中国起源
中国占星術は、チベット占星術のなかの2つのシステムの基礎を成している。その2つとは、「黒い占星術」ナクツィ(中国はチベット語でギャナク、黒い地域と呼ばれる)と「元素の占星術」ジュンツィである。ジュンツィと関連がある暦についてはあとで詳しく述べたい。
60年周期と12年周期、中国伝統の5つの元素(五行)、メワ(9つの魔法陣)、易経のトリグラム(八卦)とおなじ8つのパルカなどをわれわれは目にする。このシステムはボン教や「名も無き宗教」から派生した古代の概念である。このことは早くからチベットに中国の影響が及んでいたことを示している。
中国の占星術は世界でもっとも古いシステムのひとつである。その神話的起源は文明の起源といってもいい。易経の八卦を考案した功績は、五千年前の帝王伏犠(ふっき)に帰せられている。中国文明の創始者は「目を上げて天を見て、星々を見つめ、それから視線を落として地上で起こっていることを見た」という。
この引用は中国の占星術を凝縮している。つまりそれは、地上と天界の秩序の調和をかなえるための天と地の知識なのである。
伏犠はまた河図(かと)の考案者とみなされている。河図とは、黄河から現れた竜馬に彼が見た徴(しるし)を基盤としたものである。ダイアグラムは四方、四季、5つの元素を表す白と黒の点の配列から作られる。これは宇宙の秩序を示している。
堯(ぎょう)帝(2357−2286BC)は人間の活動を天界の秩序と結びつけるために暦を作った。彼は4つの天界の地域を観察するために4人の天文学者を雇った。彼らは季節ごとの人の活動のサイクルを観察しながら、季節を計算した。季節と方角を関連づけ、一年を4つの期間、すなわち春(東)、夏(南)、秋(西)、冬(北)に分けた。堯はまた、太陽暦と月暦を結びつけるため、閏月を考案した。
夏朝の創始者、偉大なる帝王禹(2206−2197BC)は洛水に現れた亀の背中に見た紋様をもとに「大いなる法」を著わした。この紋様は洛書という魔法陣であり、チベット人の9つのメワはそこから生まれた。
われわれが知っている易経は完成された形で文王から伝えられてきた。彼はその頃、暴君の帝辛(1132BC)の命令で捕らわれの身となっていたことがあった。のちに彼の息子周公がその解説を書いている。
中国において占星術の体系と風水はこのように、紀元前千年紀の間に確立されている。この体系がかなり早くにチベットに到達したとしても驚くことはない。
さてつぎに、中国人だけでなく、モンゴル人、チベット人、テュルク・モンゴル人、ベトナム人にも使われてきた12年周期と60年周期について論じたい。
はるか古代より、中国の天文学者たちは2つの象徴のセット、すなわち12の地上の枝と10の天界の幹を組み合わせて年代記を作ってきた。またそれぞれは陰と陽とも組み合わされた。これは中国の年代記の60年周期から派生したものであり、最初の60年は黄帝の時代の2697年に生まれたという。10の天界の幹は、5つの元素(五行)と陰・陽の組み合わせである。
同時に中国では12の動物のシステムが発達した。もともと12のうちの4つしかなかったという。東の春の竜、南の夏の鳥、西の秋の虎、北の冬の亀の4つである。のちに6つ、8つと数が増え、ルイ・ド・ソシュールが論証してみせたように、最終的には12の動物になった。この12の動物は、異なる性質を持っていたものの、のちに12の地上の枝となった。この2つのシステムが組み合わされてひとつになったのは、われわれの時代のはじまりにおいてだった。それは12の動物と5つの元素(五行)の組み合わせでもあり、中央アジアに導入されると一挙に人気に火が出た。
のちのチベットの記録によると、642年にこれらをチベットにもたらしたのは文成公主だった。チベット人はこのシステムを用いてその年を名づけるようになった。ただし60年周期はまだ採用していなかった。
パドマサンバヴァの伝記である『パドマ・タンイク』もまた中国の占星術がチベットにもたらされたことについて述べている。国王ティデツク・ツェン(705−755)は中国の占星術システムを採用し、占星術と医学によってチベット人を守った。のちにチソンデツェンとなる彼の息子が生まれたとき、ホロスコープを用いて、この王子が偉大な王となることを予言したのは中国人占星術師「有名なるビルジェ」だった。