名前 

アブドゥル・ガニー・シャイフ  宮本神酒男訳

 

 レイト・ナイト・ショーが終わり、ホールの外に出たところで私はその男と出会った。歩くと、冷たい風がまわりから厳しく吹きつけてきた。最後の数人の観客を乗せたタンガ(馬車)が過ぎ去った。われわれ二人だけが道に取り残された。

「どこに行くんだね?」

「ラムナガル」

「私もそっちへ行こうとしていたところだ」と彼は言う。「さあ歩こう」彼の声は命令口調だった。寒さを防ぐために耳まですっぽりとマフラーで包んだ彼の顔は、暗闇のなかでよく見えなかった。

「映画はくだらなかったね」とこちらを見ることもなく彼は言った。「彼らはヒンドゥー・ムスリム共同体みたいなものを創るんだけどね。ムスリムのやつらはいつになったら正しい道を歩めるんだろう」

 この男はいったい何を考えているのだろうと私はいぶかしく思い、彼といっしょに家の方向に帰ることを後悔した。

「こいつらは毎日何か策略を練っているのさ」と彼は言うと、激しく咳き込んだ。

 奇妙な男だな、と私は思った。彼は私のことをほとんど知らないのに、忌憚なく意見を声に出して表明していた。

「どうだい、きみ、賛同するかい?」私が答える前に彼はつづきを話し始めた。「この国に住みたいのなら、まずはよき市民であるべきだよ」

 もし彼が私の名前を聞いてきたなら、ウソの名前を言おうと私は心の中で決めた。職業も住所もウソをつこう。

 しかし彼は相変わらずしゃべりつづけた。

「あいつらはヒンドゥー教徒の地域でも行進するからね。なのにムスリム地区でヒンドゥー教徒が行進しようものなら、あいつらは騒ぎ立てて、行進する人々に向って石を投げつける。それに辛辣な言葉を浴びせて、寺院やモスクでは暴れ回る」

 彼がしゃべっている間、私はウソの名前をラムラルと決めていた。私はまたさしさわりのない響きの職業を選び、住む地域も変えた。

「あいつらは国の主流にも参加しないからな」彼が話すのを私はただ聞いていた。「実際、あいつらの目はアラビア半島やイランのほうにばかり向けられているからね。映画ひとつでそんな連中を変えられるわけでもないだろう。どう思うかね?」

 私は即答できなかった。ほんの一瞬、私の心は勇気をふりしぼって、この映画は道徳的には正しく、異なる考えを持つコミュニティの統一を進めるという意味では悪くはない、と言おうかとも考えた。しかし次の瞬間、見知らぬ人と論議するのは適切ではないという心の声のほうがまさっていた。彼がどんな人間であるか、私はすがめで観察していた。彼の胸は広く、私より背が高かった。私よりは強そうである。顔を見ると、一部は影に隠れていた。ふたつの長いひげが唇から出ていた。彼の目は熾火(おきび)のように輝いていた。おそらくポケットにはナイフが入っている。夜陰に紛れてそれで私の胸を一突きするかもしれない。私は震えはじめた。おなかをすかして、心配そうな妻と子供たちの顔が目の前に漂い始めた。

 一刻も早く家に帰るべきだと私は自分に言い聞かせた。しかし臆病者という言葉が飛び出してきそうだった。いまいちど私は、エキセントリックな人と論議するのは臆病なことだと自らに言った。彼は相変わらずノンストップでしゃべりつづけ、私はつぶやきながら相槌を打った。

「しかしヒンドゥー教徒は劣っているのか?」と彼は声のトーンを変えた。「あいつらだってゴロツキだね」

 びっくりして私は彼の顔をしげしげと見た。しかしそれは読みがたく、無表情だった。相変わらず私を見ないでしゃべりつづけた。

「あいつらはマイノリティにたいして犯罪をしている。人の死なんてどうってことないと思っているのさ。ところが牛が死ぬとなると天地も動かさんばかりだ。ときおり扇動者が子牛を殺して井戸に投げ入れているし。寺院から神像を盗んでムスリムのしわざに見せかけることもある。結果として無実の人の血で手が汚れるってわけさ」

 ほっとして私は自分の名前を取り戻したような気がした。私はふたたびジャーナリストになり、住んでいる地域は……。私はウソをつこうとしていた自分を攻めはじめていたが、男はつぎの話題に移って何かつぶやいていた。

「ヒンドゥー教徒に国としてまとまるように忠告する前に、マイノリティはいかに平和に暮らすか教わるべきだね」と彼は話しの流れをまた変えた。「政府はあとどれだけムスリムに選挙に参加するよう懇願するのかね。どれだけマイノリティに耐えつづけろというのだろうかね」

 私はまた苦境に陥った。私はラムラルに戻り、職業を変え、住所も変更した。メンタルを抑え込んで、人を傷つけるようなことはすべきではないと自分に言い聞かせた。結局のところ礼儀正しさというのは重要だった。本当の名前を明かしてこの男を不快にさせていいものだろうか。このあわれな男は心の苦しみを表現しているだけのことだ。私はそれで何を失うというのか。

「この映画のどこがよかったと思う?」と彼は私を不意打ちした。

「いい映画とはいえないけど、そんなに悪くもないかな」と私は言葉を慎重に選んでこたえた。

「そうだね」と彼はうなずいて私をじっと見た。「実際、この映画はわれわれの政府みたいなもんだ」

 彼は政治について語り始めた。

「国民を扇動しているのは政治家だし、国民をけしかけて喧嘩させて、漁夫の利で議席を得ているのさ。普通の人もみな権利を主張する。結局政治家の自己中心的なおしゃべりの影響を受けて、互いの喉を掻き切っているのだ」

それから彼は社会の公正さや人の友愛についてしゃべりはじめた。私は自分が愚か者のように思えてきた。私の存在は、自己がふたつに割れ、本当の名とウソの名の間で揺れる振り子のようだった。前方にラムナガルのバス・ステーションが見えて私はすこしほっとした。

「あんたは何も言わなかったな」と彼は優しい声で言った。

「ええ、あなたがずっとしゃべっていたので……」と私は曖昧にこたえた。

「ラムナガルのどこにお住まいですか」

 わが心臓はドクンドクンと鳴った。いま彼は私の名と職業と住所を聞いてくるかもしれない。しかしまたも私がこたえる前に彼は自分の心の苦痛をぶちまけはじめた。

「もし私にその力があるなら、この政府を根っこからひっくり返してやりたいよ」

 エキセントリックな奴だ! 頭おかしいぞ! と私は心の中で彼を責めた。

 バス・ステーションの傍らの古い屋敷の前で別れる際、男は私の手をぐっと握り、「おあなたのお名前すら聞いていませんでした」と言った。

「ラム・モハメド」と防御の盾を下ろしながら、私はぶっきらぼうに、本当の名とウソの名を組み合わせた、混乱したニューバージョンの名をつぶやくように言った。

「あなたと話せて本当によかったです」と彼は私が修正する前にこたえた。「私はドスーサです。私は大学で哲学と心理学を教えています」

 私は街灯の明かりの下で彼を見た。人を恐れさせるような顔つきではなかった。その目は熾火(おきび)のように輝いているわけでもなかった。