サムサーラとニルヴァーナ 

 なぜ仏教は空(くう)を強調するのだろうか。見かけだけが現実だと信じるということは、物事の究極的な本質を知らないということである。見かけのみを現実としてとらえる人は見かけに固着する。そのことから幻影が生じ、落胆、苦悩が生みだされる。究極の現実を知らないということは、それゆえ苦悩の原因となる。

 「心」と呼ばれるものもまた、本質的に空である。しかしこの空の心は輝かしい本質を秘めている。そしてそれが明澄であることは、感じること、知ること、概念化すること、分析すること、創造することのための容量があることを意味する。心の創造力は無限であり、限りない可能性を秘めている。それゆえ、ときに心は「万物を創造する王」と称される。心の中では、空と明澄さは分かちがたく、その結合から無限の種類の現れが生まれることになる。

 心の本質を認識する人は覚醒した者、ブッダである。ブッダにとってすべての現象は空であり、光明であり、心の不変の、自ら起こる働きにほかならない。この非二元性において彼はいかなる限界のある信仰からも自由である。非存在を超え、永遠を超え、内側と外側、希望と恐怖を超え、彼は苦悩を超える。これがチベット人におけるニルヴァーナの言葉の意味である。ブッダは心の原初の純粋性のなかに、すなわち物事のすべての源泉のなかに確立されるので、彼は全知であり、本質(空)においても、詳細(明確な見かけ)においても、彼はすべての現象を知っている。

 一方、この「気づき」がない場合、われわれはそれが物事の真の本性であるかのようにだまされてしまう。無知の力のもとでは、われわれは心の輝かしい創造性を「外部のもの」「よそもの」ととらえる。疑いの気持ちが起こり、すぐにそれは「私」と「他者」という二元対立的なものになる。この「他者」にはすべての外的な現象が含まれる。われわれは現実の独立した存在もこの現象に含めてしまう。

われわれはこれら他者との三種類の関係をもつ。楽しみとして判断されるこれらの現象に対して惹かれること、あるいは欲望。不愉快な現象として嫌悪、あるいは怒りを感じること。興味のないものとみなされた現象に対して冷淡であること、あるいはニュートラルであること。

これら三つの反応から五つの激しい感情、すなわち無知、怒り、欲望・執着、高慢、嫉妬が生まれる。これらの激しい感情が心を支配したなら、それらは思考、概念という言葉に翻訳され、最後には確固とした行為となるだろう。これらはカルマとして知られるものだ。

良し悪しはともかくとして、われわれの行為から、のちの同じ性質の結果をもたらす原因が生まれる。われわれは過去のカルマの結果をいつまでも経験し、同時に新しいカルマを創造しつづけるのだ。

 このように、われわれは存在の悪循環のサイクル、つまりサムサーラに自分自身をつなぎとめている。われわれの「私」という感覚は確かめられ、われわれの心はそれとともに暮らす。カルマは蓄積され、われわれが沈み込んでいる深い錯覚の海を認識するのがよりむつかしくなる。

 ひとつの特別な激しい感情が優勢となり、われわれの感覚が特別な色合いを帯びるとき、それは「カルマの幻視」と呼ばれる。六種類のカルマの幻視があるといわれるが、それらは六つの領域に相当する。すなわち、地獄の領域、餓鬼、あるいはプレータの領域、動物の領域、人間の領域、半神、すなわちアースラの領域、神々、あるいはデーヴァの領域の六つである。

これらの領域は、怒り、貪欲、無知、欲望、嫉妬、高慢に支配されている。カルマの影響のもと、われわれはある領域からある領域へとさ迷い歩く。心の本質が理解されるまで、この生命から生命への転生は終わることがない。

 このプロセス全体は心によって自ら創造された現象の結晶化、凝固化と似ている。このように五元素は五色の光としてあらわれる、心の純粋な自発的な智慧の具現の源である。この輝きはわれわれの心と異なるものではない。しかし無知の結果として、無数の外的な対象物とみなしてしまうのだ。

こうして、外的には、五色の光は五大元素、エーテル(大気)、気、水、火、地となり、内的には身体の要素となる。それは「うつろ」、風、血、熱、肉である。

 心はじつに、すべての物事の基礎、クンシ(kun gzhi)を創る王である。そのように認識するということは、その役目を理解することであり、輝く光と一体化するということである。これこそブッダの道である。このことを理解しなければ、人は自分自身の感覚に固着し、幻影のなかに落ちてしまうことになる。これがサムサーラと苦悩の道である。

 もともとの心にはサムサーラもニルヴァーナも存在しなかった。無知がサムサーラの状況を創り出し、そのアンチテーゼとしてニルヴァーナやサムサーラの終結を求める心が生じるのである。

 ブッダによって教えられた実践法とは、幻影の自己を除くこと、すべての苦悩するもののために強い慈悲の心を育てること、カルマの束縛から自己を解放すること、結晶化したものを溶解すること、そしてそれらをわれわれの空虚な輝く本質のなかで、再統合することである。