二つの現実
もし大乗仏教にひとつの本質的な概念があるとするなら、それは現実の二つの側面が同時に存在するということだろう。つまり究極の現実と一般通念的な見かけの現実という側面である。ナーガールジュナの偉大なる注釈者である6世紀のチャンドラキールティは、これについてつぎのように語っている。
すべての現象は二つの性質を持っている
ひとつは正しい感覚によって明かされるものであり
もうひとつは偽の感覚によって誘導されるものである
正確な感覚が対象とするのは究極の現実であり
偽の感覚が対象とするのは一般通念的な現実である
それゆえ同じ現象が究極的な性質か、見かけの性質かにしたがって受容されることになる。
究極の現実は「空(くう)」とも呼ばれる。「空」は、すべての現象は何もない、ということを意味しているのではない。それら自体のなかには存在しない、ということを意味しているのである。現象、宇宙、思考、存在、時間、等々はそれら自体のなかでとてもリアルであるように思われるが、じつは究極的にはそうではない。
われわれひとりひとりが、存在の変化と予測不能の性質を感じることができる。われわれ自身の生命や建設したもの、また地球や惑星から科学者が発見した原子や分子まで、誕生と死、創造と破壊に屈しないたったひとつの存在も、たったひとつの物体もない。
この現象の一時的な性質、非永遠性は「空」の最初の徴(しるし)である。
虹について考えてみよう。天空に最初に現れたとき、それはリアルに見えるが、この見かけはとてもはかないものである。そのような現象が現れるためには第一の原因、すなわち太陽光があるにちがいない。そして第二の原因、すなわち太陽と逆の方向に降っている雨があるはずだ。これら二つの原因が同時にあったとき、太陽光は反射され、雨粒のなかで屈折し、虹が出現する。もし太陽が隠れたり、降雨が止まったりしたら、虹は消える。このことから何が導き出されるか? 虹はそれ自体では存在できないということである。それは光から作り出された現象であり、それが現れるためには正確な原因と条件が整う必要があるのだ。これらが変化すれば、虹という現象は存続できない。
われわれがいま述べたのは、現象の相互依存性、あるいは依存的な生産のことである。虹という現象は、実際、「太陽の光線」「雨」「時間」という現象に依存している。それゆえそれらはそれ自体では存在しないのである。
虹に関してわれわれが述べたことは、ほかの現象にも等しくあてはまる。自分自身に「私とは何か」とたずねてみるがいい。われわれは「私」を識別することができるが、この「私」もはかない混合物にすぎない。すなわち感情、感覚、知覚、思考などの寄せ集めであり、その本質はつねに疑問に対して答えていない。その究極的な本質は空にほかならない。このように現象の空、自我の空、主体と客体の空がある。
時間についてはどうだろうか。時間の観念はできごとの連続性と、すなわち行動と、あるいは原因と結果と、密接に関連している。あなたが行動するとき、あなたの行動はあなたの行動を育む。行動につづく結果は未来のできごとの原因となる。行動は現在を未来および過去に結び付ける。しかし過去も未来も存在しない。するとあなたの行動の基礎は何なのか?
われわれはまた過去、現在、未来の観念はわれわれの思考の中にだけ存在するということができる。現在の思考は過去の思考と結びつき、未来の思考へとつながる。過去の思考が消え、未来の思考が現れる前に、現在において、他の二つの時(過去・未来)と結びついていない現在について人は何を言うことができるだろうか。
「あきらかな」あるいは「相対的な」真実は、われわれ全員が最初に感じる物事の側面である。それはわれわれが住む世界の常識的な解釈である。チベット語でクン・ゾプ(kun rdzob)、すなわち「すべての物事を囲う現実」として知られる概念は、感覚器官を通じてわれわれが感知することができる現象の現れにほかならない。
それぞれの存在の感覚は異なるので、宇宙にある存在の数ほどたくさんの現象の現れの感覚があるということになるだろう。伝説によると、ある日、インドの小国の占星術師は国王にまもなく「人々を狂気にいたらしめる」雨が降るだろう、と警告した。このことはまたたくまに広がり、貧しい者から権力を持つ者まですべての人が急いで水を貯めた。予言の通り雨が降り始めた。しばらくすると、水の貯えをそれほど持っていなかった身分の高くない人々は雨水を飲み始め、狂人になっていった。つぎに来るのは商人、そして金持ちの人々、最後に大臣たちだった。すべての人々が汚染された水を飲まざるを得なかった。国王だけが巨大なため池を持っていたので、正常でいられた。しかし王国中の人々は、狂人こそが狂人だと考えるようになった。この物語は常識的な現実の相対的な本質について描いているのだ。
われわれの世界の認識の仕方は、われわれの精神の傾向やわれわれのカルマに左右される。カルマという言葉を私はここで、過去の行為によって作られた条件づけのすべてという意味で用いている。すべての行為は、事実上、物事の原因となるものである。プラスの行為がプラスの結果をもたらす一方で、マイナスの行為は苦い果実を生みだすだろう。それは結果を経験するのは、行為をおこなった者ということである。同じ理由で、われわれの行為のすべては、われわれの意識の流れの中にあとを残す。この痕跡を見れば、われわれのなかにどのような気質が生まれたかがわかる。この気質はわれわれの魂(プシュケー)に浸透し、物事の見方を決定づける。
過去のカルマと結びついた性向がもたらすものは、とても複雑で、個人によって異なっている。しかしながらわれわれ人間は世界に対する「共通のカルマの見方」を持っているので、概念と言葉を通して交流することができる。このようにすべての人間は、ある種のカルマの傾向を共有している。「テーブル」や「色」といった概念を認めることができる。しかし価値判断までは認められない。それぞれの個人には独自の見方があり。意見を持っている。「これはテーブルである」と言えばだれもが賛同するが、「これはすばらしいテーブルである」と私が言い添えると、たちまち異なる意見が噴出する。
仏教は宇宙に住む六つの階級の存在を認識する。そして階級によって世界の認識が異なると教えられてきた。人間が川を見るところに、熱い地獄の生きものは燃える溶解した青銅の流れを、冷たい地獄の生きものは氷河を、餓鬼は汚物と膿を、神は美酒を、半神は武器を持つ荒々しい川を見る。
知覚はカルマの性質によって決まるので、それは同時に「相対的」であり、「誤導的」である。実際、カルマはつねに無知と連動している。このわれわれの存在を曖昧にしている基本的な無知のために、無意識のうちに物事の本質をわれわれは見ることができなくなっているのだ。無知が根付いているため、われわれの行為は盲目的で、そこからすべての幻影、すべての邪悪さが生まれている。
それではこの二つの現実の関係はどうなっているのだろうか。同じ現象の絶対的な、あるいは見かけ上の現実は互いに反目している。すなわち知覚は人によって異なるので、主体の見かけ上の性質にはさまざまなものがあり、このことから、その見かけ上の本質が特徴的であるにしても、究極の本質ではありえないのだ。
プラジュニャーパーラミター・フリダヤ・スートラ(般若波羅蜜多心経)によると、二つの現実は分かちがたい。
形は空である。空は形である。形以外に空はない。空以外に形はない。
(色即是空、空即是色)
このようにすべての現象は空である。しかしそれらは現れるものにすぎない。逆にすべての見かけのものはそれ自体では存在しない。この二つの面は分かちがたく、この二つ以外に三つめの現実は存在しない。
二つの現実は同じ本質を持っている。実際、存在しているものは、空にはならない。それらは、はじめから空なのである。これがそれらの本質である。見かけ上の現実は、それぞれを支えるために部品が集められたが、部品のどれも地についていない建物のようなものである。建物はすぐに倒れることだろう。これは存在の姿である。完全に相対的で、そのなかでは、現象は他との関係においてのみ存在する。そしてその本質は、はじめから空である。
このように現象は空によって壊されることはない。それらは互いの関係の上に現れつづける。それらのすべては空である。二つの現実はひとつのコインの両面のようなものである。