白と黒の謎を追う

中国西南のチベット・ビルマ語族に見られる不思議な二元対立

宮本神酒男

 

災害と神話

 去る5月12日、M8・0という巨大地震が四川省西北部を襲った。震源地は文川県だが、そこから北東250キロの四川・甘粛省境へのびる活断層全体が震源地といってもいいだろう。

 この一帯は羌族(Qiang自称ズマ。古代羌族の後裔)の居住地だった。人口10万人余りの小民族の存亡の危機である。私は以前、自転車に乗って文川県や茂県を走り回ったことがある。どの峡谷も刃物でえぐったかのように狭く、深かった。当時、なにかの本で1933年に茂県の畳渓をM7・5の大地震が襲い、畳渓と14の村が崩壊したということを知り、空恐ろしくなった。石を積み上げて造る伝統的な羌族の家屋は耐震構造に優れているとはとうてい言えなかった。

 地震が多発する地域に住む人々は、なまず伝説のような地震による天変地異の神話をもっているだろうか。ふとそんなことが気になり、手元にある資料を漁ってみた。しかし神話に現れるモティーフは、洪水と旱魃と大火だけだった。地震被害の模様がテレビでも報じられた北川県では、大洪水のあと、生き残った兄と妹が結婚する神話が伝えられている。妹は仙女になりすまして洞窟で待ち伏せ、兄と関係を持つ。また北川県の別の神話では、旱魃と大火は10個の太陽が起こしたものだった。妹が弓を作り、その弓で兄が9個の太陽を射落とす。兄妹はそれぞれ山に上り、竹を植え、枝が絡み合ったら結婚するという、なにか恥ずかしくなるような取り決めをする。枝が絡み合ったのでふたりは結婚するが、生まれてきた子どもは肉の塊だった。その肉塊を四方に撒いたところ、それぞれの方向に煙が立った(つまり村ができた)という。(註1)

 これらの神話を地震と結びつけるのは無理があろう。おそらく何十年かごとに大地が揺れるため、それはつねに現在進行形の話であり、神話や伝説に昇華することはないのだ。

 

白石信仰

 はじめて羌族の石造家屋の屋上に上がったとき、四隅に盛られた三角錐の土の上に白い小石でさまざまな模様が描かれているのを見て、感銘を受けた。それを見ていると魂が天に上昇していくような気分になった。屋上にはまた杜松の葉をくべる祭壇があった。チベットで見られるものとほとんどおなじであり、その原形といえる。

 羌族の村で目に付くのは白石である。白石は天神や祖先神、またときにはその他の神々の象徴だ。地域によって異なるが、文川県綿池郷では、屋上に白石で表現された七つの神が祀られている。すなわち、天神(アバ・ムピダ)、樹神(ポルシ)、雪竜神(ロロシ)、白山神(スブシ)、黒山神(スノシ)、地主神(ブツシ)、家屋神(セドシ)である。そのほか祖先神のムジジョ(天仙女)とルピワ(野人)、門神の左門神(ドゥムンツェ)、右門神(ナムンツェ)、漢文化の影響を受けた火神(オンブシ)、羊神、倉神(チュンチェシ)などが信仰されている。(註2)

 白石神の神話はいくつか知られている。黒水県や茂県に伝わる話はつぎのようなもの。ある青年が羊の放牧をしていると、カラスが近くの樹上にとまり「じき九つの太陽が現れ、地上の草木をすべて焼き尽くすから逃げたほうがいいぞ」と告げる。青年は村に戻り、村人全員に至急逃げるように促したが、自身は白雪のように輝く石に変じてしまった。人々は感謝の気持ちをこめて屋根や家の外壁、石垣の上などに白石を置くようになったのだという。一方、白石神は村人を守り、五穀豊穣と家畜安寧を約束するのである。(註3)

 白石は羌族が中国西北から移住してきたとき、道標として使われたという言い伝えがある。峠の上や分岐点に白石を置き、将来故郷に戻るとき迷わないようにした。(註4)

 白石は戦いにも使われた。古代、ガ人(戈基人)は羌族の宿敵だった。伝説によれば彼らは尾のはえた獣に近い野蛮人で、農耕も牧畜も知らなかった。(註5)

 もちろん侵略者が自分の行為を正当化するために、古代日本の土蜘蛛と同様、先住民を野蛮人として描いたのだろう。北方からやってきた羌族に対し、素朴なガ人は必死の抵抗を試みたはずだ。伝説によれば、天神ムピダは雪玉を使うガ人に白石でもって戦えと命じた。また戦いに敗れた羌族が白石の洞窟に逃れたところ、突然ガ人の前に白い霧が発生し、羌族は追っ手をかわすことができたという。(註6)

 ガ人、おそらく冉ボウ(ぜんぼう)部落は、西方の黒水、理県、大小金川などへ逃げ込んで現在のそれらの地域のチベット族を形成したと思われる。(註7)

 白石信仰は、羌族ほど極端ではないにしろ、ギャロン人、白馬人、ナムイ人、ルズ人、プミ族、ナシ族などのあいだにも見られる。チベット文化圏全体でも白石信仰は広範囲に分布している。私は、羌族の地域から何千キロも離れたインド・ヒマチャルプラデシュ州のキナウル北部(住民はチベット系)でも麦田の各区画の中央に白石が置いてあるのを見て感慨ひとしおに思ったことがある。(註8)

 

白い人と黒い人

 中国西南のチベット・ビルマ語族が白の系統と黒の系統に二分される傾向があることに私は以前から関心を抱いてきた。レヴィ・ストロースが『構造人類学』のなかで詳述した双分組織と似たような現象なのだろうか。白系と黒系に民族が分かれるだけでなく、四川大涼山イ族のように部落の中で白系と黒系に分かれる場合もある。もともとは少数の黒イが多数の白イを支配していた。(註9)

 記録上白のほうが早く登場する。『華陽国志』(4世紀)には巴国の巴(ba)人は白虎(つまり白)を尊ぶと記される。巴人はテイ族の系統で、現在のトゥーチァ(土家)族の祖先と考えられる。四川南部から雲南にかけて分布していたボーbo ほく)人もまた『雲南志略』(14世紀)では「白人」とされ、白色崇拝があったことをうかがわせる。(註10)

 『雲南志』(9世紀頃)や『雲南志略』には白蛮・烏蛮(のちに白夷・黒夷)という名が頻出する。しかしそこに二つの民族を見出そうとすると、なかなかうまくいかない。方国瑜によれば、それらは自称ではなく、他称だからだという。とはいえ羌族のほか、白馬人、プミ族、白族はあきらかに白蛮(白夷)に属し、一方ノス(イ族)、ナシ族、モソ人(ナシ族支系で自称ナズ)、ナムイ(ナムズ)人などはナ(黒)の人々という意味だから、当然烏蛮(黒夷)の系統に属することになる。(註11)

 90年代、ナシ族のトンバ文化の中心地、白地に通っていた頃、人々が黒い民族衣装のほかに白い麻の民族衣装を着るようになり、驚いたことがある。本来白色が伝統的だというのである。黒い人々なのに、なぜ白色を重んじるのだろうか。

 四年前、四川成都で私は齢80の老学者陳宗祥氏の自宅を訪ねる機会があった。この陳宗祥氏こそ何十年にもわたって白と黒の謎を追ってきた学者だった。氏は私の想像をはるかに超えた点に着目していた。

 陳氏はチベット・ビルマ語族を羊(あるいはヤギ)頭系と牛(あるいはヤク)頭系に二分した。羌族も羊頭系(羊トーテム)と牛頭系(牛トーテム)の部落、あるいは家に分けることができるという。それらは羊頭や牛頭の骨を飾っているので、一見して区別できる。羊頭系と牛頭系は白系、黒系と言い換えることもできた。

 陳氏によると、アバ州の政協委員の李徳剛氏は、もともと黒水県小黒水の四人の土官のひとり刺巴土官で、五、六百戸の家を管轄していた。そのなかには羊頭系(ツァトゥ)と牛頭系(アリガジ)とがあった。イ族と同様、部落のなかに支配・被支配の関係が構築されていたのだろうか。

 陳氏はまたチベット・ビルマ語族を大胆に白系と黒系に分けた。

 

○白系は、ジンポー族、ドゥーロン族、コーラオ族、プミ族、白族、羌族、古代驃族(バマ、すなわちビルマ人)。

●黒系は、メンパ族、アチャン族、ラフ族、リス族、ハニ族、ヌー族、ナシ族、イ族。

 

 ビルマ(ビルマ語でbama)が古代驃族の驃(biaopiao)と関連がありそうだとは考えていたが、白系の典型的な民族名であると聞いて、私は目からウロコの落ちる思いだった(ビルマ語で白は文語でphru、口語でphju)。(註12)

 上述のように、白系の民族は「白い人」、黒系の民族は「黒い人」を民族名や自称に用いることが多い。ビルマ人のba(白)ma(人)、プミ族のpur(白)mi(人)、ルズ人のlu(白)zu(人)、ナムイ(ナムズ)人はna(黒)mi(人)かna(黒)mzu(人)、モソ人の自称ナズはna(黒)zu(人)、ナシ族の自称ナヒはna(黒)xi(人)、イ族の自称no(黒)su(人)、ヌー族の自称nu(黒)su(人)など。白(ペー)族も「白い人」の仲間に入れるべきだろう。白族の支系レブ人もle(白)bu(人)、ネパールのリンブー族もリは弓を意味するとされるが、li(白)mbu(人)だろう。

 

白色信仰の元祖、白馬人

 一昨年、二年後に大地震の被害を受けることになる甘粛省文県と四川省平武県の白馬人の地域を、13年ぶりに訪ねた。文県鉄楼郷入貢山村のなまはげを連想させる鬼面舞(チグ・ジョウ)を見たあと、平武県ではボン教祭司(ピンボ)や古歌の継承者に会った。

 白馬人は、なぜ白馬なのか。彼らの起源については二つの説があり、その論争は決着を見ていない。(註13)

 

説1)チベット族起源説

 大学者故ムルゲ・サムテンが唱えた説。白馬はチベット軍(bod dmag)がなまったpey maに漢字を当てたもの。白馬はまたチベット語訳するとタカ(rta dkar)である。白馬人の自称にダガペがあるが、これはrta dkar bodのこと。唐代、唐と吐蕃の間に八年戦争が起こったとき、チベット軍と土着の人々との混合軍は現在の白馬人の地域に駐屯した。

説2)白馬テイ族起源説

 この地域は昔から白馬テイ族の地域だった。『史記』「西南夷列伝」に「冉ボウ(ぜんぼう)から東北の地域には、十指をもって数えられる部族の長がおり、白馬が最大の国である」とあるほか、『後漢書』「南蛮西南夷列伝」にも白馬テイという名前で登場する。すくなくとも紀元前には白馬という名称が一般化していた。

 

 昔から「上からはチベット人が、下からは漢族が迫ってくる」と、チベット族を漢族と同列に脅威とみなしてきたこともあり、心情的には多くの白馬人は二番目の説を支持する。私は一番目の説は「大チベット主義」のたまものだと考えていた。(註14)

 しかし語彙の聞き取りをすると、思いのほかチベット語(カム方言)に近いことがわかった。言語学者の黄布凡によると、白馬語とチベット語は83・4%が同源という。この高い数字は、テイ族起源説にはきわめて不利である。(註15)

 ただテイ族起源説に有利な伝説がある。

 昔、鉄楼白馬人は四川江油あたりにいた。長男ダガと次男ダマという兄弟がいた。戦争が発生し、彼らは親族を失ったため国を捨て、鉄楼にたどりついた。そこで妻を娶り、農耕をはじめ、定着した。あるとき兄弟が山で狩をしていると、一頭の虎に出くわした。矢を放って射止めたが、刺さった矢が一本だったため、兄弟喧嘩になった。兄弟は四山神に祈り、当たった矢の持ち主には四人の子が生まれ、四山を得ることができるように願った。次男のダマに四子が生まれた。長男ダガにも一子ができた。(註16)

 彼らに白色信仰があるのは、その白い麻の衣装、羊毛を圧縮して作った白い帽子、それに挿した白い鶏の羽を見ればあきらかである。民族の自称ペー(pey)もチベット・ビルマ語の白を意味するプルpur(プミ語)、パーpha(ナシ語)、プーphu(リス語、ラフ語など)、パーpa(白語)と同源の語だろう。

 

黒色信仰

 白色信仰と比べると、黒色信仰ははるかに少ない。前述のように、ナ(黒)を民族名に含むナシ族でさえ、白色信仰の面が強い。四川西南に分布するナムイ(ナムズ)人もナの民族ながら、屋根の東端に三個(ときには五、七個)のムプ(白石)を置き、神石として崇める。ちなみに、以前調査したときに驚いたのだが、ナムイ人は言語的にナシ族とはやや異なるものの、人類の始祖ツォゼリヴを共有していた。このように色の信仰に関係なく、白派と黒派に分かれる傾向があった。古代、ムーリー・ジャポ(木里王)部落と木氏部落、すなわちプミ族(白派)とナシ族(黒派)が四川西南部から雲南北部にかけての地域で激しい争いを繰り広げていた。(註17)

 あるいはカラキタイ(西遼)やカラハン朝など中央アジアの遊牧民族王朝が好んだカラ(黒 qara)という語と同様、色そのものより、黒の力強さが好まれたのかもしれない。ナシ族は、ナは黒ではなく「偉大なる」という意味だと強調する。チベット族、とくに四川省アバ州北部から甘粛省にかけて分布する遊牧民は、ヤクの毛を編んだ黒のテントをその黒さゆえに偏重しているが。

 イ族のなかでも黒イは、衣装や頭飾に黒を用いる。黒イ社会では男性だけでなく、女性も黒尽くめのいでたちをし、それにカラフルな花模様の刺繍を入れる。ラフ族のラフナ(ナは黒)やナシ族、ハニ族、リス族の一部もまた黒装束を好む。

 イ族の間で広く流布する創世史詩「レオテイ」によれば、文化英雄ツグアルは、黒い鷹だという。イ族の一部はまた、黒の虎をトーテムとする。イ族は儀礼で捧げる犠牲のヒツジやブタも黒色を好む。儀礼を執り行うピモも黒尽くめの格好である。(註18)

 雲南南部のイ族はアヘシニマという女神を信仰している。このニマというのは黒い女神という意味合いである。普学旺氏によると、この女神は西王母と同一だという。ということは、西王母は黒い女神なのだろうか。大黒天のような外来の神以外に黒い神が信仰されているとすれば、それは特筆すべきことである。(註19)

 

白と黒の神話

 文川県綿池郷の羌族のシピ(巫師)は儀礼のなかで、白神と黒神の対立についての物語をよむ。(註20)

「白神はよい神、黒神は悪い神。黒神は問う、おまえは何をしているのか、と。白神は答える、人々は私を必要としているのだ、と。私がいれば人々は豊かになり、家畜も増える。白神は黒神に問う、おまえは何をしているのか、と。黒神は答える、おれは魔物や鬼と手を結び、禍をもたらすのさ。夫婦は仲たがいをし、嫁姑はけんかばかり、家畜には疫病が蔓延し、家族は崩壊寸前ってわけさ。白神は憤激して言う、禍の源はおまえだったのだな。陰山の後ろに追い出してやる。黒神は反駁する、おれを陰山の後ろに引っ張りこんだところであんたに何の得がある? 白神は答える、私は守護神である。羌族を守るのが私の役目。おまえを陰山の後ろに連れていき、人々に安寧をもたらすのだ」。

 雲南大理の白族には説話化された白竜と黒竜の戦いの話が伝わる。(註21)

「かつて蒼山の18の渓谷には18匹の竜が棲み、金印を持った竜渓の大黒竜がその首領だった。大黒竜は凶暴、荒淫な性格で、収穫の時期にあばれまくり、洪水を起こすことしばしばであった。それに対し善良で勇敢な小白竜は大黒竜を倒す秘策を練っていた。大黒竜の妻阿蘭はもと農家の娘だったが、大黒竜にさらわれ、しぶしぶ竜宮で暮らしていた。小白竜は阿蘭を通して大黒竜に竜袍を贈り、大黒竜を油断させ、阿蘭ともよしみを通じた。そして大黒竜が不在のすきを狙って金印を奪い、無力化した大黒竜を倒した。こうして人々に災害のない日々がもたらされた」。

 白と黒の戦いといえば、ナシ族の『ドゥとシュの戦い』がよく知られている。

「太古の昔、何もないところに(上方に)声と(下方に)息が現れた。声と息から白い卵が生まれた。白い卵から五つの(五色の)卵が生まれた。白い卵は変化して白い太陽、白い月、白い星、白い山……が現れた。また白い卵から(ナシ族の始祖)ムル・ドゥズが現れた。一方黒い卵からムル・シュズが表れた。黒い卵から黒い太陽、黒い月、黒い星、黒い山……が現れた」。

 ドゥ家(白側)は息子のドゥゾ・アルをシュ家(黒側)の領域に遣り、金銀などの宝を持ってくるよう命じる。シュ家の息子アセミワは宝がなくなっていることに気づき、後を追うが、事故で命を落とす。この事件が引き金となって白と黒の大戦争が始まる。戦争の過程でドゥ家のアルとシュ家の娘クザナムが禁断の恋に落ち、子どもが生まれる。戦争は最終的に白側が勝利を収める。

 このナシ族の白と黒は、光と闇と言い換えてもいいのではないかと思える。というのは、ナシ族のトンバ教はボン教の影響下に生まれた宗教であり、当然ボン教の光と闇の創世神話の影響を受けていると考えられるからだ。ボン教の神話はあきらかにペルシア宗教の影響を受けている。ナシ族の白と黒の戦争は、こうして二元対立的なペルシア型神話のにおいをぷんぷんと漂わせているのだ。

 しかしこうした白と黒の対立(最終的にかならず白が勝つ)の話が容易に受け入れられたのには、上述の羌族の白神と黒神の対立のような伝説が流布していたことが大きいだろう。白色信仰の民族にとってこの種の神話は利用価値が高かったといえる。

 それにしても、プミ族(白)とナシ族(黒)の対立では黒側であったナシ族が、白側の勝利する神話を重んじるというのも、妙といえば妙である。おそらく黒側に与するのと黒色信仰とは違う話なのだろう。レヴィ・ストロースの用語を借りるなら、チベット・ビルマ語族全体に双分制のようなものがあり、白と黒に二分されたのである。

 禅師の故フィリップ・カプロー師によると、米国には、患者が頭の中に白血球ががん細胞と闘い、勝つことをイメージし、治療に結びつけるメディテーション療法があった。ナシ族のトンバの治療儀礼中に白と黒の戦争がよまれるとき、そうしたメディテーション療法に近い実質的効果があったのではないかと思う。白石や白神が信仰され、黒石や黒神が信仰されることが少ないのは、もっともなことなのだ。(註22)

 

<註>

)3)『羌族民間故事選』上海文芸出版社

2)20)『中国原始宗教・資料叢編』上海人民出版社

4)死後魂が「原郷」に戻るときの指標かもしれない。

5)21)『中国各民族宗教与神話大詞典』学苑出版社

6)『羌族文化史』四川民族出版社 『羌族民間故事選』上海文芸出版社

7)『平武羌族』向遠木編 中国文聯出版社

8)ここに列挙した人々のほかにアルス人、ミニャク人など分類の難しいチベット・ビルマ語族が多数白石信仰を持つ。

9)『構造人類学』レヴィ・ストロース みすず書房

『顔色、象徴与国家権力』巫達 (『中国彝学2』民族出版社)

10)厳汝閑、王樹武『普米族族源初探』(『普米研究文集』雲南民族出版社 所収)

11)『方国瑜全集2』雲南教育出版社

12)陳宗祥『華西民族走廊地区的羊脳与牛脳』未刊

13)14)『白馬人族属研究文集』平武県白馬人族属研究会(内部発行)

15)楊冬燕『(白馬)蔵族信仰習俗現状調査研究』(『西北民族研究』所収)

16)『白馬人族属研究文集』平武県白馬人族属研究会(内部発行)

17)『普米族文化大観』雲南民族出版社

18)朱文旭『彝族尚黒習俗浅探』(『畢摩文化論』雲南人民出版社 所収)

19)10)『中国黒白崇拝文化』普学旺 雲南民族出版社

22)Philip Kapleu “The Zen of Living and Dying” Shambhala