わが南京(ベッド)(バグ)ブルース   宮本神酒男

 

 旅を友としてきた私にとって、それは南京虫やダニとの戦いでもあった。厄介なのは、それが崇高な、英雄的な戦いでもなければ、生死に関わる戦いでもないことである。どんなにもがき苦しんだところで、他人は同情してくれないし、場合によって軽蔑し、気持ち悪がって避けようとさえするものだ。

ネパール東部のカンチェンジュンガが見える丘の上のリンブ―族の民家に泊まったときのことを思い出す。この家はサンバ(Samba)という神話伝説を熟知する百科辞典のようなシャーマン的祭司の住まいだった。彼は、より純粋なシャーマンであるイェバ(Yeba)と共同で、トンシン(生命樹)儀礼という象徴性に満ちた、じつに興味深い儀礼をその庭で行なった。

 問題は、儀礼そのものとは別のところにあった。前夜、わが体中を凌辱し、もてあそんだ南京虫かダニの咬んだ無数の痕が、かゆくてたまらなかったことである。神経を集中しないといけないときに、そのかゆみがぶり返してくるのだ。これはあくまで個人的な問題であり、他人と苦しみを共有することはできない。

 瞑想のテクニックを教える仏教指導者は、精神集中をはかるときに背中やお尻などに生じるかゆみに対し、それを避けるのではなく、むしろそれに集中せよと言う。それは効果的な方法だけれど、南京虫やダニに全身を刺されたら、どんなヨーガの達人でもこらえるのは難しいだろう。

 私の旅の人生を振り返ると、要所、要所で、南京虫やダニに刺されてきた。ひどい場合だと200か所を越えることもあった。いままではまるでそんなことがなかったかのように無視してきたけれど、思うに、ある意味で、虫刺されは記憶にアクセントを与えているのである。ひどい虫刺されにまつわる思い出を中心として、旅の記憶を整理することができるのではないか、と考えるにいたった。災いを転じて福となそう、という魂胆である。

 

<第5位> ウガンダの都カンパラの巨大南京虫 

 かなり昔の話だが、ウガンダの首都カンパラに立ち寄ったことがある。当時はアフリカの探検の時代にあこがれていて、スタンレーやバートン、スピークスら探検家たちが探し求めていた幻のナイルの源流、「月の山」ルウェンゾリ山(マルガリータ峰は5109m)に登るためウガンダに来ていたのである。ザイール(現コンゴ)との国境近くの村からルウェンゾリ山に向けて出発するに際し、ガイドとポーター3人を雇うことになった。まるで19世紀の探検隊のような大所帯である。市場で食料を購入するとき、重量20キロごとにひとりのポーターが必要とされるという規定があった。量ると、キャッサバだけで20キロの重さがあり、キャッサバ担当のポーターひとりを加えざるをえなかったのだ。

 ルウェンゾリ山登頂はあと一歩のところで逃したが、雨ばかり降る天候(4200m附近では粉雪が降ってきた)、洞窟に泊まったときに地下からオーケストラの演奏のように聞こえてきた地下水の轟音などから、ナイルの源流がここにあることを実感した。地理学的にははるか下方のビクトリア湖が源流ということになるらしいが。

 そんな自分なりの探検を終え、カンパラに戻ってきて、安易に町中の安宿に泊まったのがいけなかった。夜、ベッドに横たわると、体がモゾモゾするので、起き上がると、シーツにカメムシを発見した。しかも2匹、3匹……数えはじめると、無限に増殖していくような気がした。体はすでに相当かまれていた。日本で目にするカメムシと形も大きさもよく似ていたので、それが南京虫とは、じつは気がつかなかった。いま、調べると、南京虫はカメムシ目(半翅目)に属するらしく、カメムシと外見が似ていても不思議ではないのだ。カンパラといえば町中に近い林に巨大コウモリが棲むようなところ(私は故・西丸震哉氏の本からそのことを知っていたので夕方、巨大コウモリの群れが飛ぶのを見に行った)。カメムシそっくりの巨大南京虫がいても不思議ではないだろう。

 カンパラの南京虫は長さが1センチ以上もあるため、到底つぶす気にならず、窓からポイポイと外に捨てた。何十と捨てて、手が痛くなったほどだ。窓の外は通りだったが、真夜中だったので人通りは少なかっただろう。しかしカメムシ(じつは南京虫)を駆除してもきりがなかったので、私は椅子に坐って夜を明かすことになったのである。

 

<第4位> コルカタ名物南京虫 

 まず断っておきたいが、コルカタは魅力的な町である。詩人タゴール、宗教家ラーマクリシュナから作家アミタヴ・ゴーシュまで、さまざまな才能を生み出してきたベンガルの都である。私はいまもサダル・ストリート界隈からマザー・テレサの家まで歩くのが好きだ。この間の繁華街やスラム街を、人や牛にぶつありながら歩くと、人間社会の真実を感じるような気になるのである。

 しかしかつては、サダル・ストリートのゲストハウスに泊まるたび、南京虫かダニにやられ、体中をかきむしることになった。サルベーションアーミー(救世軍)のゲストハウスも例外ではなかった。とくに大部屋(ドミトリー)では、運が悪いと強烈にしつこい南京虫が巣食うベッドに寝るはめになった。しかしここはキリスト教精神に基づく教化活動がさかんで、あるときは近くの広場に宿泊客を集めて、女性たちの民族的な踊りを見せてくれたことがあった。

 サルベーションアーミーかほかのゲストハウスかよく覚えていないが、サダル・ストリートに泊まったあと、バンコク行きの飛行機に乗るためにコルカタ空港に来ていた。しかしフライトの出発がかなり遅れ、何時間も待合室で待たされることになったのだが、そのあいだに体がどんどん痒くなっていくのだった。かゆみ止めの軟膏は預けた荷物のなかに入っている。バンコク空港に着けば空港内のドラッグストアで薬を買うこともできるだろう。それまで我慢するだけの話だ。しかしよりによって飛行機の出発が遅れたときに南京虫かダニが自由勝手にわが園を食い荒らしているのである。もう人目もはばからずに、ボリボリと掻きむしった。

 なんとかバンコク空港に着いたとき、自分の腕を見て驚いた。肌という肌に、びっしりと噛んだあとがつき、すべてが腫れ上がってしまったのだ。あまりにすごくて、何かの病気にかかっているとしか見えない。そこで私は荷物から厚手の長袖シャツを取り出し、ものすごい状態になった肌を隠し、気温37度のバンコクの町中へと繰り出していったのを覚えている。

 

<第3位 日の出とともに消えるバンコクの南京虫> 

 そのバンコクはやはりコルカタとならぶ南京虫の都である。タイ人は清潔好きだけど、カオサンの安宿から南京虫やダニすべてを追い払うのは不可能だった。

 あるときバンコクに着いたのが深夜で、タクシーでカオサンに着いたのは12時を回っていた。そんな時間でもメインの通りはまだ人通りが多く、路上や歩道の物売りは仕事を終えていなかった。そこに音楽テープを売っている物売りがいて(音楽テープということは90年代だろう)私はなつかしいピンクフロイドのライブを買った。

 警察署の向かいのワット(寺院)のなかを抜けて、向こうにある2、3度泊まったことがあるゲストハウスへ行こうとした。しかしワットのなかに数十匹の野良犬軍団がいて、私のもとにやってきて、いっせいに吠え始めた。犬というのは不思議な生き物である。集団で人に襲い掛かることもあるが、多くの場合、危害を加えようとはしないのである。バンコクのワットの犬の軍団も後者のパターンだった。私は平然として、吠え立てる犬のなかを進んだ。

 しかし動揺してしまったのか、何度か泊まったゲストハウスではなく、日当たりの悪いはじめてのゲストハウスにチェックインしてしまったのである。私は部屋に入り、ベッドに大の字になり、買ったばかりのピンクフロイドのライブのテープをウォークマンで聞きながら、睡眠に落ちようとしていた。しかし腹のあたりで何かがカサカサし、眠気が吹っ飛んだ。ついで足や首や腕にも何かが這いまわり始めていた。あきらかに南京虫だ。私は跳び起きてシーツをめくった。なんとそこには数百匹、あるいはそれ以上の大小さまざまの南京虫が蠢いていたのである。

「うわあっ」とまるで死体でも発見したかのような叫び声を私はあげた。

 このときも一匹一匹殺していったが、30匹惨殺したところで、きりがないと思い、やめてしまった。時計をみると午前2時。いまからフロントにクレームをつけたところで、どうにかなるものでもあるまい。そこで私はまたも椅子に坐って夜明けまでしのぐことにしたのである。

 このとき不思議な現象に気づいた。午前6時頃、突如数えきれぬほどいた南京虫が消えたのである。そのゲストハウスはなぜか窓を覆って日が入らないようにしていたので、昼間でも部屋のなかは暗かった。当然日の出のときも部屋は真っ暗だったが、おそらく南京虫たちは日の出の時間を知っていて、そのときになると活動をやめてねぐらに戻る規則を持っているようだった。南京虫も特殊な虫ではなく、自然の摂理のなかで生きる生き物なのである。

 

<第2位> キナウルの洪水の日の南京虫 

 インド北西部キナウル地方は、長い歴史を持つ地域である。仏教の八部衆のひとつキンナラ(緊那羅)は帝釈天の眷属とされるが、一部の学者はキナウル人こそキンナラの末裔であると主張する。

 私は2000年代に入ってから何度もキナウル地方へ行ったが、6月頃になることも多く、この季節は崖崩れに悩まされることが多かった。小石や砂が雨あられと降ってくる崖の下を走って抜けることもあった。激流のなかの岩から岩へと跳んで川を渡ることもあった。荷物といっしょに数十メートルの崖のような斜面を滑り降りる(というより落ちる)こともあった。こういった崖崩れには慣れていたのだが、2005年の洪水は例年より規模が大きかった。

 聞いたところによると、西チベットの村(このあたりは仏典を最初にチベット語に翻訳したリンチェン・サンポの故郷である)がひとつ流され、中国との国境に近いプーという村でもたくさんの家屋が流されたという。キナウルの手前のランプールという町に着くと、町の住民がみな高台に避難していたので、いったいどうしたのかと聞くと、サトレジ川が増水して浸水を起こしそうだという。たしかに激流となったサトレジ川はいまにも町に侵入してきそうな勢いである。

 いやな予感はしていたのだが、ともかく私は当面の目的地レコンピオ(キナウルの行政的中心地)をめざした。いつもならレコンピオ直行のバスがあるのだが、この日は乗り継いで行けるところまで行くしかなかった。

 レコンピオまで数十キロも残していたが、バス(マイクロバス)に乗って進むのは不可能になった。見知らぬ村で一泊し、翌日、歩いて(レコンピオの上方にある)カルパといういつも泊まっている村をめざすことにした。

 宿泊したのは正式なホテルとは思えなかった。売店の主人が持っている小さなビル(ビルの1階が売店)の上のほうの部屋を貸し出していたが、ホテルと書かれた看板は見なかった。しかし翌日からどうなるのか、どうすればいいかわからず、私はこれからのことで頭がいっぱいだった。なにしろバックパックとカメラバッグ、あわせて35キロにもなる荷物を担いで、どうやって山道を歩いていくというのか。

 ベッドに横になってあれやこれやと考えていた私は、またも体を何かがモゾモゾと這っていることに気づいた。南京虫である。ああ、なんということか。またも椅子に坐って夜を明かすことになってしまった。体をかきむしりながら、しかも睡眠不足で山を歩かねばならない。

 この認可されていないと思われる宿で、私はイスラエル人と友人になった。彼はポーランド系で、どこからどう見ても東欧人である。アシュケナージ系のユダヤ人を非ユダヤ人のヨーロッパ人と区別するのは難しい。

 そこからマイクロバスが出ていることを知り、あわてて乗り込んだ。しかし10分ほど走ったところで、運転手はバスを停め、ここから歩けと言った。このときイスラエル人は懸命に料金をちょろまかそうとしていた。20ルピー札しか出していないのに、(見た目は似ている)50ルピー札を出したのだからお釣りを払えと主張していた。外見はきれいなヨーロッパ人だが、中身はずいぶんとせこいやつだな、とあきれてしまった。後日カルパで、彼が商店で何かを買った時も、店にこまかいお釣りがないときかわりにキャンデーやガムを持っていくならわしが現地にはあるが、彼がごそっとキットカットを持っていったのを見たことがある。店の女性は文句を言うこともできずに困った顔をしていた。

 バスから降りて、私は重い荷物を持って歩き始めた。ゆるやかな坂を1時間ほど登ったところで、息が切れ、私は「これはアカン」と思った。と、そのときまるでその瞬間を待っていたかのように男が現れた。

「わたしがその荷物持ちましょう」

「え?」

「私はネパール人のポーターです」

 ネパール・ヒマラヤではよくポーターを雇ってトレッキングをするので、ネパール人ポーターは珍しくないが、この場に突如ネパール人ポーターが現れたのには驚いた。私はこうして10時間以上かけて歩いてカルパに到着したのである。

 途中にはもちろん休憩所はないが、裏ワザがあった。あたりには大麻が群生していた。どこも大麻だらけなのである。それほど遠くないマナリという町がヒッピーの聖地になったのも、周辺に大麻が自生していたからだ。私は大麻の葉をむしりとり、それを手の中でクチャクチャに揉んで、その匂いをかいだ。すると不思議なことに、それだけで活力がよみがえってくるのだった。大麻は違法薬物である以前に、薬用植物なのである。

 こうやって苦労してカルパに着いたにもかかわらず、レコンピオ、カルパ一帯が陸の孤島状態になりつつあるため、外から来たインド人や外国人が即座にこの地区から脱出するようインド政府が準備を進めていることがわかった。

 宿に一泊しただけで、私とイスラエル人は朝5時にレコンピオに下りた。そこのヘリコプター発着場にはすでに群衆が集まっていた。外国人は数人しかいなかったが、インド人よりも優先的にヘリコプターに乗れるという。

 6時半頃、最初の軍用ヘリが着陸した。ヘリの扉があくと、2、30人の人がいっせいに飛び出してこちらに走ってきた。みなテレビカメラやマイクを持っている。今回の洪水の被害が甚大で、陸軍のヘリコプターまで出動する事態になったことは、十分ニュース価値があるようだった。レポーターがやってきて、さてなんと言おうかと考えていると、マイクが向けられたのはイスラエル人だった。見かけはヨーロッパ人なので、ついつい彼にマイクを向けてしまうのだ。そういえば日本の知り合いのニュース番組のディレクターも、祭りの取材のときなど、外国人かいればかならずそちらにマイクを向けると言っていたっけ。

 つぎのヘリは我々を運ぶヘリだった。軍用ヘリは、オスプレイほどではないにしても、かなり大きかった。小型飛行機なみに人を運べるのだ。窓から見ると、2千mクラスのキナウルの山々の稜線の高さを飛んでいた。丘の上にへばりついた村々を間近に見ることができた。気がついたらヘリはもうシムラの空港に着陸していた。

 

<第1位> 穀物小屋の南京虫地獄 

 イ族、なかでも四川省南部の大涼山のイ族は個性あふれる人々である。清代、彼らはアヘンを作り、それを売って得たお金で武器を買い、武装して、半ば独立した王国のようだった。外から来た人間は奴隷にされることがあったので、清の官憲はこの地域に行くのをいやがったという。中国の人民解放軍は1957年から59年にカム、そしてラサに侵攻したが、その前の1956年に大涼山に攻め入り、大戦闘のすえ「解放する」ことに成功していた。しかしいまも反中央精神を持った人々である。

 90年代半ば、私はイ年(イ族の新年)について調べるため、村に入った。そのときにあてがわれたのは、穀物小屋だった。独立した部屋のほうがプライバシーも守られるので私は喜んでそれを仮の宿としたが、重大な点を見逃していた。小屋のなかには瓜やイモがあったが、季節は秋、圧倒的に多かったのはトウモロコシである。トウモロコシが多いからかどうかわからないが、案の定、ここは南京虫かダニの巣窟だったのだ。

 私は南京虫かダニに、好きなように食われまくった。私の体は特上のごちそうである。あまりにかゆくて何も手に着かないので、気分をまぎらすために私はかまれた痕をかぞえてみた。しかし200を超えたところでもう無理だと判断し、数えるのはやめた。300か所くらい咬まれていたのだろうか。

 私がこうして耐えているとき、深夜、母屋のほうからうめき声がきこえてきた。最初はじつは、夜の営みの声かもしれないと思った。雲南省のナシ族の地でも似た声を聞いたことがあった。女性のあえぎ声のようでもあったが、病気で苦しんでいる声のようでもあった。なぜなら男の声が聞こえなかったからである。女性のあえぎ声はしだいに大きくなり、ついにアアン! という声が大きなため息とともに発せられたとき、男がはじめて「おおっ」と叫び、それが営みであることがわかったのである。

 しかしここ大涼山では違った。だれかがやってきて戸をドンドンと叩き、「宮本(ゴンベン)先生!」と私を呼んだ。戸をあけると私の友人が不安そうな顔で立っていた。彼の母親が苦しみだしたが、薬がないという。私にいい薬はないかと尋ねたのである。

 それは何か特別な病気ではなく、腹痛のように思われた。その証拠に私の下痢止めで痛みが和らいだからである。しかし問題はそのあとのことだった。

 お正月にあわせてピモ(祭司)は家々を回っていく。ひとりのピモが翌日やってきて、卵占いをやった。占いによって昨夜の痛みの原因を探ろうとした。すると占いの原因は「外部からもたされた」というのである。外部から来た人間は私しかいない。たしかに私は勝手に外からやってきて、伝統習慣を眺めているのである。しかしすでに私は罰をくらっているのだ。何百か所も南京虫に食われることによって。