バガン壁画礼賛 バガンで途方に暮れる
<タンドージャ石仏> Thandawgya Image
見た目のインパクトの強さからバガンの「名所」のひとつになっている感があるが、そう思わせるのは何だろうか。この石仏は1284年、ナラティハパテ王によって建てられたという。
ナラティハパテ王! この王(在位1255−1287)は、モンゴルの侵攻によって逃げ出し、タヨケ・ピェイ・ミン(中国人から逃げ出した王)と呼ばれた王ではないか。
バガン朝はモンゴルによって滅亡し、以後、チョーズワ(1287−1298)はモンゴル帝国の家臣であり、ソーニッ(1298−1325)はミンサイン王国のバガン総督、ウザナー2世(1325−1369)はピンヤ王国のバガン総督を務めた。
タンドージャ石仏は、バガン朝滅亡の3年前に作られたことになる。モンゴル侵攻の足音はすでに相当高くなっていたのではなかろうか。
オリジナルの石仏は特別なものではなかった。高さ6mはやや大きめで、仏像のポーズである降魔印とも呼ばれる触知印(bhumisparsa mudra)はごく一般的だ。形成するブロックは砂岩であり、漆喰でそれを固めている。
鍵となるのはその名前である。タンドージャとは、「内部に高貴な声が聞こえること」を意味するという。高貴な声とは、宮廷の心ということだ。つまりモンゴルの脅威にさらされている今、仏に助けを求めているのだ。
しかしいまやアーナンダ寺院のような立派な寺院を建てる余裕はなく、この大仏とて精巧なものではなかった。漆喰が剥げ落ちてブロックが露出し、「レゴ大仏」のようなありさまになっているのは、あわてて作ったからではなかろうか。
しかしこうして何百年も修復されなかったことにより、霊的パワーをもつ(あるいはもっていそうな)特別な石仏となったのは、何という皮肉だろうか。まさかとは思うが、修復して、作られた当時の姿に戻そうなどと思わないでほしい。金ぴかの仏像としてリバイバルし、仏像の頭部のうしろで「エレクトロ後光」がちかちか光るさまなんて、想像もしたくない。