奥様は魔女の秘密      宮本神酒男 


<はじめに> 

 魔女やウイッチクラフトに関するたくさんの本を読んでいるわたしはちょっとしたウイッチ(魔女)専門家になりつつある。そのついでにドラマ・チャンネルで現在放映されている、子供の頃大好きだったシットコム(シチュエーション・コメディ)ドラマの名作『奥様は魔女』(1964-72)を見直してみた。あらためて見ると新鮮で、すごく面白い。子供の頃の具体的な記憶はまったくないけど――いつ見たか、何回見たか覚えていない――子供にも十分わかるシンプルな魅力にあふれている。と同時におとなしかわからない微妙で絶妙な、複雑な展開や言い回しが見いだされる。脚本がじつにうまく書けているということだ。

 今だからこそ知ることができるのだが、テレビを見ているだけではわからない舞台裏の事情があった。主演女優(サマンサ役のエリザベス・モンゴメリー)とプロデューサー(ウィリアム・アッシャー)が夫婦であることに気づいた視聴者はいただろうか。しかもドラマシリーズの終盤に主演女優はドラマに少々飽きていただけでなく、夫に愛想が尽きて、既婚の同ドラマのディレクターと浮気していたなんて誰が想像できただろうか。ドラマ化されていないもう一つの物語――コメディではないドロドロの物語――が進行していたのである。 

 話を戻すと、『奥様は魔女』の脚本家たちは当時の精鋭中の精鋭で、現在の目から見てもすぐれていることがわかる。とはいっても、ドラマ・映画でも、小説でも、コメディはつねに翻訳不能の面がつきまとう。たとえば早口言葉は翻訳できないので、別の日本の早口言葉に置き換えられる。しかしあまりに日本的すぎると、筋と関係ないことが気になってドラマの本筋を見失ってしまう。また時代が隔たりすぎて、現代アメリカ人にもわかりにくくなっている。たとえば当時のはやりの人形の名をもじったセリフが出てくるけど、現代アメリカ人にはピンとこない。 

 もっとも罪作りな面があるとするなら、実際どころか、伝承や物語にもない魔術や魔女像を作り出してしまったことだろう。鼻をピクピクさせて魔法をかける姿を見てこれが真正の魔女だと考える視聴者は多くはないだろうけど、魔女が一種の超能力者と信じる人はいるかもしれない。 

 現代もたとえばルーマニアのある地方には魔女が一定数残っている。イングランドなどには、ネオ・ペイガニズムの一種としてウイッチクラフトを実践しているウイッチ(あるいはウイッカを実践しているウイッカン)はたくさんいる。

 私は中国西南やヒマラヤなどでフィールド調査をおこない、たくさんの女性祭司やシャーマンに会ってきた。山奥のプミ族の村の美人祭司、顔に刺青を入れた独竜族女性シャーマン、ミャンマー・チン族の刺青の女性占い師などは、みな見方を変えれば魔女だ。欧米の魔女とこれら女性祭司は似ているが、『奥様は魔女』の魔女はまったく新しい人工物である。シーズン7では魔女裁判で有名なセーラムで長期ロケを敢行し、実在の魔女に近づいているが。 

 もちろん私はこのドラマを批判しているわけではない。現実の、あるいは歴史上の魔女とは別個のフィクション的な魔女を作り出した画期的なドラマといえる。一種の魔女ものというジャンルを編み出したのだ。神話伝説では「異類婚姻譚」(天人女房)が近いだろう。エイリアンものというジャンルも似ている。最近では私のお気に入りの『レジデント・エイリアン』が典型的なドラマだろう。異界に属する女(あるいは男)が人間世界に溶け込もうとする、あるいは人間世界のよさに気づいていく、その過程をコミカルに描いたものだ。 

 ドラマチャンネルで繰り返し放映しているので、いままで二十話、三十話は見たことがあったが、今回全体の8割か9割をチェックすることができた。基本は吹き替え版だが、ときどき原語で聞いてみて、何と言っているか確認してみた。そうすると単純な間違いや古い表現、意図的な改変なども発見できたのである。改変というのは、たとえばサマンサの娘は最初タバサという名だが、途中でタビサに変わっている。日本語版制作者は当然このことを知っているはずだが、あえてタバサで通したのである。しかしサマンサ役のエリザベス・モンゴメリーが強く願って聖書上の名前タビサに変えたのだから、タビサで統一すべきだったと思う。