アガルタ 

9 テロスとその近郊のツアー 

 

「ママ、いま何時?」大きなあくびから質問がもれた。ボサボサ髪の、赤毛の女の子はベッドの上で上半身を起こし、背筋を伸ばした。「日光じゃない!」

「時計は動いてないのよ」娘のベッドの端にすわったナンシーは言った。「何時なのかさっぱりわからないわ。昨晩もベッドに入ったとき、暗くなってなかったし。でも十分休めたわ。さあ起きる時間よ。見るべきもの、発見すべきものがたくさんあるわ。学校がはじまるみたい。学校があれば通うべきね。ここに幼稚園はあるのかしら。あるのなら、どこにあるのかしら。時間という概念がないのなら、昼も夜もないのなら、いつ起きて、いつ寝るのかしら。ティムに聞かなくちゃ」

「ママ、なんてひどい朝ごはんなの! ふつうのミルクとシリアルが欲しい! コーヒー、自分でいれられないの?」

「できないわ。ストーブがないんだもの。起きたとき、地元の食べ物の皿が置いてあった。ティムが用意してくれたのね。グリーン・ミートボールみたいでおいしそうだったわ。パンも添えてあった」

「チーズはないの? チーズがほしい!」

「あるものを食べなさい、エリー。食べ物についてティムに話してみるわ。さあ、来て。プールで泳ぐのよ」

 ナンシーはため息をついた。アメリカとはなんて違うんだろう。こことシアトルとの大きな、革新的な違いを娘は理解できるだろうか。いまエリーにとってもっとも重要なのは家でいつも口に入れているシリアルとミルクとチョコレート・ドリンクだった。ナンシーもコーヒーが恋しかった。一般的な朝食がほしかった。昨晩おばあちゃんがスウェーデンから持ってきた食べ物をみんなに分けたが、すばらしくおいしかった。

「いままで慣れ親しんだものと、ここのものが、どんなに違うのか」元気な声が響き渡った。それはぼくの声だった。地元の食べ物をめいっぱい入れたバスケットを持ってぼくが戻ってきたのである。「南海で難破し、島に漂着したと想像しよう。そうすると村の人とおなじものを食べなければならない。でもそのうち慣れてくる。ここもおなじだよ。慣れてきたら、こんどはほかのものを食べたいとは思わなくなる。ぼくにもおなじことが起きたんだ。ハムも、ラム・チョップも、レアのステーキも忘れちゃったよ」

「やめて!」ナンシーが横やりを入れてきた。「たしかにすぐ慣れてくるわ。エリーもそう。でもここに来たことがほんとうに正しかったのかって自問自答してるの。エリーに押しつけてしまったのだし」

 ぼくが怒る番だった。「ナンシー、たしかにちょっと強烈すぎるかもしれない。それが楽園というものだけど。チョコレートマフィンも、イングリッシュマーマレードも、ゼリー仔羊もないんだからね。もっとも重要なことは、もちろん食べ物じゃない。内部の問題だ。つまり内なる生活ってこと。ここでは愛、楽しみ、美しいこと、友情、慈しみが重要なんだ。まあ、ぼくよりうまく説明できる人がここにはたくさんいる。外でおばあちゃんはエリーやティッチと話をしているよ。さあ、ツアーに出かける時間だ」

 ナンシーはすねていた。それでもティッチやほかの人のあとを追ってぼくが準備したホバークラフトへと向かった。みなが座席に着くと、機体は上昇し、地面から数フィートのところでホバリングした。美しい地域に広々とした家々が建っていた。道路はなく、草原のなかに数本の道が走っているだけだった。道が少ないので、人々は遠くに出かけることがなかった。

「地上では加工された食べ物を食べる。それらは遠くから運ばれてくるよね」ぼくは慈しみの目でナンシーやエリーを見ながら言った。「食べ物を作ったのは見知らぬ者たちだ。それらには彼らの個人的なエネルギーがそそがれている。つまり地上の食べ物には雑多のエネルギーが入っている。それらは当然すべて清潔で純粋とはかぎらない。いまぼくたちが食べているのは、近所で採れたものばかりだ。それらは加工されたものではなく、完全に自然由来のものだ。ぼくたちは料理をつくることを、素材を使って創造することをたのしんでいる。これらに副産物はないんだ。食べ物に熱を加えると栄養価は破壊される。硬い豆類は違うけどね。それらは調理しなければならない。地元で育った種でなければならないけど」

「どこでそれらは入手できるんだい?」おばあちゃんが聞いてきた。「食料品ストアでもあるのかい」

「そのとおりだよ!」ぼくは叫んだ。「歩いてそこに行くことができるし、ホバークラフトで行くこともできる。そんなに遠くないんだ。同時期にだれもが穀物を持っているというわけでもないからね」

「でもここでだれひとり働いている姿を見たことないわ」ナンシーが口をはさんだ。「見えない奴隷があなたのために働いているのかしら」

「みんな一日に四時間働いているんだ」とぼく。「休息なしで集中して働いているんだ、仕事を片づけるためにね。すべてがよく組織されている。でも奴隷なんていない。休暇を取るのに許可は必要ないんだ。というのもみんな楽しんで仕事をしているから。問題なんてないでしょう」

「工場はあるでしょう?」とナンシーは不満げに言う。「そこでの仕事ってたいていは単調すぎるし、汚いこともあるわ」

 ぼくは親友のかわいらしい妻が挑んできているのがわかった。しかしそのときエリーが母親の救済のためにやってきた。「あたし、砂と水から紙を作ることができるよ!」そう彼女は必死に主張した。

「ぼくたちはヘンプを使うんだ」ぼくはほほえんだ。「それで立派な紙ができるんだよ。それがどうやって作られるか見てごらん」

「顔に太陽の光を受けるのは、なんてすばらしいことかしら」と、突然おばあちゃんが言った。「日焼けをしているのとは少し違うけど」

「ここにいないほうがいいよ」ぼくはおばあちゃんの肩に手を置いて説明した。「ぼくたちの太陽は基本的に電磁気でできているんだ。だから危険な光線を生み出さない」

「テロスって大きいの?」閉まったままの乗り物のなかで、立ち上がり、目いっぱい腕を伸ばしながら、エリーは聞いた。

「エリー、静かにすわってて」ぼくはエリーをたしなめた。「テロスはとても大きいよ。でもテロスは国じゃなくて、アガルタって王国の主要都市なんだ。この国は地球の内側にあるんだよ。ほんとに大きいんだ。通常の地球みたいにさまざまな国や州があり、異なる人々が住んでいるんだ」

「とてもすばらしいわね」おばあちゃんの目は輝いていた。木々のあいまから静かで、心地よい、あたたかい光が漏れていた。そのシルクの光線がぼくたちの顔を刷毛のようにくすぐった。気流にぶつかったかのようだった。空中で一瞬乗り物は止まった。そして地面から数インチ上のところまで下降した。ぼくがまず降り立った。三人の同志たちもあとから降りてきた。

 ぼくたちが止まった場所の近くには水面が輝いていた。緑の草むらから小さな橋が出ていて、その先には島があった。島は空と湖をつないでいるかのようだった。上のほうでは青くふるえ、エメラルドグリーンに変わっていくさまは、ある意味、波間に漂う類まれな宝石そのものだった。ぼくは裸足で20フィート(6メートル)の橋を渡った。渡り切ったところにも緑の草むらが輝いていた。ぼくはここに何度も来たことがあった。この驚くべき場所のことをよく知っていた。

 花の海に囲まれたパビリオンがあった。その上にはポルトロゴス(Porthologos)という文字が彫られたアーチがかかっていた。ここは、テロス中に広がる巨大なライブラリーの入り口のひとつだった。壁が宝石でできたパビリオンは信じがたいほど美しかった。内側に階段があり、それは下方へとつながっていた。その内装は教会のようであり、内部を覆う石は光を反射し、屈折させ、無数のニュアンスを醸し出していた。おばあちゃんとエミリーは立ち止まり、両手をたたかずにはいられなかった。

 観光客みたいにナンシーはまわりを見回した。「階段はどこへつながっているの?」と彼女はたずねた。「ハデス(冥界)かしらね」と言いながら自分でクスクス笑った。ぼくはそのジョークを評価しなかった。

 エリーはハデスの意味を知らなかったので、まわりのことを気にすることもなく、ときどき美しい宝石にタッチしながら、あたりをピョンピョン跳びまわった。エリーはたしかにだれかに強いられてここに来たわけではなかった。そんなことを考えながら階段を下っていくと、ティッチがぼくの足元を抜いて駆けおりた。彼はゆっくりと進むのがいやなのだ。まるで足が不自由な二十歳の乙女を導くかのように、ぼくはおばあちゃんの手をとって降りていった。ナンシーはエリーをしっかりと胸に抱きよせていた。娘はちっともこわがっていなかったけれど。こわがっていたのは、むしろ母親のほうだった。ぼくの考えは正しかった。その表情に何度も恐怖の色が浮かび上がったのだ。

 階段の下のほうに光があり、ぬくもりがあった。美しく彫琢された入り口に立ち、出迎えてくれたのはマヌルだった。彼はぼくらひとりひとりを抱擁した。エリーにたいしてはもっとも大きなハグで迎えた。背の高い男がエリーを抱き上げ、空中に高くあげると、彼女はサークル状に舞ったかのようだった。彼がエリーを下ろすとき、彼女は手を彼の首にまわしていた。

「あんたのこと、大好き!」とエリーは言った。「あんたとティッチはあたしの親友だからね!」ティッチはすでにしっぽをうれしそうに振りながらアーカイブのほうへ入ろうとしていた。

「わたしたちはすでに世界最大のライブラリーのなかにいます」マヌルは英語で声を張り上げた。英語はもっともよくつかわれる言語だった。おばあちゃんに話しかけるときだけぼくはスウェーデン語を使う。もっともおばあちゃんは英語が好きだった。英語で話すのも本を読むのも得意だった。

「わたしたちはほとんどすべてのものをここで見つけることができます。それが地球上の過去であろうと現在であろうと、あるいは宇宙のどこであろうと」彼はつづけます。「本のかわりにここにはアクター(俳優)がいます。彼らが質問に答えてくれます。答えとしてシーンを演技するのです。ちょっと待って!」

「ここに本はないの?」ナンシーは怒って叫びました。「本がなかったら、ライブラリーじゃない!」

「なんでもいいから聞いてごらん」ぼくは言った。「本はもちろんあるよ。ただ芝居はもっと一般的なんだ」

「マーリンって呼ばれる者はほんとうに存在したの? それとも神話にすぎないの?」ナンシーはすぐさまたずねた。

「じゃあわたしといっしょに来て」マヌルは叫び、両側にドアがある広い廊下へとぼくたちを導いた。

 この特別なライブラリーがどのようなものであるか、説明しなければならない。それはもともと途方もなく大きな洞窟だった。知識の尽きない貯蔵庫のなかに、フィルムとリアリティを組み合わせた小さなステージがあった。また、通路と部屋のネットワークが――ガイドが必要とされる――張り巡らされていた。われわれには十分なガイドがいて、エレメンタル(四大元素)やホログラムも十分にあった。

 ここの住人はみな学びたがった。共生関係のなかで生きることによって、集合的知識から恩恵を受けていた。これらは個人に移すことが可能だった。そして質問は歓迎された。ライブラリーはそのために存在していた。

 マヌルのあとをついて通路を進んでいるとき、ぼくはこのことをナンシーに説明しようとした。心地よい座席付きのシアターを思い起こさせるブースの近くでぼくたちは止まった。ステージからぼくたちを歓迎したのはマーリンだった。彼は自分が実在したこと、また重要で、尊敬されていたが――同時にうらやましがられていた――魔法使いだった。彼はいくつかのマジックを披露し、エリーは喜びの叫び声をあげた。突然彼女のひざの上に白い小さなウサギが現れたかと思うと、つぎの瞬間には消えていたのである。

 彼はナンシーに自分の生活について説明した。彼はいくつかのシーンを演じ、いくつかの場面をフィルム・クリックで見せた。広く知られた魔術師は結論を述べた。「わたしには話をつくる能力も、人をだます能力もありません。いま、地上は意識的にせよ、無意識的にせよ、ペテン師に支配されています。彼にとっては、人々をあやまった方向に誘導するのもつとめなのです。

「でも新しい時代が来つつあります。地上はいままでになかった清掃や浄化を断行しようとしています。痛みや無垢な者の犠牲を伴うかもしれません。しかし結果は愛と真実の名のもとにおける再建なのです。地球はこうして光の運び手になったのです。わたくし、マーリンは、永遠の真実の名のもとにこのことを宣言します」。ステージは暗転した。

 ぼくたちは催眠術にかかっていたかのようだった。するとナンシーが立ち上がり、わめき出した。「でもこれって、所詮は戯曲でしょ。リアルではないわ。このように表現するのも演技者の役割。蔵書を読むことできるかしら?」 

 ぼくは唖然とした。おばあちゃんもぼくの腕をつまんだので、ショックを受けているようだった。エリーは泣きはじめた。

「ママ、全部ほんとのことでしょ? ほんとだって言って!」

 マヌルは小さな少女を抱き上げ、耳元でささやいた。すると涙はほほえみに変わった。彼がなんと言ったかはわからない。でもエリーを元気づけたのはたしかだった。これは何にもまして重要である。

 ライブラリーのほんの一部を見るだけでもたいへん長い時間を要した。ところどころに大きなギャラリーがあり、壁にすばらしい絵画がかかっていた。そこにはテーブル、椅子、ソファがあり、つい休憩をとりたくなるのだった。

 空腹を覚える頃、ぼくたちが立ち止まると、リフレッシュするのにいいドリンク類が現れた。ウェイターやウェイトレスの姿は見えなかった。マヌルが説明するには、ギャラリーのひとつに到着したとき、リフレッシュできるよう自らが準備していたという。エリーは素直に聞いていた。というのも出されたものを飲み終えたばかりだったからである。ナンシーは注意深く飲み物を口の中に入れ、すぐには飲み込まなかった。まるで毒殺を恐れているかのように。

「ティッチで試してみる? もしよければ」ぼくは少し意地悪く提案した。「この犬はなんだって胃袋に入れられるから」。おばあちゃんは、なんて言い草なのって感じの目つきでぼくを見た。でもナンシーはパンをとり、犬に食わせた。犬はそれを飲み込み、もっと欲しがった。ぼくはさらにパンをとって犬にやった。

 エリーは疲れを感じはじめているようだった。そこでぼくはマヌルにここで休めないかと聞いた。彼は出口までぼくらを案内した。そこでエレベーターに乗り、外に出た。そこは昼間のように明るかった。

 ぼくが考えるに、ここに住むのがむつかしいとすれば、それは昼と夜がないことだった。太陽の光はやさしく、永遠で、変わることがなかった。地上の居住者にとっては、気候になれるのは容易ではなかった。しかし長くいれば慣れてくるものである。 


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