孤高のアウエン 

3章 ドルイド教とアウエン 

 ドルイド教ではよくアウエン(Awen)という言葉を耳にする。しかし正確にアウエンとは何だろうか。前章でもオーウェンに少し触れたが、ここではもっと吟味してみよう。

 ウェールズ語からの簡単な翻訳では、それは流れる、あるいは詩的な精神、または流れる/詩的なインスピレーションを意味する。わたしたち自身が持つエネルギーに気づき、わたしたちのまわりの自然のエネルギーを感じ取り、それが何かしだいにわかるようになる。本当にとても深い、すべてのものの本質を見るために、そして実際、シンプルに、存在の本質を見るために、人の「自身」は、また人の精神や魂は開放される。わたしたちが開放されるとき、聖なる贈り物、すなわち神や自然、あるいはあなたが集中しているもののどれであろうと、そこから流れてくるインスピレーションをわたしたちは受け取ることになる。

 アウエンが存在するためには、「関係」がなくてはならない。わたしたちが開放的でないかぎり、インスピレーションを受けることはない。雷やブラックバードや神との「関係」が確立されないかぎり、わたしたちが開放的であることはない。アウエンは、自然界においては循環的だ。すなわちわたしたちは開放的であり、自分自身を与え、そうすることで持続的な循環を得るのである。あるがままに、わたしたち自身をアウエンの流れに任せていく。わたしたちは突如覚醒したり、天啓のごとくインスピレーションを受けたりするだけでなく、日々の生活の中で、つねにつながりを感じ、驚きを覚えるのである。

 するとアウエンとは何なのか。それは気づきである。身体的、メンタル的なレベルだけでなく、存在の全体性、すなわち生命の魂の奥深さのレベルの気づきである。わたしたちみなを結びつける糸をそれは見守っている。それはわたしたちの魂と世界を育み、また喜んで、うやうやしく、手を焼きながら、厳粛にそれらを返す。インスピレーションの深い泉からわたしたちはそれを飲む。

 集団の、あるいは孤高のドルイドによっておこなわれる儀礼は、アウエンについて歌いながら、あるいは詠唱しながら、はじまる、または終わる。そのあいだ、言葉は三つの音節、アー、ウー、ウェンに分かれる。心と魂を開放する美しい音だ。(個人的には孤高の道を歩むさい、詠唱したり歌ったりするのが好きだ)。名前が付けられるとき、それはシンプルに詠唱され、歌われる。アウエンのことを詠唱し、歌うとき、わたしたちの心は文字通り開かれるのである。

 しかしながらアウエンは、それぞれの、そしてすべてのドルイドにとって異なるものである。つながり、そしてつながりを表わす表現は、とてつもなく大きく、じつにさまざまな種類がある。それはとても心地よいものである。わたしたちはアウエンを吸って、創造的な歌、ダンス、本、デモ行進を吐き出す。アウエン自体のように、可能性は無限にある。孤高のドルイドにとって、アウエンは無尽蔵である。

 ドルイド教によって、アウエンやインスピレーション、生命の流れをどのように扱うかをわたしたちは学ぶ。世の仕組みのなかで、どのようにフィットできるかをわたしたちは学ぶ。自分自身や地球にどうしたら害を与えないで生きていけるか、また世界をよりよい場所にするために、なにをすればいいか、理解しなければならない。そしてわたしたち自身のなかにも、外世界と同様、平和を作り出さなければならない。持って生まれた能力と技を用いて、歌と詩によって、洞察力と薬草治療によって、教師とカウンセラーの役割によって、法律と環境保全運動によって――このリストには終わりがない――やっていかなければならない。アウエンをシェアし、受け取ったものを返しながら、自然およびこの地球を助け、保つことに身を捧げることになる。アウエンには奉仕の精神が含まれているのである。

 森の中を散歩するとき、森と一体化するあまり、自身の感覚を失うことがある。ひとたび森と一体化すると、わたしたちはアウエンの流れからそれを口に入れることができる。わたしたちのまわりの生命はすべてアウエンの流れである。わたしたちは木々に、鹿に、狐に、岩に、小川に、アナグマになる。この融合からわたしたちは多くのことを学ぶことができる。「存在」の中に溶け込んだとき、わたしたちはすでに完全にアウエンの流れの中にいるのだ。

 わたしたちの足取りは軽く、だれかの目の前を通っても気づかれないほどだ。鹿のように極限まで神経を研ぎ澄まし、用心怠りなく、木々の合間を飛び跳ねる。じつに感覚のすべてが鋭利に、明晰になり、夕食のことや、締め切りの書類のこと、月曜の会議のことに煩わされることもなくなるだろう。この瞬間、わたしたちは完全にアウエンになっているのだ。

 アウエンはまた思いやりである。思いやりとは、理解しようとすることであり、より大きな構図を見ようとすることであり、差別のない、不可欠な生活の一部となろうとすることだった。やさしく、気づかいをもって、思いやって生きることだった。多くの人は思いやりをまちがって弱さや言いなりになることだと考えてしまっている。だれも自分に親切でないのに、どうやって他者に親切になれるだろうか。思いやりをもって生きるということは、もう一度ドルイド教の重要な言葉、アウエンと結びつくということである。こうしたことを理解しようとするなら、生命の歌が聞こえてくるだろう。開かれた心をもってその歌を聴くために、思いやりのなかにわたしたち自身を開かなければ、歌を理解することはできないのだ。

 聖杯伝説のなかで、パーシヴァルは傷ついた漁夫王のもとにやってくる。彼は王の城に招待される。騎士は国王になぜ傷を負ったか、何が起こったのか聞かなかった。彼は傷を負った国王の物語に興味を示さず、思いやることもなかった。国王と食卓で食事をともにした騎士は、宮廷の行列を見た。そのなかに若い乙女がいて、夜の間ずっと繰り返し聖杯を運んでいたのである。またしても世俗的に、無頓着に見えるよう努めて、パーシヴァルは起きていることについて問いただしはしなかった。この二つのできごとは、漁夫王がどうやって治ったかの鍵となるはずだった。パーシヴァルは聖杯を見つける千載一遇の機会を逸してしまった。もし「聖杯は誰に仕えているのか」と聞いただすことができていたら、パーシヴァルは目的を理解することができただろう。そしてこの探求をまっとうすることができただろう。

 「なんじを苦しめるのは何ぞや」という単純な問いは、思いやりを示しているだろう。それはわたしたち自身を心やトラブルから連れ出し、別の人物に何が間違っているかたずね、苦悩を避けるよう頼むことができるのである。またわたしたちの「自身」に(わたしたち自身のかわりにわたしたちの「自身」という表現)「なんじを苦しめるのは何ぞや」とたずね、存在の影の部分を探索するべく、わたしたちはおのれの内側をじっくりとのぞきこむ。東洋の伝統では瞑想を通して「自身」をより理解する。世界への反応を理解し、ふたたびそちらに向き直る。単純に物事に反応するのではなく、意図、気配り、気づきをもって行動するのである。わたしたちは聖杯の質問をほかの状況における他者と同様、「自身」にたずねることができる。それゆえ、より意図的にアプローチするために、反作用的な反応を除外することになる。こうすることによって、わたしたちは「自身」や世界のための必要とされるヒーリングを見つけるかもしれない。

 二番目の聖杯の質問「聖杯はだれに仕えるのか」によって、わたしたちに自分たちの意図をたずねることになる。人生において楽しい局面を経験しようが、不愉快な局面を経験しようが、わたしたちはもはや必要ないものを排除し、喜び、畏れ、驚きを人生に取り戻し、自分の「自身」に「だれが仕えているのか」とたずねることができる。解放されたいと思っている古い習慣と行動パターンを持ったまま、わたしたちは精神的成長が求められる答えを得るまで、何度もこの問いを発することができる。わたしたちはあらゆる人生の側面から、すなわち毎週のショッピングから(自分たちのためだけでなく、地球のためによい選択をする)他者との日々のやりとりまで、この問いを発することができる。ネガティブだが心地よいパターンに堕ちてしまうかわりにポジティブな変化をなしたなら、わたしたちは精神的成長を遂げていることになる。聖杯の質問の「自身」を思い起こすということは、日々の生活のマントラになるということであり、生活をアウエンで満たすということなのだ。

 全体性、すなわちアウエンを求めるにおいて、確立された方法で聖杯についてたずねながら、円のなかで走り回ることができる。あるいは内側を見て、思いやりについて、また聖なるもの――それが男であれ、女であれ、ジェンダーレス(中性)であれ――についてよりよい見通しを得ることができる。内側の深い探索によってわたしたちは知識を世界にもたらすことができる。単純に座禅を組んで人生を費やすことは許されないのだ。他者の利益のために聖杯を持ち出さなければならない。思いやり、自身の気づき、アウエンの贈り物を提供しなければならない。

 わたしたちは思いやりの価値を学ぶことができる。そして周囲の世界の自然のサイクルを反映した統合された人生を送るために内側のインスピレーションを深く見ることができる。そうしたとき、わたしたちはあちこちでアウエンに簡単に触ることができない。いや、わたしたち自身がアウエンになるのだ。