わたしの百大事 10位
峠道の腐乱死体の秘密
ガネーシュ・ヒマール山 photo m.miyamoto
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奇妙なできごとというのは、たてつづけに起きるものだ。しかもまったく予期していないときに限って。
2002年のこと、ヒマラヤ・トレッキングを満喫するエリアとしてダディン地区(山の多い地形ながら、東京都の85%もの面積がある)を選んだのは、カトマンズから近く、一週間程度の気軽なトレッキングをするにはもってこいの場所だったからである。とはいっても観光コースというわけではないので、ホテルもなければレストランもなく、ほとんどが民泊になり、食事もそこでいただくか、素のチャウチャウ(インスタントラーメン)を煮てもらって食べることになる。そんな不便はあっても、山歩きをしながらどこからでも北方に美しいガネーシュ・ヒマールの山容が拝めるのは、何ごとにもかえがたい喜びだった。わたしはそんなヒマラヤの懐の村々をめぐり、山岳民族のジャークリ(シャーマン)と会うのが好きだった。
このトレッキングの目的地はチェトリ(戦士階級。インドのクシャトリヤとおなじ)の村だった。何のことはない、雇ったチェトリのガイドの実家があったのだ。この村を起点として、周辺のグルン族やタマン族の村を訪ねる予定だった。ネパールを多少知っている人なら、都会に住んでいるはずのチェトリがヒマラヤ山中に住んでいるのは意外であり、奇妙なことと思うだろう。一説にはヒマラヤに広く分布するインド・アーリア系のカース族と関係が深いという。しかしチェトリとカース族は習俗や雰囲気、見た目がかなり違うので、わたしはこの説に賛同する気になれない。
このチェトリの村で予期せぬことが起こった。11歳の少女が神がかりの状態になり、シャーマン(ジャークリ)になったというのである。タマンやグルンのシャーマンならイニシエーション儀礼を通じてシャーマンになることが多く、代々伝わるやり方で祭壇を作り、さまざまな宗教的小道具を使って関連した物語を詠みながら儀礼をおこなった。しかし少女シャーマンはそんな伝統的なシャーマンとは全く違っていた。
さっそく少女の家を訪ねると、庭先で彼女はトランス状態に陥るところだった。いたいけな少女に神霊が憑依すると、男の声で、神の言葉をしゃべりだした。神の命令で家の庭の隅を掘り起こすと、翌朝、女神の宿る石が出てきた。この驚くべきことについては別の項で詳しく述べたい。
もう一つも信じられないできごとだった。帰路の途中、もうひとつのチェトリ村まであとわずかというところに差し掛かっていた。村が近づくにつれ、自然と足取りは軽くアップテンポになっていく。そのとき、青臭い魚のにおいを百倍にしたような、とてつもなくいやな臭いがわたしの鼻を直撃した。それは森の奥から木立の合間を抜けてやってきた。
「そこに死体があるのです」チェトリのガイドの口調はあきらかにすでにこのことを知っていたことを示していた。実際この死体はとても有名だった。逆風をついて進むかのようにわたしたちは一歩一歩においの元へ近づいていった。
「なぜこんなところに死体があるんだ? なぜ埋葬しないの?」
「悪いやつだからです。だから殺されたんです」
「殺された? だれが殺したの?」
「みんなです。村のみんなが殺したんです」
つまり実際特定のだれかが殺したのだろうけど、村のひとりひとりが参加してリンチをおこない、全員が共同犯人になったということだ。犯人は村人全員であり、同時にだれでもない、ということになる。
村全体に恨みを買っていたということである。これだけ憎悪される人物とはだれなのだろうか。
「マオイストです。村の人間はみなマオイストが大嫌いなのです」
マオイストとは毛沢東主義者のことだった。共産ゲリラということである。のちに方向転換して正規の政党になるが、当時は過激な活動家集団だった。テロリストとはまた違っていた。
ほかの山岳民族と違って、ネパール国王も属する戦士階級のチェトリは堅い職業につきやすい。しかしヒマラヤ山腹の村人となると、農業以外では、警察か軍隊に職業が限られてしまう。このチェトリの村から警察や軍隊に属する者はそれぞれ十人以上輩出していた。彼らの所属先がカトマンズのような都会であることはなく、山あいの分署や駐屯地に配されるのが一般的だった。
一方マオイストはグルンやタマンなど山岳民族の出身者が多かった。彼らには職業選択の自由がなく、村で農民になるしかなかった。警察官や兵士になろうとしても、チャンスはほとんどなかった。彼らは当時国家権力の象徴として警察署や軍の駐屯地を襲い、多くの人を殺していた。嫉妬の対象でもあったのだろう。このチェトリ村の出身者も何人かが犠牲になっていた。
マオイストの死体は草の中にうつぶせに倒れていて、無数の大小の小石の中に半ば埋もれていた。顔が見えなかったのでよくわからなかったが、二十代の男だろう。彼自身が襲撃や殺人に関わったかどうか、知る由もなかった。もしかしたら町から自分の村に戻ろうとしていただけのタマンかグルンの無辜の若者かもしれなかった。あるいは死者が出るような襲撃には参加せず、各地に情報を伝達する役目を負っていた使者の可能性もある。
死者の顔が見えなくてよかった。この若いマオイストにも家族はあったろうし、愛する人もいただろう。いいやつだったかもしれない。
マオイストの成員である山岳民族のなかでも、自分になじみ深いタマンは最下層に分類されていた。彼らはビーフを食べるだけでなく(ヒンドゥー教徒から軽蔑された)、「ポークを食べる者」でもあるので(すべての宗教から嫌われた)、いわば不可触賤民扱いされていた。タマンからすると、おなじ山岳地帯の住人なのに、チェトリはえらそうにして、職業につきやすく、お金を得やすいのは許しがたいことだろう。パレスチナを見ればわかるように、世界は理不尽なのだ。
われわれはまるで急げば凄惨な死体と強烈なにおいを振り落とせるかのように、峠道まであわてて退散した。元通りの足取りで進むと、二十分かそこらでチェトリの村に到着した。村人のにこやかな顔はもう今までと同じではなかった。