孤高のアウエン 

第2章 ドルイド教って何? 

 

 ドルイド教とは何か。 

 ドルイド教とはブリテン、アイルランド、ヨーロッパ各地に広がる「土着」の精神的伝統のことであり、いまや世界中の人々が信奉する道である。古代の異教信仰のひとつとして、人々と大地の関係を強固なものにしてきた。

 ドルイド教はしばしば哲学になぞらえられる。それはいかなる大宗教の信仰を求めることのない人生のありかたである。とは言っても、多くのドルイドは彼ら自身の神を信仰し、この信仰を宗教とみなしている。ドルイド教は私たちと自然界との絆を強める方法をつねに探している。自然が私たちのまわりでいつも見せているパターンについて研究し、そこから私たちはインスピレーションと智慧を得ている。

 それはよりホリスティックな(全体論的な)生命の道を探るためのインスピレーションである。つまり自然のサイクルに同調するということである。私たちはしばしば自分たちが現代社会から遠く離れているように感じるものだ。そしてオークの智慧を見つける。(インド・ヨーロッパ語のdruはオークを意味し、widは智慧を意味する。ここからドルイドDruidという語が生まれた)

 ドルイドは周囲の自然界からインスピレーションを得る。彼女は寒い冬の朝、雪に覆われた草原の上でキツネたちが跳ね回り、互いに追いかけっこをしているのを見て喜びを見出す。彼女は寒い秋の日、さかりがついた鹿の呼び声を聞いて、熱さと情熱を感じる。彼女は夏の日差しのもと、食べ物とぬくもりを求めて飛ぶ蝶に純粋な喜びを発見する。彼女は猫が獲物に忍び寄る姿を見るとき、狩りのスリルを見出す。彼女は鷹とともに飛び立って、曇り空を突き抜け、舞い上がる。彼女は人生の螺旋を反映するかのような空の螺旋の上昇気流を見つける。彼女は人間の本性の精神を讃えながら、町の中心部で奏でられる人間の歌に耳を傾ける。

 ドルイドであるということは、自分の周囲の環境と同様、自分の行動についても責任を持つということだ。人はそれについて知らないではすまされない。目覚めて、力の限りを尽くして、できること、イエスといえるすべてのことを理解するという言質を与えるべきである。それは周囲と分かち合えることと同様、自身の行動パターンを学ぶということである。それは自然のサイクル、季節、潮流、人生の時期について学習するということである。いつ解放されるか、いつ蟄居するか、いつ叫び、いつ静かにするかを知ることである。

 ドルイドであるということは、リサイクルについて注意を怠らないことから、蛇口の水がどこから来るかを知ることまで、すべてのなかに人生の選択があるということである。私たちが摂る食べ物から、宅地造成のために棲み処を失ったアナグマのことまで、すべてのことと関りを持つということである。無知をあきらめ、世界に対して目を開き、よりよい場所にするために、できることを理解するという、大きな犠牲を伴うことをおこなうことである。

 私たちは衣装を着ているかもしれないし、ウェリントン・ブーツ(長靴)をはいているかもしれないが、依然としてドルイドである。私たちは雷を呼んで敵を打ち砕くことはできないかもしれないが、もっと微妙な戦いで、悪人が危害を加えそうな自然界を守ることができる。私たちはアウエン(ウェールズ語で花開くこと、あるいは詩的インスピレーションのこと)によって、つまりインスピレーションによって生き、自然界から学ぶのである。

 あなたがオーダー(The Druid Order)やグローブ(The Druid Grove)、その他いかなる団体に属そうが、ひとりのドルイドであることができる。ドルイド教に従うということは、自然界とその内のすべてを重んじるということであり、調和とバランスを保ちながら世界と関係を持ち、世界とともにやっていく道を探るということである。

 ドルイド教とは、この世界の今、ここにあるすべてに関して実践することである。それはあなたがまさに行っていることをもとにした道であり、あなたが言っていることやあなたの肩書、経歴などをもとにしたものではない。それは経験に基づくものであり、物質的なものである。それは精神や知性を拡大させるものであり、実績にあぐらをかくことを許すものではない。

 
ドルイド教はさまざまな観点から環境について考えようとする。岩や木、雨粒、甲虫、馬、海、そういったすべてのもののなかに本質的な、内在する霊があると信じるアニミストである。すべてのもののなかに意識の感覚があるのである。私が意識という言葉を使うとき、この二百年の科学という言葉の意味で言うのではない。人間と意識のない生きものとしての動物との違いをはっきりとさせるために使うのである。この意味の意識は人生の大いなる網の一部である。そこでは糸が編まれ、別々になってもまだ結ばれている。それは何かをそれのあるがままにするのだ。たとえそれがバラであろうと、雲であろうと、月であろうと。それは自身の内在するアイデンティティである。より詩的表現をするなら、違いを作る自身の歌である。形が与えられた精神である。

 すべてにおける意識の感覚を持ちながら、周囲のどんな状況をも軽視するのは、ドルイドにとってむしろ非常にむつかしい。その美しさゆえ摘まれ、ダイニングルームのテーブルに置かれ、数日以内に枯れるだけの野の花々はもはやない。冬が近づき、暖かさを求めてリビングルームにやってきたクモを押しつぶす選択はもはやない。ひとたび環境を見て、個々のものが自身の意識を持っていることを知ると、われわれの認識全体が変化するのである。われわれは存在の網をより大きな、より広い視点から見ることができるようになる。そして同時にそのなかに自分の場所を見つけることができるのである。

 この世界観は責任を伴っている。われわれ自身の状況のありかたに無知であることは許されないのだ。それを「全体」として見るなら、そのなかで演じるためにすべての「部分」をしっかりと見なければならない。自然の「全体」が心を持っているなら、食べ物のために生命を取るといった問題が生じてくる。ドルイド教内の多くの人が、ビーガンでないとしても、ベジタリアンである。それでもなお動物の肉を食べるほかの人たちがまだたくさんいるのだ。一部の人は、倫理的に問題はあるが、食べ物のために動物を殺すのは受け入れられると主張している。まったくもってあなたの選択である。何を選ぼうとも責任を受け入れなければならない。結論に達する前によく調べて無知であることを捧げなければならない。

 環境は、しかしながらたくさんの意味がる。われわれの言葉への即座の返答は、自然環境、すなわち自然である。しかしながら環境というのは、自然だけではない。人間の意識は小さな世界をたくさん作り出すのだ。仕事の環境、家の環境、共同体、村、町、都市などだ。自然との交流と同様に、人間と人間の相互作用の問題もある(自分自身の主張に矛盾していることは理解しているが、色んな点で人間もまた自然の一部である。どうかもう少し我慢強く聞いてほしい)。わたしたち自身の自己感覚、あるいは自己意識は茨の道を作り出す。自身や他者を傷つけないように注意深くその道を進んで行かなければならない。隠者のように生きていくのでなければ、ドルイドは他の人間と――彼らがドルイドであろうとなかろうと――相互作用の関係を持つことになるだろう。 たとえば、ドルイドは自然と関係を持ち、そのなかに内在する意識を感じながら、人間と人間の相互作用のなかに同じ意識の感覚が存在することをわれわれに教えてくれるだろう。

 ドルイド教のなかに美しいウェールズ語がある。アウエン(Awen)である。流れる水から神聖なるもの、あるいは詩的インスピレーションまで、さまざまな意味がある。わたしの好みで言えば、インスピレーションの流れである。とはいっても突然のインスピレーション体験ではなく、時を経て、人の環境に捧げられて作られたものである。わたしたちは自然と、またインスピレーション自体との関係を、それらが手に手を取って歩むまで、発展させていく。ドルイドにとって、インスピレーションは環境のなかで――環境がどのようなものであろうと――周囲のあらゆるところに存在している。

 インスピレーションという言葉は「息を吸う」ことを意味する。もちろんそれにつづくのは「息を吐く」である。呼吸をするのはもっとも原始的なことであり、環境と関係を持つもっとも簡単な方法であり、その一部であることを思い起こさせるもっとも効果的な方法である。わたしたちの呼吸する空気は50年前、100年前、1000年前に祖先が呼吸した空気である。それはまた50年前、100年前、1000年前に柳、ハンノキ、イチイの木が息を吸った空気である。同じ空気をスズメバチが吸い、草や野花が深まる黄昏のなかで同じ空気を吐き出したのだ。どのように呼吸するか、何を呼吸しているか、すべてがどのように結びついているか、単純に思い出すことによってわたしたちは環境と関わることができる。こうしたことから、触発されるとともに、わたしたちは文字通りインスピレーションを得るのだ。触発されたドルイドは、雷の嵐が来る前に暗くなった空に、食事に参加する前に感謝を捧げる、シンフォニーを書き、壁にペイントを投げ、フラッキングに対する抗議を組織し、月の光のなかで踊るための歌となり、その息(インスピレーション)を吸う。こうしてドルイドと環境のコミュニケーションが確立される。互いに話しかけるのだ、たとえ言葉を介さなくても。

 わたしたちはインスピレーションを通じて環境と関り、誰もが互いにかかわりを持っている。それは単純に環境とのコミュニケーションというわけではなく、誰もがかかわる魂の深みの関係性の感覚である。関りを持つことで、環境を大事にしながら、責任感を覚えるのである。もし再開発が見込まれる汚染地域に住むアナグマと関りがあるなら、彼らが安全であることを保証するために行動を起こさなければならない。もしわたしたちが食べている食べ物と関りがあるなら、有機栽培の食べ物を食べていることを確約しなければならない。関係性をより深めるために、できるかぎり、自らの手でそれらを育てて。隣人と関りがあるなら、彼らとの、そしてコミュニティの他の人々との強固な関係を深めなければならない。それは環境やそのなかのすべてのものへの思いやりの感覚を作り出すことである。

 ドルイドが直面するのは、これらの関係性を明確に見ることができるかどうか、そしてすべてにおいて高潔におこなうことができるかどうかという点である。このチャレンジが受け入れられるなら、わたしたちの世界観はかなり広がるだろう。人生の網はインスピレーションによってすべての糸が打ち震えることになるだろう。孤高のドルイドは鳥や木々をガイドとして、祖先や神々、世界観や教えの一部を成す自然界とともに、ひとりこの道を歩むだろう。歴史書であろうと、雷鳴轟く嵐であろうと、楽曲づくりであろうと、愛の営みであろうと、すべてのことから学ぶのは、孤高のドルイドの個人的な責任である。人生で経験できるすべてのことは、耳を傾けることを選ぶなら、わたしたちの先生である。それは何度も世界を目覚めさせることであり、人間的に可能だとしても、それ以上の責任を取ることはできないだろう。孤高のドルイドは、繰り返し、個人的な目覚めに責任を持っているのだ。世界との関係を深めるにおいて、すべてのものの聖性を認識しながら、そのなかに没頭することができる。