十二因縁 

 ニダーナ(チベット語でテンデル rten ’brel)とは、12の因果関係の連鎖(因縁)のことである。これまで見てきたように、現象は他の現象との関係に依ってのみ存在する。それはスートラ(仏典)に描かれる教えの通りである。われわれは互いに結びついた因果関係の連続の上に成り立つ存在である。そして過去から、いまこの現在から、未来をつくるもとから、因果の連鎖は浮かび上がってくる。占星術においてこの教えはきわめて重要であるが、それには二つの理由がある。

 教義上の観点から言えば、正しい占星術をおこなうには、相互依存(縁起)の教えを会得しなければならない。それでは、生まれたときの天界の配列と人の将来の運命との相互関係は、どうしたら説明できるのだろうか。外宇宙の星の動きが個人の運命に影響を与えるという考え方は、しかしながら、占星術の確固とした基礎とはいえない。またこれら外側の対象物や星々と内側の「私」との正確な関係を確立する必要がある。そのような関係なしには、相互にもたらす作用はありえないのだ。

 カーラチャクラ・タントラによれば、宇宙はとてつもなく巨大なマンダラであり、ヨーギの身体は内なるマンダラであり、これらは互いに補完関係にある。じつは、大宇宙と小宇宙が相応するという理論を唱えた者は、西欧にもいた。もっともよく知られているのは、医者であり、錬金術師を兼ねた占星術師であったパラケルスス(14931541)だろう。

この理論はタントラにふさわしい考え方である。論じてきたように、すべての現象は心の輝かしい創造から湧き起こってくる。しかし無知に支配されたわれわれは、二元的世界の存在を心に描いてしまう。われわれは「私」と他者、主体と客体、内側と外側を分けて考えてしまう。このように身体の外側の要素と内側の要素はひとつであり、その起源においては上述のように同じである。相対的二元レベルにおいて、相互依存の関係性が内側と外側の関係を維持する一方で、絶対的レベルにおいて、内側と外側の二元的区別が消えてしまう。

 われわれはすべてがはかなく、移ろいやすい時代の領域に住んでいる。この現象こそ相互依存にほかならない。空の星々の動きを観察した占星術師は、前もってその動きを計算し、行動を支配する法則を見出すことができる。明確な、複製可能な個人との相互関係を確立することによって、占星術の力が証明されることになる。

2 実践的な見地から見た場合、チベット占星術のなかでは、日々の占いだけでなく、月々に何が起こるかを描くために、12のニダーナ(十二縁起)が使われる。また12のニダーナとインドのゾディアック(黄道十二宮)の12のサイン(宮)との間には相関関係がある。

 プラティーティヤサムトパーダ(pratityasamutpada)として知られる相互依存の連鎖(縁起)は以下のようにスートラに記される。

 

無知(無明)に avidy? ma rig pa 

カルマの形成は依る() samskh?ra karma ’du byed

カルマの形成に意識は依る( vijn?na rnam shes

意識に名と形は依る(名色) n?ma r?pa  ming gjugs

名と形に感覚器は依る(六処) sad?yatana skye mched drug

感覚器に接触は依る() sparsa reg pa

接触に感受は依る() vedan? tshor pa

感受に渇愛は依る() trsn? sred pa

渇愛に執着は依る() up?d?na len pa

執着に存在は依る()  bhava srid pa

存在に誕生は依る() j?ti skye pa

誕生に老いと死は依る(老死 jar? marana rga shi

 

このように苦悩はつぎつぎと連鎖していく。*訳注:はサンスクリット語、はチベット語

 これらは過去へつながっているので、ニダーナの最初の二つは現在の状況へと我々を導いた原因といえる。

 無知(無明、アヴィディヤー)は、生命の輪のなかで、杖を持って道を探る盲目の老女として描かれる。サムサーラの混乱の根本に無知(無明)があると考えられる。無知には2種類ある。一つは生来の無知。心と現象の真の本性、散漫、混乱の状態に気づかない。この無知の結果として、物事のあるがままに現れるのを認識しないとき、人は、世界は二元的だと「想像」する。これが第二の、あるいは想像する無知である。

 カルマの配置(行、サムスカーラー・カルマー)は、壺を作っている焼き物師として表される。無知によって「条件行動」として知られる衝動が蓄積されていく。これらのカルマをためる行動は、われわれの存在を構築する力として、身口意(身体、言葉、心)のなかに現れる。われわれの行動に徳があるか、中立であるか、否定的であるかどうかによって、好ましい生まれ変わりが得られるかどうかが決まる。

 つぎの7つのニダーナは「現在の連鎖」である。最初の5つは誕生のプロセスを描く。

 意識(識、ヴィジュニャーナ)は、木に登り、摘むべき果実を探しながら、枝から枝へ跳ぶ猿で表わされる。懐妊時の子宮で形成される再生する意識は、過去のカルマによって創られた「私」の核心である。カルマの養分を吸って、新しいパーソナリティがこの核心のまわりで育まれる。

 名前と形(名形、ナーマルーパ)は、船頭と4人の乗客が乗った舟で表される。その環境を探索しながら、意識は名をつけ、物事にレッテルを貼る。見かけが形作られたら、それらは具体化する。この段階で、身体と物質世界をつくる五大元素が配列される。

 6つの感覚の場所(六処、シャダーヤタナ)は、6つの窓がある空き家で表される。6つの感覚とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と心(yid)の感覚である。それぞれの感覚の場には感覚の意識(たとえば視覚の意識)や、外界との交流を確立した器官(たとえば目)、感覚の対象(たとえば形や色)などが含まれる。

 触れること(触、スパルシャ)は、抱き合っているカップルで表される。感覚と彼らの対象物との出会いが「触」を生みだしている。このように、視覚は形と「触れ」、聴覚は音と「触れ」る、などとつづく。

 感覚を受けること(受、ヴェーダナー)は、彼自身の目を貫く矢を持つ男で表される。「触」は「受」の前触れと考えられる。この「受」は愉しいかもしれないし、痛いかもしれないし、どちらでもないかもしれなかった。

 つづく2つのニダーナは、将来を決定づけるカルマがわれわれによっていかに創り続けられるかを描く。

 欲望あるいは渇望(愛、トゥルシュナー)は、渇きを満たす男として表される。渇望は、われわれが対象物と接触したときに経験する「受」によって決まる。渇望には3種類ある。すなわち、永遠の渇望と存在の渇望、絶滅あるいは非存在の渇望である。それは病的とみなされるが。

 執着すること(取、ウパーダーナ)は、果実を取る猿で表される。欲望は満足を要求する。でなければフラストレーションがたまり、苦悩のもととなる。モノを欲する執着はそれゆえ、渇望の結果といえる。転生へと導く4つの型の執着は、はっきりしている。すなわち、悦楽を感じること、間違った見方、ルールと儀礼、そして自我があると思うことへの執着である。

 最後の3つのニダーナは来世と関係している。

 成ること(有、バヴァ)は妊娠した婦人で表される。成ることは存在、そして「私」への執着の結果であり、このようにそれは存在を追い求めることにほかならない。それはつねに新しいカルマによって育まれ、将来実を結ぶものである。それゆえこれは懐妊のプロセスともいえる。

 誕生、あるいは転生(生、ジャーティ)は、出産する女性で表される。人生への執着、新しいカルマの常なる創造によってわれわれの転生が起こる。「新しく生まれた」存在は、実際、「古く生まれた」存在である。それはカルマを携えていて、カルマの本性にしたがって6つの領域のひとつに生まれる。

 老齢と死(老死、ジャラーマラナ)は遺体を屍林(埋葬場所)に運ぶ男で表される。すべてのものは生まれ、成長し、衰弱し、最後には死ぬ。はかないのはすべての存在の本質なのである。存在の元素の結合が消滅するときは、すべてが分解する。そしてこのときカルマもまた尽きてしまう。死はそれゆえ分解のプロセスだといえる。そのなかで存在は、オニオンの皮をむいていくように、徐々に「私」の微細な要素を脱いでいく。このプロセスが完了したとき、たちまちのうちに裸の、空虚の、輝きの心が現れる。訓練されたヨーギは心の本質を認識し、彼自身を解放する。しかしほとんどの生きるものはそうすることができず、彼らのカルマによってふたたび覆い隠されてしまう。強風のようなこのカルマによって駆り立てられ、彼らは新しい子宮を探し、そこからふたたび誕生する。12のニダーナの連鎖はここに終了する。

 もうひとつ駆け足で観察を試みたい。占星術の予言についてである。因果律に運命の要素はない。すべての物事は、同じ時、同じ場所の一点における原因と条件の組み合わせの結果である。できごとが予言されるとき、人はただのちに起こりそうなことの原因となる条件を考慮するのである。それは可能性としてのみ存在し、その方向性に修正を加えることは可能だ。もし原因と状況が交わるのを防いだなら、何も起こらない。しかるべき特別な実践法によって浄化されたときのみカルマは不可避である。この理由からチベット人の占星術は、将来の潜在的な脅威と向かい合うよう設定された、じつに多くの実践法と儀礼を含むのである。