アガルタ
29 オールド・マザー・シャルナの贈り物
われわれはきわめて大きい岩窟のなかにいた。上品に家具がしつらえてあり、高さのある長椅子に坐ることができた。鈍い色の安らぎを与える光が充満していた。瞑想音楽が背景に流れていた。肘掛け椅子がいくつかあったが、それはあきらかにセラピストと患者のために置かれていた。突然老婦人がイスのひとつに坐っていた。彼女がどうやってそこに現れたかは謎だった。
「患者ですか」ヴァルを指しながら彼女はたずねた。ティッチは大胆にも匍匐(ほふく)して彼女のそばに近寄った。かき混ぜるのに忙しかった彼女の手はいまぼくの犬をやさしく撫でていた。
「もし少年がほんの一瞬あたしの隣にすわってくれたら、頭の混乱を取り除いてさしあげましょう」オールド・マザー・シャルナは甲高い声で言った。「少年は激しい恋に陥っています。それが事をむつかしくしているのです」
ヴァルは彼女の目の前の肘掛け椅子にいやそうに坐った。突然老婦人はほほえみ、皺だらけの手でヴァルの拳を握った。
「少し待っておくれ」彼女はニヤリと笑いながら言った。突然いかに笑顔が老いた顔を照らし出しているかわかった。そこからは愛がにじみ出ていて、もはや年老いているようには見えなかった。
「この子が考えるほど簡単ではないでしょう。でも最終的にはうまくいくでしょう。子犬も成長してすばらしいおとなになるのです。投げ出したりはしないで。ほかの誰にもあなたの人生の干渉をされないように。干渉されれば、それはあなたの破滅を意味します」
ヴァレンチノはあえて一言もしゃべらなかった。彼はすっかりこの老婦人に抑え込まれていたけど、恐れているわけではなかった。「ぼ、ぼくは愛する人と結婚できないのでしょうか」ヴァルは不満げにたずねた。老婦人は噴き出した。
「ほんと、若大将は女をほしがるもんだね」彼女の声は大きくなった。「あたしの言ったことを聞いてなかったのかね。聞いてなかったみたいだね。そのうち、なるようになるのさ。今は、いつだって今。つぎの今が来るまでこんな感じさ。もしこの国にいるなら、このことを理解しなきゃね」
この謎めいた返答で彼は満足しなければならなかった。彼が立ち上がると老婦人は彼の腕をつかんだ。「そんなに急がないで。ゆっくりと急いで。落ち着く前にまず遊んでください」
しつけ通りに法王の息子は丁寧に彼女の手にキスをした。オールド・マザー・シャルナは驚き、またうれしかった。それから彼女はぼくを指さした。
「さあ、こちらへおいで、シシーラの旦那さん。あなたに渡すものがある」
彼女はまだティッチの首を撫でていた。犬はいつまでも気持ちよさそうにしていた。
「坐りなさい!」まるで犬であるかのように彼女はぼくに命令した。ぼくは坐った。「目を閉じなさい」彼女が命令し、ぼくは言われた通り目を閉じた。
ぼくのまぶたを覆っている二本の指が震えているように感じた。そしてそれはとてつもない温かさがあった。
「ティモシーはもっと見えるようになる必要があります」彼女は説明した。
「ティモシーはわれわれの最高の家族の一員と結婚しています。だからもっと状態をアップすることができるのです。彼はギフトを持っていませんでした。だからあたしがギフトを贈るのです」彼女は両手でもう一度ぼくの眉をはらった。ぼくは頭の中に鋭い痛みを感じた。そしてとても素敵で温かい何かの中に落ちていくような感覚を覚えた。
「通常よりもっと見えることに慣れる必要があります」と彼女は言った。「あなたが目を開けたとき、あたしが見えるままの存在でないことを認識するでしょう。さあ、目を開けて、あたしをごらんなさい」
輝く髪の老魔女はどこへ行ったのだ? ワタリガラスのように黒い巻き髪は確認できたが、その下には幸せそうな青い目が僕を見ていた。目はとてもかわいらしいバラのような顔の中にあった。そこには真珠のように白い歯がこぼれていた。
もし妻を崇拝していなければ、キューピッドの恋の矢にただちに射ぬかれていたかもしれない。この幻影の端に腹を抱えて笑っているマヌルとアルベルトの姿があった。ヴァレンチノはフロアに横たわり、口をポカンと開けていた。ティッチはそばにいて、現実に(犬の現実かもしれないが)戻そうとしているかのように耳をぺろぺろと舐めていた。
「なんというギフトをもらったんだ!」マヌルは叫んだ。「いまやきみは出会った人の内側の人物を見ることができるのだ。ティム、きみは性格の真の審判になろうとしてえいる。将来的にはもっと見ることができるようになるだろう」
ぼくは目をこすり、ハグするために美しい魔女のほうを向いた。しかしそこにいるのはわれわれ訪問者だけだった。つまりマヌル、アルベルト、ヴァル、ティッチ、そしてぼくだ。トランス状態でふたりのマスターとともに岩窟を出た。
そこには老母シャルナが坐り、鍋をかき混ぜていた。同時に彼女のそばに薄い人影のようなものが見えた。それは岩窟の美しい少女であり、シャルナの内側の少女でもあった。ぼくは老婦人にハグするため駆け寄ったが、あやうく鍋をひっくり返すところだった。彼女は鍋を迅速に固定し、ぷりぷりしながらぼくのほうを向いた。
「あなたは少し急ぎすぎるようですね、シシーラの旦那さん」と彼女は語気を強めた。「その甘やかす性質は奥さんのためにとっておきなさい。そしてアボリジニーのためにずっと嗅ぎまわっているといいわ」
うれしそうにしているぼくの仲間たちは彼女にさよならを告げた。ヴァルとぼくもそうした。老母シャルナはぼくたちのことをかまわず、ハーブの入った鍋を依然としてかき混ぜていた。
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