オーラ
どうしたら見えるのか、感じられるのか、認識できるのか
エンブローズン・タスカヴェル (Embrosewyn Tazkuvel) 宮本神酒男訳
イントロ
視力を持つ者ならだれでも、ほんの5分か10分のトレーニングをすれば、眼鏡をかけていようと、コンタクトレンズを装着していようと、すべての人のまわりに輝いているエネルギーのオーラを見ることができるようになる。オーラを見るためには特別なサイキック能力やスピリチュアルな才能が必要だと思い込んできたか、あるいはそう教え込まれてきた人々にとっては驚きかもしれない。
サイキックの力によって、あるいはスピリチュアルなパワーを同調させないかぎり、色のついたオーラを見ることなどできないと思ってしまいがちだが、オーラを見る基本的な能力に特別な才能は関係ない。あなたの目の桿状体(ロッド)と錐状体(コーン)と呼ばれる、焦点をつくる器官をいかに操作するか、そして見えるものをいかに認識するか、あるいはいかに見逃さないかを学ぶだけなのだ。それには簡単で、短い時間の訓練が必要とされるだけだ。
生きているものも、無生物も、オーラを持っている。すべての生きているものとあらゆる種類の無生物のまわりをエネルギー場が取り巻いている。
無生物? どうしたら無生物からオーラが放たれるということがありえるだろうか? 岩や朽ちた葉がオーラを持つとは、どういうことなのか。
分子構造から話ははじまる。岩や死んだ人、動物、植物はなおも分子構造を保持している。それらは継続的に動く陽子や電子から成っている。これらは岩や鉱物からも、わずかながらもオーラを放つ。
キルリアン写真。ゼラニウムの葉からコロナが放たれる
多くの人にオーラの写真イメージと思われてきたのがキルリアン写真である。それはもともと白黒写真だったが、色付き写真が得られるようになった。1939年、セミョーン・キルリアンによって偶然発見された。写真製版において高電圧がかけられたとき、たまたまこの写真が得られた。
キルリアンは、写真板の上の物体を高電圧の電源につなぐと、その端と表面に沿ってかすかなコロナが放電されることを発見した。彼自身はこれらがオーラの写真だと信じて疑わなかった。ロシアと東ヨーロッパ諸国では、いまもこれらの写真を「キルリアン・オーラ写真」と呼んでいる。
しかし実際のところ、コインや岩といった無生物に高電圧をかけて、コロナを放電させても、おなじような結果が得られるのだ。科学者のあいだでは、これらがオーラの写真とはみなされなくなっていた。
しかしながら科学者たちがキルリアン写真に刺激を受けたのは間違いなかった。ついでさまざまな実験室で、いろいろと実験が試みられ、これらのコロナ放電の写真が、ヴァンデグラフ起電機やテスラ・コイルに高電圧をかけて得られたものと酷似していることがわかった。
われわれはもうひとつの人気の高い「オーラ写真」を、超能力フェアで見かけることがある。人の身体はぼんやりと、肌から数インチ離れたところに浮かぶさまざまな色に包まれている。これらは本当のオーラの写真ではないが、肌の反応を感知する特別なカメラによって放射が得られ、プリンターを使って適切な色をそれに加える。それはあなたの身体のムード・リング(気分を反映して色が変化する指輪)のようなものなのだ。オーラ・カメラは、キルリアン写真のように高電圧を使うことはなく、写真フィルムと直接的な接触はない。
キルリアン写真や超能力フェアのオーラ写真を、ほんとうのオーラ写真であると主張する人々もいる。しかし子どものときからオーラを見てきた者として、私はほんとうのオーラはもっとすばらしいものであると言いたい。
人々を包み込む、あるいは人々からにじみ出る、カラフルで、霊妙で、半透明な、われわれがオーラと呼ぶエネルギー場は、もっとはるかに複雑でパワフルである。身体から放たれる電気、熱、光、電磁気、音、それに定量化されない要素を加えたコンビネーションからそれらは作られる。
あなたはすでに、人々や場所のまわりのオーラを見たり、感じたり、あるいは感受したりしているはずだ。ただ、見ているもの、感じているものがオーラであることを認識していないだけなのだ。もしつぎのような体験があてはまるなら、あなたはすでにオーラを見たり感じたりしていることになる。
●だれかに会って、数分もしないうちにその人のエネルギーに引き込まれたことはないか?
●人を色として考えたことはないか? たとえば彼は黄色の人とか、彼女は青い人とか。
●だれかと出会って、数分以内に、エネルギーをもらったとか、精神が高揚したと感じたことはないか?
●理由もなく、つまり表面上恐怖を与えるようなものは何もないのに、恐怖に駆られたことはないか?
●はじめてだれかと会ったとき、あるいは部屋や場所に入ったとき、説明できる理由がないのに、突然幸福感に満たされたことはないか?
●だれかに会ったとき、どういう人かまったく知らないのに、即座に敵愾心を持ったことはないか?
●部屋に入ったとき、色やデコレーションが違うと明確に感じたことはないか?
●部屋のなかにいるのが友人や知り合いばかりなのに、その部屋から出ていきたいと強く感じたことはないか?
●あるグループといっしょにいて、時間がきているのに、とくに会話をつづける理由もなければ、そこにいて何かをするわけでもないのに、彼らのもとを去りたくないと思ったことはないか?
●だれかに見つめられていると感じたことはないか? 見上げたときにはじめて実際に見つめられていることを知るのだ。
●雷が近づいてきたとき、体の内側がかき乱されるように感じたことはないか?
●あなたはだれかが感じていることを感じることができたことはないか? それが彼らの表面的なおこないや話しぶりと異なっていることが、あとで証明されたことはないか?
●姿が見えず、音もしないのに、近くにだれかがいると感じたことはないか?
上記のそれぞれの項目にたいするあなたの答えは、ボディ・ランゲージや社会習慣、あるいはあなた自身の精神生理学的な性格に刺激されたものかもしれない。たいていの場合、あなたの感情のほとんどは、あなたが出会った人々や場所とあなたのオーラとの相互作用から生ずるのだ。
だれだって、いやすべての人が人間のオーラを見ることができるということを理解し始めたのは、まだ20代前半の頃で、私にとって大きな驚きだった。図書館でそのテーマの本を探したところ、それについて書かれた本が何冊もあった。
幼少の頃の記憶のなかで、私はすでに、宝石の百万本のきらめく光線のように、人々から虹色のオーラの光が発せられるのを見ていた。毎日、すべての人が発する不思議な光を見ていたので、子供の私はほかのみんなもそれを見ることができるのだろうと、素直に考えていた。
この当時は、私が人々の頭のまわりに輝くかすかな光のことを話しても、なぜ友人たちはそれを無視するのか、そしてなぜいつも話題を変えようとするのか、不思議だったが、それほど気にはしていなかった。
8歳の頃、突然私は悟った。純粋無垢だった私は、違う考え方があることに気がついた。おそらく世界でオーラを見ることができるのは私ひとりなのだ。身体のどこかに欠陥があるかもしれないとは考えたくなかった。自分自身の風変わりな点は、子供だからわからない謎であり、おとなになればその謎も解けるだろうと自分を慰めた。
半分は自嘲気味に、半分は子供じみた空想で、たぶん自分は違う惑星から来たのだ、だからほかの人には見えないオーラが見えるのだと考えた。おとなになるにしたがい、子供じみた空想は、自分自身は世界でただひとりの「紫の人間」であるという自覚に変化していった。黒でも白でも黄色でも赤でもなく、私は紫だった。
30代になる頃には、オーラを見るという能力は私だけのユニークなものではないと理解するようになった。簡単なトレーニングと実践によって、だれでもある程度は見ることができるのだ。解剖学の教科書を読み、オーラを見るときの自分自身を観察することによって、オーラを見るということが直接的に桿状体(ロッド)と錐状体(コーン)と呼ばれる目の構成要素と関係していることを確信した。
オーラを見てみたいが、自分たち自身が見ることができるとは思っていない数人の友人にわが理論を試してもらい、桿状体・錐状体理論が正しいことを証明しようと考えた。いくつかの簡単な目のエクササイズをおこなってもらい、彼らははじめて、だが簡単にオーラを見ることができた。
友人たちがオーラを見ることができるようになったので、私は自信をもって一般向けの講座「いかにしてオーラを見ることができるか」を始めた。私の講座には熱心な受講者が入りきれないほどたくさんやってきた。そうすると、「いかにしてオーラを見ることができるか」についての秘密をより多くの人々に伝えるには、もっと効果的な方法が必要となった。
この本を読めば、植物から動物、そして人間にいたるまで、あらゆる生きもののオーラを見たり感じたりする秘密のテクニックをあなたは会得することができるだろう。私の講座で教えてきた目のエクササイズを学ぶことができるはずだ。本を読み終える頃までには、オーラを見ることも、感じることもできるようになり、オーラはすでにあなたにとって謎ではなくなっているだろう。それだけでなく、理解するために私が何十年も要したことについて、あなたは容易に深く理解しているはずだ。