(19) 武装闘争集団はコンゴへ 

 のちにバジラのあとをつぐのはジャミル・ムクルである。彼はデイヴィッド・スティーブンとして、ウガンダのキリスト教徒の家庭に生まれたが、若いときにムスリムに転向している。彼はサウジアラビアで学び、サラフィズムというイスラーム原理主義に感化されたとされる。サウジアラビアからアフリカに戻ってくると、UMSC(ウガンダ・ムスリム最高評議会)と彼が属するタブリク派の闘争に巻き込まれてしまった。

 1991年、彼はタブリク派の民兵とともにカンパラ旧市内のUMSC本部を襲った。そのために1995年まで刑務所で過ごすことになった。出所すると、彼はウガンダ政府と敵対する亡きバジラが組織したNALUに入った。

 NALUはウガンダ人民防衛軍(UPDF)の攻勢を受けて、コンゴ領内に追いやられる。1995年、スーダンの工作によって、コンゴのキブ湖北方で、NALUの残党は、ウガンダ・ムスリム解放軍やブガンダ君主制民主主義連合と合流し、ADF(民主同盟軍)を結成した。ジャミル・ムクルは自身をその最高司令官に指名した。

 1996年から2001年までの間に彼らはコンゴ国内でテロ活動をつづけ、およそ1000人の民間人が死亡し、15万人が家を失ったとされる。また何百人もの子供を誘拐し、彼らをこども兵士に仕立て上げたことで、悪名が世界にとどろいた。

 1962年にルウェンズルルが独立を宣言したときの国王(オムシンガ)はイサヤ・ムキラネだった。彼が3年後の1966年に亡くなったため、息子のチャールズ・ムンベレ(イレマ・ンゴマ)があとを継いだ。しかし国王の存在はしだいに有名無実化していく。1984年、彼は「教育のため」という目的で、ウガンダ政府によってアメリカへ送られ、ビジネススクールに通った。1987年、彼はアメリカに政治亡命を申請し、認められた。彼ははじめメリーランドで、のちにペンシルベニアで、看護助手として働いた。25年もの間、国王であることを隠して看護人の仕事をしていたのである。アフリカ系の看護人を見てだれが彼を国王と考えるだろうか。映画化されそうなエピソードだ。

 2009年7月、突然彼の周辺があわただしくなった。ウガンダ政府がルウェンズルル王国を認め、ムンベレを国王とみなしたのである。「国王の帰郷」が実現したのは2009年10月だった。

 しかし2016年11月、カセセで、ムンベレの護衛隊とウガンダの警察が衝突した。ウガンダ政府は彼の護衛46人を殺し、ムンベレを逮捕した。この衝突による死者は100人にものぼったと言われている。2017年1月、彼は保釈された。2021年2月、予審が行われた。



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