UFOに拉致されたと正直に話したら、怪訝な顔をされた 


中国広西チワン族自治区の奥地で事故、あるいは事件に巻き込まれ重傷を負ったのが1993年1月末。頭がおかしくなって中国雲南省の保山と大理の町や山をさまよったのが同年の3月。およそ一か月間、ケガはまだ癒えていなかったが、しだいに通常の体力、思考力を取り戻しつつあった。日本であればもう少し長く病院にいることになり、CTスキャンを使った検査を受けただろうし、医師のきちんとした診断もあったはずだ。田林県の病院に入院した当初、私はまったく歩けなかったが、すぐに上半身を起こし、手を自由に動かせるようになった。

 そこへ田舎教師のような感じの初老の公安の男性がやってきて、「ここは未開放地区だから来てはいけない」といったことをこんこんと説いた。違反をしたことには間違いなかったので、ベッド上で身動きのとれなかった私はただうなずくだけだった。

 患者の扱いは悪くなかった。すべての(おそらく百種類以上の)ヤオ族の民族衣装や髪形を紹介した写真本を持っていることがわかると、病院中の医師や看護婦が集まってきて、それを見たがり、また話題にした。彼らの大半はヤオ族だった。私のベッドはさながら急造のサロンのようだった。

調書を取るために中学校の二十代の男性英語教師が呼ばれたのは同じ日だったかと思う。広い病室には私と教師のふたりだけだった。私は点滴の管につながれてベッドの上に横たわり、教師はすぐ横のベッドに腰かけた。当時の私はそれほど中国語ができなかったので、公安は私から英語で何が起きたかを詳しく正確に聞き出そうとしたのだろう。名前や住所、仕事、旅のルートなど基本的な質問をし、私が答えたことを彼は大学ノートにこまめに書き記していった。

 そして何が起きたか、という質問に対し、私は記憶していることを、ありのままに話した、つまり、UFOらしきものに拉致されたことを。今現在から見ると、相当にヘンである。話しはじめる前に「こんなことを言えば狂人と思われるかもしれない」と考えるべきなのに、そのまま話している。なぜならわずか二日か三日前のことであり、ありありと記憶していたからだ。それは恐怖体験というより、得難い体験であり、少なからず私は興奮し、機会があれば人に話したいとうずうずしていた。

 どういうふうに拉致されたのかはわからないが、私は吸い上げられるように上空の飛行物体のなかに連れていかれた。暗いメタリックな部屋の台の上に私は寝かされた。暗いというより、光そのものがなかった。光は必要なかったのだ。壁の向こうには逆にまばゆい何かがあるのがわかった。まわりには何人かの「人」が立っていた。彼らはよく知られるグレイ型ではなかった。生命を感じさせるものはなかったので、「人」というよりロボットに近かったのかもしれない。彼らは私からサンプルとしていろいろなものを採っていった。ピアノ線のような、目に見えない細い糸の管で私の精液を採ったのもこのときだ。同時に体の中に何かが埋め込まれたが、それが何であるかはわからなかった。

 こうして私がUFOによって拉致されたという話をしはじめると、英語教師の顔色がかわった、彼は手を止め、大学ノートをぱたんと閉じると、急に何かを思い出したかのように立ち上がり、部屋からそそくさと出て行った。話はこれからがおもしろいのに、どうして行ってしまうのだろうかと私はいぶかしく思った。同時に、これからは安易に真実を語るのはやめておいたほうがいいと痛感した。いまになって考えるに、頭が正常でない状態であることを示す最初のあらわれだった。頭のタガがはずれかけているのに、私はまだ気づいていなかった。

 復帰のためのプログラムがあるわけでもないので、私はひとりで歩行訓練をはじめた。毎日少しずつ歩行距離を長くしていき、十日後にようやく100メートルまで距離を伸ばした。ただし1時間かけてだが。ここで私は病院長に、歩けるようになったので退院させてもらいたいと願い出た。退院するには早すぎると言われたが、ともかくも認めてもらった。じつはお尻全体がビニールのプチプチ(気泡緩衝材と言うらしい)のような水ぶくれのブツブツに覆われていて、バスの座席にすわるのすらつらかった。

 そんな状態にありながら、何時間かかけて、貴州省、雲南省に近い広西チワン族自治区北西隅の隆林(ロンリン)にたどりついた。ここで雲南省昆明行きのバスに乗り換えるのである。驚いたことに、ここで知り合いの中国人青年と出会っている。前年、私はマウンテンバイクに乗って隆林から西へ数十キロ走りながら、ミャオ族やイ族の村々を訪ね歩く過程で彼と出会った。彼は漢族で、学校(中学)の教師だった。

 彼の案内で、村のライ(俫)族の若夫婦の家を訪ねた。その言語を調べるとベトナム語と近似している点が認められるが、つい最近55の少数民族の一つコーラオ(仡佬)族に編入されたばかりだった。正式にはコーラオ族支系ライ人となったのである。コーラオ族は隣に住む異なる民族だったのに、いつのまにか彼らはその民族の一部ということになってしまった。民族識別はつねにこういう矛盾を生みだしてしまう。ライ族は稲作民族であり、重要な祭りも稲作儀礼である。とりわけ六月六日の祭田節、七月十四日の新嘗祭はそのうちこの目でつぶさに観察したかったが、この地域とは縁遠くなってしまった。

 さて、この漢族の青年と隆林のバス・ターミナルで偶然再会し、情報交換もできたのだが(体調が万全であればもう一度この地に滞在したかった)、いま現在、本当に出会ったのかどうか、一応疑ってかからねばならないと思っている。すごい偶然だ、と感激したのだが、こんな偶然があるだろうか。この一か月後に相当頭がいかれてしまうことを考えれば、実際に再会があったとは確信をもって言えない。だれか知らない青年に向かって頭のおかしな日本人がブツブツつぶやいていただけかもしれない。

 

⇒ つづく