失われた聖書の瞑想術を取り戻す 

序 

 

わが目は夜警の交代する時に先だってさめ 
あなたの約束を深く思います 

(詩篇119、148) 

 

 瞑想は新しいものではありません。ニューエイジのものでもありません。グルではなく、神がつくりたもうたものなのです。それは聖書をもとにしているものであり、ブッダをもとにしているのではありません。聖書の瞑想は、私たちの時代の先例のないストレスにたいする解毒剤なのです。だれもがうつうつとし、自分が無意味な存在にすぎないと感じられるこの世界において、生き残れるか、正気でいられるか、気高くいられるかどうかは、失われた聖書の瞑想術を取り戻せるかどうかにかかっているのです。この瞑想という習慣によって、あなたの人生における不安は劇的にやわらぎ、ストレスは減り、日々に新しい成功がもたらされるのです。そして海の深さほどの心の平安を享受することができるのです。

 聖書には何度も「瞑想」、「黙想」、「熟考」に言及されます。それで私たちは鼓舞されておのれの考えを神の言葉と結びつけることができるのです。実際のところ「瞑想する(深く考える)」、「瞑想」という言葉は聖書に21回も出てきます。「考え」、「考えること」、「思考」などは252回も出てきます。「心」は163回、「黙想」は9回にも及びます。神が「心づかい」へ近づくということは、心が神の言葉に満ちているということです。それゆえ聖書にはつぎのように書かれています。

 

●キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。(コロサイ人への手紙3-16) 

●キリスト・イエスにあっていだいているのとおなじ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。(ピリピ人への手紙2-5) 

●どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが、あなたの前に喜ばれますように。(詩篇19-14) 

 

 もしあなたが瞑想にたいしてアレルギーを持っているとしても、まあ、克服することだ。聖書を愛する者は瞑想を提唱するのに弁解を要しない。なぜならこの宗教の偉大な英雄たちが模範を示してくれるからだ。

 

●家長の時代、イサクは夕暮れ時瞑想をするため野に出た。(創世記24-63) 

●主はヨシュアに律法の書について言った。「昼も夜もそれを思え。……あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(ヨシュア記1-8) 

●詩篇作者は、昼も夜も瞑想する人々を流れのほとりに植えられた実のたくさんなる木として描く。(詩篇1-2~3) 

●エレミアは言った、「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉はわたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」(エレミア15-16) 

●聖母マリアはこれらの事をことごとく心に留めて、思いをめぐらしていた。(ルカ伝2-19) 

●イエスは信者たちに忠告した、「み言葉を聞いて受け入れ、それについてよく考え、よく行動すれば、実を結ぶものである」(マルコ伝4-20) 

●使徒パウロはわたしたちに、まことで、高貴で、優美なことについて考えるように言った。そしてこれらのことを瞑想せよと言った。(ピリピ人への手紙4-8) 

●へブル人の手紙の作者はイエスについて思いみるべきだと言った。(へブル人への手紙3-1) 

 

つづく