アガルタ
24 バチカンの枢機卿
「おめでとう! バチカンからいらっしゃった高貴な方との新しい仕事がスタートすることになりそうね」ホバークラフトから降りながら、妻はからかい口調でそう言った。家でマヌルとともに待っていたのは、バレンシオとスーツ姿の身なりがきちんとした中肉中背の男だった。彼こそがライムフォート枢機卿にちがいなかった。
片膝をついて礼を尽くすべきだという考えが頭の中をよぎった。ぼくは彼の顔をよく見た。やさしくて、フレンドリー。色白で、鼻はすこしだけ高く、目は鋭かった。目と口のまわりにはくっきりと線が浮かんでいた。頭頂に灰色の髪の輪があるほか、頭はきれいに剃られていた。彼はとても楽しそうだった。彼は仕立てのいいスーツを着ていて、その下のシャツは藤色だった。片膝をつく時間的余裕はなかった。カトリック教徒ではなかったので、判断がむつかしかったのだ。驚いたことに、彼のほうからエレガントに膝をつき、ぼくの手にキスをした。ぼくはほっと胸をなでおろした。そしておばあちゃんが放った言葉を思い出していた。この人物がおばあちゃんに言わせれば「いかれた男」ということになるのだが。
「ありがとう」完ぺきな英語で彼は語尾を上げながら言った。「被後見人のバレンシオの面倒を見てくれて感謝の念に堪えませんな。あの子がいなくなったとき、ここに来てるんじゃないかと思いましたよ。アガルタの話をしたことがあったんで。わたしは来たことなかったんですが。若いころ、聖職につく前、あなたの国のことをある船乗りがたっぷりと語ってくれたことがありました。それ以来いつか行ってみたいと思っていました。そうしたある日、法王さまが少年を探していると聞きました。そしてわたしに少年を探して連れ戻すようお命じになったんです。法王さまが父であることは公にされていません。バレンシオが戻りたいのなら、わたしが手助けしてあげましょう。あの子が生まれてからずっと、わたしが父のかわりだったのです。バレンシオは枢機卿になるべく育ててきました。とはいっても本人の気持ちが尊重されるべきなのだが」
ぼくは老紳士の腕をとり、家の中へと導いた。妻が丹精込めて淹れた強めのコーヒーをこの高位の聖職者は喜んで飲んでくれた。
「枢機卿さま、地球内部のこの国のことをもっと心にかけていただけますでしょうか」老いた聖職者がこちらに向かってひざまずいていることに動揺しながらぼくはたずねた。ティッチは枢機卿の体をクンクンと嗅ぎ、手をなめ、横に座った。いつものように感性鋭いわが犬は肯定的な感情を表現しようとしていた。
「ありがとう! そうするとしよう!」ラインフォートはうなずき、笑顔を浮かべた。「喜ばしいことです。ここにわたしは滞在することになるでしょう。バチカン内部の仕事は多すぎて負担になっていました。わが息子はここにいるのです。そしてここに残りたがっているのです。そのことを理解しているということは、あなたはおなじ神を信仰しているということですね」
シシーラはほほえんだ。「創造主の光は尽きない源から、すなわち生命の源から発せられます。わたしたちは源、光、そして互いの調和によって生きています。こうしたことは神のわたしたちへの愛のあらわれなのです」
「ふーむ」枢機卿は考え深げに言った。「そんなとらえかたは聞いたことがなかったですな。しかしすばらしい考えです。全面的に賛成します。数日間ここにいられることを、そしてあなたがたのことをバレンシオとともに、まあバルと呼んでいるのだけれど、より深く学べることを感謝したい」
「枢機卿さま、私が案内いたします」とマヌルは言った。今の今まで聖職者の隣にいながらネズミのように静かにしていた。「私たちの世界にも祭司がいます。この祭司は精神哲学に詳しいのです。ともかく、すばらしい田舎を体験していただければと思います。そしてテロスにはとてもよいゲストハウスがあります。枢機卿さまにはそこに滞在していただきます」
「バレンシオといっしょに滞在できるなら、喜んでお受けしたい」枢機卿は立ち上がってまず妻に一礼し、そしてぼくに一礼した。そしてマヌルとともにホバークラフトのほうへと歩いていった。
「枢機卿はここにいたくなるはずよ」妻は確信をもって言った。「なんてすばらしい人だこと」
ぼくは枢機卿が来たという知らせを持っておばあちゃんのもとへと急いだ。ぼくが姿を現したとき、おばあちゃんと「新しい夫」レックスはガーデンでランチを食べていた。おばあちゃんはぼくをハグした。
「なんていい子だこと」彼女は声を上げた。「ああなたがどこへ行ったのかしらと考え始めていたところよ。わたしたちはエキサイティングな場所を訪ねていたのよ。たとえばボタニカル・ガーデン。ここには地上から持ってきた植物が展示されているの。想像してみてちょうだい。馬脚(フキタンポポ)やブルーアネモネ、谷間の百合みたいなあたし好みのものがたくさんあるのよ」
それからぼくは法王の息子と彼の保護者である枢機卿がここで会ったこと、また枢機卿がここに滞在するつもりであることを彼らに伝えた。おばあちゃんはうれしくてたまらないといったふうだった。
「ここの人たちってなんてすてきなのかしら」彼女は笑った。「パーティやらなきゃね。枢機卿と会えるのね。宗教について話せるのね」
レックスとぼくは目くばせしあった。ふたりともおばあちゃんをがっかりさせたくなかった。
「ウェーサーカ祭(仏教の祭り)がおこなわれます」とレックス。「地上と同時におこなわれるのです。それはブッダの誕生と覚醒を祝う祭りです。光明に捧げものを献じるのです」
「聞いたことないな」ぼくはこたえた。「上で聞いたことなかったし、下でもなかった。でも神さまの祭りみたいだ。ふたりの神さまはどう違うのかな」
「まったくおなじですね」レックスは表情を変えずに言った。「違いはまったくないのです。われわれは偉大なる霊と源、分かちがたい全体のなかで結ばれた一なるものに囲まれているのです」
「ぼくはどんな宗教にも没頭したことがないんだ」とぼくはややうろたえながら告白した。「ここに正教といえるものがあるなんて知らなかった」
「信仰と呼びましょう」レックスは指摘した。「宗教という概念はもうここではなくなってしまいました」
「ここの教育ってどうなってるのかしらって思うことはあるわ。とくに高等教育」とおばあちゃんは言った。「小さな子供がポルトロゴスで学ぶってことは知っている。でもほかの種類の教育があるはずよ、祝業訓練みたいなのも含めて」
「ありますよ」ぼくはこたえた。「教育センターはどこにもあります。それはわれわれの大学とおなじです」
「すばらしいわ」おばあちゃんは声高に言った。「バレンシオのことを考えていたの。勉強をつづけることが害をもたらすことはないわ。アルメニア語やラテン語、そのほかの古代言語がしゃべれたらすごいとは思う。でもいま必要なのは、地上の一般知識やレックスとあたしが働いている五次元について徹底的に学ぶことなの。あたしが魔術に興味を持っていることは知ってるでしょ? 白魔術は五次元に属するの」
「実際、ぼくがマヌルから学んでいるのはそのことなんだ」とぼくは言った。「マヌルやアーニエルという友だちからいま学んでいるんだ」
おばあちゃんはホッホッと笑った。「謙遜という言葉は教えてもらってないみたいね」と彼女は言った。「あとで五次元的になったときにそうなるんでしょうけど」
「部分的にはぼくは五次元的だよ」少し拗ねてぼくはこたえた。「五次元の女と結婚したんだからね」。シシーラの両親の家を訪ねたことを話すと、おばあちゃんはうれすそうだった。
レックスが言うには、ぼくは古代にルーツを持つ伝統ある家族の一員になったということだった。そして急いで家に帰って祝うべきだと言う。ぼくはあわてて彼らに暇(いとま)を告げた。枢機卿の世話をしなければならなかったし、妻を連れて祝祭へ行かなければならなかった。両方ともうまくやらなければならなかった。