残り少ない日々

 猪の年(1743年)は尊者にとって運勢の悪い年だった。その言説も思うところがあるように感じられた。ドメ地区の多くの寺院は私の考え方に賛同し、各種法事を行なった。尊者はこうおっしゃった。

「今年はもっとも悪い年です。しかし懺悔の法事を営むことにより、数年は死を恐れる必要はなかろう」。

 牛の年(1745年)、尊者は各寺院をめぐり、福寿を祈祷した老人にこうおっしゃったことがある。

「私をよく御覧になり、記憶にとどめてください。人の寿命というものはわからないものです。このあとまた会えるとはかぎりませんから!」。

 尊者はこういう言い方をされたのだが、聞いた人々は老人一般の話かと思い、尊者自身のことだとは思いもよらなかった。

 大同寺(Ta’i thong)の座主の地位は長く堅持し、継ぐ者を探すことができたので、尊者も「いまはほっとしています」とおっしゃった。

しかしジャクルン寺の座主は後継者が見つかっていなかった。「私がこの寺を担当するようになって二十五年にもなりますが、今年のようにさまざまなことがあって力不足ですと、もし死んだらたいへんまずいことになってしまいます」とおっしゃって、辞職する理由を述べられた。ただ多くの人は、尊者は本心では辞職を願っていないと思っていたが、尊者の寿命が近づいていることを知らなかったのである。尊者は寺院や本殿で迎神安住の儀式(rab gnas)を行ない、チャクドゥ(phyag mdud 聖なるひも)を管理僧のチュージェ(Chos rje)に賜わり、「これで私たちの絆は強くなった」とおっしゃった。

 牛の年の十月二十日、モンゴルの幕営に戻った。腰を下ろすと、「本当に心休まる」と心情を吐露された。

 燃灯節(十月二十五日)期間、とくに二十六日から病状は悪化した。私は尊者の様子を見てあまり芳しくないと感じ、各寺院などに書簡を出し、読経し、法事を行なうよう要望した。

 一ヶ月余り、病状は一進一退だった。十二月になって尊者はおっしゃった。「この病のため立ち上がることもできません。鉄の要塞完成などのための法会や祈願をしなければならないのだが」。

 そうおっしゃりながらも、座すさまは威厳に満ちていた。新年のトルマ投擲の儀式は以前にもまして盛んだった。そして私におっしゃった。

「今年のモンラム(大祈願法会)はいつもに増して盛況であるのう」。

 モンラム期間中、どこもかしこも人でいっぱいで、雲のようだった。尊者は毎日参拝に来る人々に会い、祝福を与えていて、暖を取る暇もなかった。そこで我々は諫言した。

「今年は異常なほど寒く、お体にさわるので、人と会うのはおやめになってください」。

 しかし尊者は「そうは言っても、訪ねてくる人のひとりひとりが私のことを思ってくれるのです。彼らの気持ちをはばむことなどできましょうか。説法をするにせよ、祈願するにせよ、それらをやめるのはよくないことなのです」。

 モンラムが始まる前の一月八日の祭礼は内侍官が担当し、十五日の供献は私が担うことになった。尊者はこうおっしゃったのである。

「今年の縁起は特別である。八日は上弦の月が日増しに満ちていく時期だが、もっと重要なのは、仏陀が外道を調伏した日である。その日の供献はおまえが担当しなさい。十五日は月が満ちた日であり、主持はいつも通り私が担当しよう」。

 この言い方はよくないと感じたので、私は言った。

「前例とくらべてもよろしくないのではないでしょうか」。

 尊者はそれをよしとせず、行事はそのまま遂行された。しかしこのことはこの世を去る前兆だった。

 このあと病状はすこし持ち直した。そして新年がやってこようとしていた。尊者はおっしゃった。

「このたびの新年はことのほかうれしいものだ」。

 私は新年の準備をはじめた。二十九日と晦日、尊者はお疲れの様子だった。

 一日、尊者はおっしゃった。

「祝賀の日なので、今日は気分転換をしましょう」。

 尊者は健康そうな様子で、新年祝賀の席へ出かけていった。人々の前で格言や故事を話され、さまざまな娯楽を楽しまれた。

 しかし二日になるとまた病状は悪化した。ときおり意識が混濁し、悪寒と発熱が交互にあらわれた。私は香油を塗って励ました。尊者はしかしむしろ按摩のほうを好まれた。按摩をしたあと、安堵の表情を浮かべられた。

 五日からは伝承ラマ(brgyud pa bla ma)と私を含めた二十一人の僧によって厄払いの施食法要が営まれた。すべての寺の僧によって祈祷が行なわれた。このように日夜を問わず儀礼が行なわれ、一ヶ月がすぎた。

 アムド・ウー(中央チベット)のすべての寺院に施与の茶の放出を願ったが、まずドメの百三十の寺院に書簡を送った。これはラブジャムパ・ロサン・ツルティム(Rab ’byams pa blo bzang tshul khrims)、ラブジャムパ・ソナム(Rab ’byams pa bsod nams)、ラブジャムパ・ツルティム・サンポ(Rab ’byams pa tshru khrims bzang po)、それに私を加えた四人が考え出したことであり、書簡の文面は私がしたためた。

 尊者は仰せられた。「すぐに施与できるかどうかはともかく、このことに私は満足を覚える。それぞれの寺院はどんな反応を示すであろう!」。

 尊者は政教の教訓について説法をしたが、とくに経典を学ぶのに必要な心構えについて講じた。百三十の寺院は布施茶を発したが、寺のなかには衣類などの物を施与するところもあった。また二十五の寺院には祭り基金のようなものを立ち上げた。そのころ特使を各地に派遣した。モンゴル、チベット、セルコ寺などは尊者に祈祷会を主事してほしかった。

 四月六日はまさに鬼宿(rgyal)と木曜(pur)が交差する日だった。三つの堂内に鎮座した、弥勒仏殿を首とする神像を集め、開光儀式を行なった。尊者はこの霊験あらたかな弥勒仏をよく供養するよう勧め、私に赤い聖なるひもを、母と管理人(gnyer pa)のために白い聖なるひもを授けた。

 尊者は私とラブジャムパ・ロサン・ツルティムに寺院内の神像、経典、法器などを書き出した台帳を渡し、像のなかのものが痛んだり、欠けたりした場合、新しくした。神像はすべて献浴したり、金色を塗ったり、開眼供養をしたりした。

 四月最後の日は土曜(spen pa)と牛宿(be’u)が交わる日だった。この日は新しく納められる仏像の中規模の開光儀式が行なわれた。尊者は金剛杵鈴を私に、長耳帽をラマ・シャルツァンに、もうひとつの金剛杵鈴をラマ・ガンデン・ティパに賜った。

 尊者は「私のするべきことはすべて終わった」と仰せられた。我々は再三尊者に仏法が滅びる際の祈願について教えを請うたが、ただ読経するのみだった。また占いをしたが、吉と出るものはなかった。

 その日の午後、尊者の御前にいたのは私ひとりだった。尊者は私がチベットへ行ったあと、どうするべきかについて示唆した。

 七日、病状はやや持ち直したが、昨日と大きく変わるというほどではなかった。みな読経し、祈祷した。法事のあと尊者は笑みを浮かべていたが、声は出せるものの、動悸が見られた。(症状悪化を知らせるため)人を役所や寺院にやった。(回復を願う)祈祷はつづけられた。

 その夜私は尊者の前に侍った。病状が安定したとき、尊者は「こんどばかりはどうもよろしくないようだ」と仰せになり、私に足を按摩するように頼んだ。尊者は私の頭に口で触れ、手で撫でたあと、「おまえには深い恩があるよ。おまえと別れなければならないのは、なんとつらいことだろう!」と仰せられるさまは、悲しみに満ちていた。

 医師チュージェ(Chos rje)とツルティム・サンポがやって来た頃は病状も落ち着き、明け方、手や頭を洗った。しかし目は空中をさまよい、だれかがそこにいるかのようだった。ふと医師チュージェに仰せられた。

「天からカタが降ってくるぞ!」。

「何ですって?」と聞き返すと、

「雨が降っているといったのだ」と仰せられたまま、沈黙した。

 そのあと私がそばによると、「今日、その日がやってきた」。

「今日は六日ですよ」とわざと言うと、尊者は笑みをこぼした。

 実際八日にダーキニーたちが迎えに来ることは予知されていたのだ。

 尊者はいつも一粒の仏舎利を携帯していたので、それに霊験があるのではないかと私は考えた。ただし尊者はその考えに同意せず、

「もうやめてください。(死ぬことを)妨げることはできません」とお答えになる。

 私は尊者のために無量寿経を読み、長生呪経を念じたが、尊者の読経のほうが(死ぬ寸前であるにもかかわらず)声が響き、美しかった。

 まさに長生呪経を誦していたとき、尊者のからだは突然硬く伸び、金剛座の姿勢から菩薩座に変わった。右手は右の股の上に、金剛杵鈴をもった左手は左の腿の上に置かれ、観音の心、またヴァジュラ・サットヴァの姿勢で法界へ入った。

 我々は救い主を失ってしまったのではないかと恐れたが、復活の希望も同時に持ち、およそ半日叫ぶように誦していた。そしてついに尊者が光明法身サマーディ(’od gsal chos sku’i ting nge ’dzin)の境地に達せられたことがあきらかになった。

 逝去の二日後にチュージェ・クリムパ(Chos rje sku rim pa)、六日後にギュパ・ラマ(brGyud pa bla ma)、パサ・チュージェ(Ba sa chos rje)やその他大勢の弟子らが弔問に訪れた。アルシャー(阿拉善)地方の僧侶、官吏、善男善女、檀越、ドメ地方の多くの寺院の祭りを司る僧侶、オルドス地方の官吏、施主らさまざまな人々が訪れ、供養していった。だれもが祈祷をし、人によっては戒を受けることもあった。在家の居士は居士戒や食の戒を守り、十善を維持した。

 遺体の安置に関して、尊者は生前語ったことがある。あるとき塔があり、そのなかに骨があることを知って、仰せられた。

「彼らは功徳を積んだ高僧です。もしこのように遺体が保存されるならそれはたいへんいいことです」。

 またあるとき、医師チュージェがチャキュン(Bya khyung)のドンチュブ活仏(rJe Don grub rin po che)の遺体から甘露が流れ出した話をすると、

「水が出てくるのは奇妙です。油であるなら、それは甘露といえるでしょう」と仰せられた。

 当時はさして気にもとめなかったが、いま思い返すに、遺体の安置の仕方について言及していたのだ。私とギュパ・ラマ、チュージェ、さらにラブジャムパ等を加え、みなで協議し、遺体を完全に保存することに決めた。

 以上がンガワン・チューダク・ギャツォ・ペーサンポの聖なる行い、本性伝である。ドメ地区に光臨し、衆生に教えを広めた聖者の最期の姿である。

 尊者がチベットの大寺院にいた頃、ツォンカパの黄帽派の教えを担っていたのは、雪の国チベットにおいてアミターバの化身とされる一切知尊者パンチェン・ラマだった。尊者はひそかにウー(中央チベット)やドメ地方、モンゴルなどをめぐり、多くの弟子をつくった。

 アティーシャの化身ジェ・ゲレク・ギャンツォ(rJe dGe legs rgya mtsho)は主要なひとりで、尊者とは互いに師であり弟子であった。

 弟子のなかでもっとも若いのがプルプジョ(Phur bu lcog)のジェ・ンガワン・チャンパ・リンポチェ(rJe Ngag dbang byams pa rin po che)だった。プルプジョ寺の禅洞や「ラムリン(Lam rim)」に関しては尊者の教えがあるが、これらは座主チャンパ・リンポチェから聞いたものである。

 ドメ地方に来臨してからの主要な弟子は、先代チュサン活仏(Chu bzang rin po che)、先代トゥカン活仏(Thu kvan rin po che)、セルコ寺座主シャルワ・ロサン・パンデン(Zha lu pa bLo bzang dpal ldan)、パンジョルパ・ホトクトゥ(dPal ’byor pa ho thog thu)、デンマ活仏ンガクワン・ケードゥプ(’Dan ma sprul sku nga dbang mkhas grub)、カジュ・ラマ(bKa’ bcu bla ma)等である。

 このなかでデンマ活仏には尊者自身が居士戒とンガクワン・ケードゥプという法名を授け、チベットへの留学も尽力したのである。

 モンゴルでの筆頭弟子はカルカのツェンチェン・ノメンハン(mTshan chen no mi han)である。ナーロ・パンチェン(Naro pan chen)もまた弟子だった。

 このほかにも弟子はたくさんいるが、数え切れないほどである。

 さて本書は以下の大徳の命により成立した。

 ツォンカパの化身ティ・ギャナクパ・ロサンテンパ・ニマ(Khri rGya nag pa blo bzang bstan pa’i nyi ma)。

 座主ンガクワン・チャンパ・リンポチェ(mKhan po Ngag dbang byams pa rin po che)。

 セルコ寺座主シャルワ・ロサン・パンデン(gSer khogs kyi rje btsun Zhva lu pa blo bzang dpal ldan)。

 筆者は尊者と縁があり、また崇拝し、尊敬してきた者であり、大きな恩を感じている。そして心から衆生のためにその教えを広めたく思い、筆をとったのである。

尊者の卑しい末弟子、荒れ果てた土地の田舎者、釈迦の信者、エテニ・ノムンハン・ンガクワン・ルントゥブ・ダルギェ(E rte ni No mi han Ngag dbang lhun grub dar rgyas)、別名ラツン・ンガクワン・ドルジェ(Lha btsun ngag dbang rdo rje)、火の牛の年(1757年)の秋の三番目の月(九月)、善神が降臨する吉日、月の満ちる時分、ギャナク・ランリ(rGya nag glang ri 賀蘭山)の麓、アルシャーのペンデ・ギャムツォ・リン(A lag sha’i Phan bde rgya mysho)にて。



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