えると、彼らはさらに驚き、賛嘆してやまなかった。

 聞くところによると、ゾンビの手が人の頭の上に置かれたら、その人はたちどころに死ぬという。ただし成りたてのゾンビにとって、これだけの動作をするのもたいへんなことであり、ビンタを張るのが精一杯だったのは、カルマというものである。つまり、ゾンビの力不足が幸いした面もあったのである。
[訳注:ロラン(ro-langs)とは、チベット版ゾンビ、あるいはキョンシー(僵屍)である。伝統的なチベット家屋の壁には、敷居板を跨がなければ入れない小さな戸がついている。それは(跨ぐことのできない)ロランが侵入してくるのを防ぐ入口である] 



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