少女の髪はなぜブロンドなのか

パキスタン北部の民族学ミステリー  宮本神酒男  → MAP

 金髪少女なんて珍しくない。しかしそこがパキスタンなら、話は別だ。パキスタンの人々の大多数は黒髪の持ち主である。ところが北に行けば行くほど、茶髪や赤毛が目に入るようになる。まれに、この少女のような金髪を目撃することもあるのだ。

 
ギルギット近郊のカルガーの大仏。さらにカルガーの謎については
→ 「ギルギット写本とカルガーの大仏の謎」」

 ギルギット郊外のカルガーの磨崖仏を見た帰り、村の中の田舎道を歩いていたとき、私は三人のヨーロッパ人のような顔立ちの少女たちと出会った。そのうちのひとりはパキスタン北部で見かけたブロンドのなかでももっともきれいな金色をしていたので、思わずカメラを向けてしまった。

 彼女はごらんのようになにか中途半端にスカーフで髪を隠した。おそらく、イスラム世界の女として髪や顔は隠すべきだが、同時に自慢の金髪を見せたい気持ちがあり、このようなどっちつかずのポーズを取ることになったのだろう。

 ギルギット郊外で会った女の子たち

 その数日前、ギルギット南方のチラースでミニバスの中に坐っていた三十代の男が欧米人に見えた。白いラフな民族服を着ているにもかかわらず欧米人バックパッカーだと思い、英語で話しかけてしまった。茶髪にブラウンの瞳はこのあたりでは珍しくないが、顔立ちはピーター・バラカンそっくりだった。

 彼らはシナ語を話すシンと呼ばれる人々である。シン人に関してはあとで詳しく述べたい。


根強いアレキサンダー大王末裔説

 ギルギットのバックパッカー宿で米国人の青年にこの金髪少女の写真を見せ、「どうして髪がこんな色をしているのだろう」とつぶやくと、青年は「そりゃアレキサンダーが来たからさ」と知識をひけらかした。

 アレキサンダー大王末裔説はどうやら広く知られているらしい。

 アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は紀元前326年、現在のインド・パキスタンにまたがるパンジャブ地方に到達した。インダス川を越えたものの現地民の抵抗にあい、疲弊をつのらせたマケドニア軍はインド中央部への侵攻を断念する。アレキサンダー大王がインダス川を南下し、その後バビロンにたどり着いたのは紀元前323年のことだった。

 歴史文書はディテールを語らない。大遠征に随行した兵士たちは当然若者が多かっただろうから、帰国を拒み、現地に滞在し、妻を娶った者もいただろうが、記録はなにも残らない。マケドニア軍がパンジャブの北方のどのあたりまで収めたかもはっきりしない。ヒンドゥークシやカラコルム、ヒマラヤまでアレキサンダーの兵士たちが行くことができたかどうか、誰も確証をもつことなどできないのである。

 しかもアレキサンダー大王の遠征のあと、出土したコインからわかるのだが、いくつかのギリシア小国(仏典に登場するミリンダ王、すなわちメナンドロス1世はギリシア系王国の王)が勃興し、バクトリア(BC255−BC139頃)というギリシア人の大国も北西インドまで領土を拡大している。ギリシア人の末裔がいても不思議ではない。


フンザの茶髪の女の子。中央アジアの顔立ち。

 言語学者はしかしパキスタン北部の人々のギリシア人末裔説を否定する。文法はもちろんのこと、語彙にもギリシア語の要素はかけらも残っていないからだ。ギリシア人末裔説で有名なパキスタン北西のカラシャ族の言語もダルド語(インド・アーリア語)であって、ギリシア語を示すものはなにもない。ギルギットの東、バルチスタンの中心都市スカルドも、もともとはアレキサンダーの都を意味するイスカルド(アレキサンドリア)が訛ったものと言われたが、現在では根拠がないとされている。

 とはいえ、私自身の体験だが、中国雲南省のモンゴル人の末裔の村を訪ねたとき、いかに末裔が変貌するか目の当たりにしたことがある。フビライ汗の軍が大理国の支配する雲南にやってきたのは13世紀半ば。それ以来、駐屯した部隊の兵士の末裔である彼らは異民族(イ族や漢族)に囲まれてきたため、言語も体形もまったく変わってしまった。ナダム(モンゴル人の伝統的な祭り。80年代に復活、というよりあらたに作られた)のゲストとして数人のモンゴル族が内モンゴルや遼寧省から招かれたが、彼らは雲南モンゴル族とくらべおよそ15センチも背が高かった。彼らの言語も周辺のイ語の影響を受け、カジャール語というチベット・ビルマ語の一種に変化していたのだ。

 だから、金髪少女のからだにギリシア人の血が流れていても、不思議ではない。

 不思議ではないのだが、しかしやはりありそうにない。大海に一滴の赤い色の水を落としたところで、青色が変わるわけではない。

 ラダック・ダー村の女の子

アーリア人侵入説

 もうひとつポピュラーな説として無視することができないのがアーリア人侵入説だ。紀元前1500年頃、明るい肌、青い目のアーリア人が中央アジアからアフガニスタンを通ってインドへやってきて、おそらくドラヴィダ系の土着民を征服した。この仮説は英国統治時代から唱えられ、現在もかたちをかえて生き延びている。たしかにパンジャブ人は典型的なアーリア・タイプで、東へ、南へ行けば行くほど肌は黒くなり、典型的なドラヴィダ系の顔立ちが目立つようになる。インド北西やパキスタン北部でヨーロッパ人のような顔立ちが見られるのは、ドラヴィダ系とまじわらなかったからだ、ということになる。一見、もっともな説のように思える。

 近年、アーリア人侵入説は学界でも主流とはいえなくなってきた。多くの遺跡が発掘され、ハラッパーやモヘンジョダロのインダス文明とガンジス川流域のヴェーダ文化とのあいだに連続性が確認されるようになったからだ。とくに水が涸れ消えてしまったサラスヴァティー川流域に古代文明があったのではないかと言われるようになった。インダス文明を含めた大文明をインダス・サラスヴァティー文明と呼ぶ。それについては著名なサンスクリット学者デーヴィッド・フローリーの「サラスヴァティー文明」(翻訳)を読んでほしい。


ラダック・レーの街頭でナッツを売るダー村出身の女性はちょっとした有名人


本命サカ人説

 ギリシア人やアーリア人をもってくる必要などなかった。中央アジアから北西インドにおそらく相当の数が移動してきたサカ人(塞人)という存在が重要になってくる。異論もあるが、サカ人はおそらくギリシア人が記述したイラン系遊牧民族スキタイ人とおそらくおなじだろう。スキタイ人は紀元前1000年頃には現在のウクライナ、ロシア、中央アジアへまたがる草原地帯で活動をはじめていた。紀元前8世紀から7世紀にかけてアッシリアやメディアと戦い、さらにはシリア、パレスチナまで侵入している。スキタイ人がよく知られるのは、ヘロドトスがその大著『歴史』に詳しく描いたからにほかならない。

 スキタイ人が紀元前後に消えていったのに対し、サカ人は紀元前2世紀頃にバクトリアを破り、現パキスタンのタキシラやインドのグジャラートなどに勢力を伸ばし、その後インド西南まで進出し、西クシャトラパ国(西サトラプ国 西暦35−405年)を建設した。現在、インドのどこでも、たとえばレストランの壁にかかるカレンダーを見ると、今年は1930年などと書かれている。これは西クシャトラパ国が作った西暦79年3月22日に始まるサカ暦なのである。サカ暦と比べたら、我々が現在使っているグレゴリオ暦なんて、1582年に作られたばかりの新参の暦にすぎない。

 サカ人(スキタイ人)はおそらく典型的なコーカソイド、すなわちヨーロピアンの顔立ちをしていたのではなかろうか。中国新疆ウイグル自治区の各博物館は競って目玉としてミイラ(多くは3200年前)を展示しているが、その大半は「東地中海型ヨーロポイド」。ウルムチの博物館のミイラ展示室では、案内嬢がヨーロッパ人の団体客に対し、「彼ら(ミイラ)はヨーロッパ人です!」と叫び、客たちは「おおっ」と感嘆の声をあげていた。たしかにミイラは客のヨーロッパ人自身にそっくりだったのだ。

 新疆にもっとも多く住むのは、漢族をのぞくと、もちろんウイグル人である。私がシャーマンの治療儀礼を見たがゆえに(ただそれだけのために!)警察に拘束されてしまった東部のハミでは、印象として、漢族に顔立ちの近いウイグル人が目立った。いっぽう、新疆西南のホータンでは、ヨーロッパ人のような顔をたくさん見かけた。インターネット・カフェの店番をしていた女性があまりにも美しく、私は見とれてしまったが、その顔はブルガリア人のようだった(水木しげる翁とブルガリア東部の町を歩いたとき、あまりに美女だらけで圧倒されたことがある)。顔以上に、携帯でだれかと話をしているそのしぐさが英国人やアメリカ人のようだった。ホータンにはおそらく10世紀か11世紀頃までイラン系のサカ人が住み、その後ウイグル化(いいかえればトルコ化)していったが、サカ人的要素はまだまだ残っているのだ。

 新疆のサカ人の一部は、おそらくパミール高原のフンジュラブ峠を越えて現在のパキスタン北部に入ってきただろう。その最後の波は、これまたあまりはっきりしないが、6世紀から7世紀中葉にかけてインド中央部まで勢力を伸ばしたエフタル(白いフン族)ではないかと思う。ただしエフタルはトルコ系という説もある。

ガンダーラ美術で知られるパキスタンのタキシラを訪ねたとき、遺跡の管理人が頭部を破壊された仏像を指差して「これらはホワイト・フンがやったのだ」と弁明するかのように説明した。仏像を壊すのはイスラム教徒にちがいないと我々は思いがちだが、その機先を制したということだろう。玄奘もエフタルによる寺院の破壊について述べているから、間違いはない。

 チラースの典型的なペルシア型岩絵

 サカ人の移動や勢力拡大と密接な関係があるかもしれないのは、岩絵だ。あまり知られていないが、新疆は世界有数の岩絵地帯なのである。とくにホータン西南の(行政的には皮山県)サンジュの岩絵をはじめとするタクラマカン砂漠南部の岩絵は、西チベットのルトク、西北インドのラダック、ザンスカール、スピティ、ラホール、パキスタン北部のチラース、ギルギット、フンザなどにおびただしく分布する岩絵と彫り方、絵のスタイルなどがよく似ている。ただし岩絵の宿業のようなものだが、年代は確定しづらく、書き手(彫り手というべきか)がサカ人という証拠を提出するのは至難のわざだ。たとえサカ人でないにしろ、イラン系言語を話す人々が現在の新疆、西チベット、北パキスタン、アフガニスタン東部にかけて数多くいた可能性はかなり大きい。


チベット侵攻以前、以後

 7世紀以前のバルチスタンやギルギットにはだれが住んでいたのだろうか。彼らはサカ人だったのではなかろうか。『旧唐書』や『新唐書』によると、このあたりには勃律(ボロール)という国があった。7世紀末、当時西域に向かって版図を拡大していたヤルルン朝チベット(吐蕃)の圧迫によって大勃律(バルチスタン)と小勃律(ギルギット)に分裂した。もしこれが正確な情報なら、勃律はそこそこ大きな国だったことになる。西暦720年代に中国からインドへ巡礼の旅をした新羅僧慧超によると、カシミールから15日のところに吐蕃支配下の三つの国、すなわち大勃律、揚同国(羊同国)、娑播慈国があったという。

 羊同国、すなわちシャンシュンはかつて大国だったが、8世紀には吐蕃に併合されようとしていた。この時期の西方の吐蕃軍は、実質シャンシュン軍であった可能性すらある。(インド・ダラムサラの北にバルモールという場所があり、石碑から、同時代にここに攻めてきたチベット軍の将軍がシャンシュン人であることがほぼわかっている)
 娑播慈国はサルポール説(ラダック・アルチ寺近くのサルポールの洞窟群は古代の王宮だったのではないかと思う)とザンスカール説とがあるが、いずれにせよ、プリグやラダックの一部まで勃律の版図は広がっていただろう。

 
チベット語の碑文が記されたバルチスタン・マンタルの磨崖仏

 パキスタン北部のハトゥンやホーダルの碑文、またギルギット文書の注釈から、勃律(アラブ語でBolor)の王パトーラ・シャーヒ(Patola Shahi 612−750年頃)の七人の名前がわかっている。ただし最後の王の名(デーヴァ・スリ・チャンドラ・ヴィクラマディティヤ)はフンザの岩に刻まれた碑文から認識したものだ。シャーヒはいわばアフガニスタンや北西インドでは由緒ある称号であり(クシャナ朝ではシャオ)、後世付け足された可能性が高い。実際、ダニヨル(ギルギット近郊)やフンザに刻まれた碑文の名にはシャーヒは使われていないのだ。とはいえ、シャーヒはおそらくペルシア系起源である。インドに入ったサカ人もシャーヒを用いていた。このことから勃律(ボロール)がイラン系のサカ人であった可能性は少なくない。

 中国の文献には4人の小勃律王の名前が見える。それは援軍をもとめて唐の皇帝を自ら訪ねた没謹忙(モ・キン・マン)と息子の難泥(ナン・ニ)、その兄麻兮来(マ・ハオ・ライ)、蘇失利(ス・チェ・リ・ツェ)であり、西暦710年以降に姿を現す。大勃律王の名は蘇仏舎利支離泥(ス・フォ・シェ・リ・チ・リ・ニ)と蘇鱗陀逸之(ス・リン・ト・イ・チェ)だけだ。チベット人は小勃律の王らを「ブルシャ王(ギャルポ)」と呼び、チベットの妃を娶った王は「ブルシャ公(ジェ)」と呼んで敬意を表わした。ブルシャという名前の起源はかなり古く、チベット人あるいはシャンシュン人はとてつもなく昔からこの地域と接触をもっていたように思われる。勃律は吐蕃軍が来る前から仏教徒だった。バルチスタン・スカルド南10キロのマンタルの磨崖仏にはチベット文の碑文があり、8世紀以降に作られた可能性が大きい。しかしギルギットの南6キロのカルガーの磨崖仏はそれよりもやや古いのではないだろうか。

 サカ人はイラン系が濃厚だが、もちろんイラン系=サカ人というわけではない。パキスタンには、ワヒ人以外にもイラン系の民族がたくさんいる。よく知られているのがアフガニスタンの主体民族であり、アフガニスタンとの国境に沿って分布するパシュトゥン(パフトゥン)人だ。彼らはタリバンの母体となった民族であり、タリバンを支持する原理主義者が非常に多い。そのほかモヘンジョダロあたりのバローチスタンやシンドあたりの人々も言語学的にはイラン系なのだ。言語学的世界地図から、かつてのペルシア帝国の栄光が幻のごとく浮かび上がってくる。

対抗馬のダルド人説

 ここまでイラン系説(サカ人説)を中心に進めてきたが、ダルド人(インド・アーリア語)説はサカ人説よりも有力とさえ言える。ヘロドトスや大プリニウス、ストラボンなど、古代からギリシア人はダルドの伝説を書き留めてきた。

 ヘロドトスは、まったくもって奇妙な話を紹介する。

「この砂漠の砂には犬よりも小さく、狐よりも大きな巨大蟻が棲む。ペルシアの王たちは狩人が捕らえたこの蟻をたくさん所有していた。(……)これらはギリシアの蟻とおなじく、穴を掘るときに大量の砂をかきだす。その砂は金だった」。

 いったいこの蟻が何なのかわからないが、この地(DerdaiあるいはDardai)が金の産地であることはまちがいない。いまもパキスタン北部バルチスタンのシガールで金の採集に従事する人々があり、金人を意味するソニワル(Soniwal)という名で呼ばれる。

 シガールにはまた女国伝説がある。

「シガールの統治者は女だった。女王は一般的な貞淑の観念に縛られなかった。ハンサムな若者を見つけるとしばし恋のロマンに浸った。もし子どもが生まれたら、男はそっと退場させられた。子どもが男の子であれば殺され、女の子であれば生かされ、大事に育てられ、母親のあとを継ぐことになる。

 あるとき女王はペルシアからふたりの王子が到着したことを知った。女王はアブル・ファイズを一目見ただけで恋に落ちた。彼女はアブルが情夫になることを望んだ。しかし彼は女王の評判を聞いていたので、正式に結婚するのであれば受け入れるとこたえた。正式でない結婚は罪だと考えていたからだ。女王は返事をしぶっていた、というのは、家臣たちは彼女を女神とみなしていたからだ。もしイスラムの法にしたがって婚姻の儀礼をおこなうなら、女王はひどい辱めを受けたことになる」。

 勘の鋭い人なら、「金の産出」「女王国」とくれば、玄奘が記した東女国のスヴァルナゴトラ(金の国)を想起するかもしれない。しかし東女国はバルチスタンではなく、羊同国(シャンシュン)というのがほぼ定説となっている。同時代の『釈迦方志』に「またの名を大羊同国、東は吐蕃、西は三波訶、北はウテン(ホータン)に接する」と記されたのが、追い討ちを掛けたかっこうだ。

 しかし玄奘の『大唐西域記』も『釈迦方志』も混同した可能性が少なくない。民俗風習の記述は金川(現在の四川西北)の東女国とそっくり、というより引き写しである。それならば「金の採れる女国」はバルチスタンのほうが理にかなっているのではないか。

 すこし寄り道をしてしまったので、本題にもどりたい。

 ヘロドトスによれば、紀元前4世紀、アケメネス朝支配下にあった現在のパキスタン北部にはダルド人が住んでいた。ダルド系言語を話す人々が古代のダルド人とおなじかどうかは微妙だが、私は同一だと見る。

 ゲラルド・ファスマンによると、ダルド語に属するのはチトラルなどで話されるホーワル語、チトラル南部で話されるカラシャ語、ギルギットやチラース、インド・ラダックのダー・ハヌーやドラスで話されるシナ語、コヒスタンで話されるメイヤン語などである。私はラダックのダー・ハヌーで語彙を集めたことがあるが、思いのほかサンスクリットやヒンディーに近いので驚いたことがある。たしかにイラン・アーリアンではなく、インド・アーリアンなのだった。ダー・ハヌーの人々は欧米人のようだ、という評判はラダックではしばしば耳にする。そのような彼らがパンジャブなど南のほうから北上してきたとはとうてい考えられない。とすると彼らはアフガニスタンや新疆から南下してきたのだろうか。アフガニスタンから来た民族といえば、イラン系のワヒ族(Wakhi)が思い浮かぶ。ワヒ族はイラン人の一派だが、イラン人よりもはるかに西欧人的な風貌をもっている。

 フンザやナガルのブルシャスキ語は、非ダルド語系のインド・アーリア語である。ブルシャがギルギットの旧名であることからすると、シン人に征服される前、ギルギットを支配していたのは彼らだったのだろうか。

 非ダルド語系で注目すべきは、フンザに住む人口わずか数百人のドマーキ人だ。ラダックやバルチスタンのモンや周辺地域のドムと同様、音楽や精錬を生業とするカーストである。彼らのドーマキ語もインド・アーリア語に属する。驚くべきことに、彼らはジプシーなのである。ヨーロッパに移動したロマ人(ジプシー)と彼らの先祖は同一なのだという。

 現在、アフガニスタンや新疆、中央アジアなどにインド・アーリア語を話す民族は存在しない。アーリア人侵入説によれば、紀元前1200年前後にはインド・アーリア語を話す遊牧民がたくさんいたはずである。もしかするとずっとのちまでインド・アーリア語を話す人々がアフガニスタンあたりにいたのかもしれない。

 前述のデーヴィッド・フローリーはしばしばヒンドゥー至上主義に近づいてしまうが、その主張によれば、アーリア人がインドに侵攻したのではなく、偉大なる文明をもった古代インド人が中東や新疆に勢力を伸ばしたのである。とするなら、たとえば新疆にインド・アーリア語を話す混成サカ人がいても不思議ではない。インド西北やネパール西部に広く分布するインド・アーリア語を話すカシャ人がサカ人の末裔だと主張する人々もインドには数多くいるのだ。

 クリミア半島のモンゴル人はスラブ人のような白人の外見をもちながら、モンゴル語をしゃべる。同様にバルチスタンのバルチ人は中央アジア人の顔立ち(欧米人的な顔立ちも多い)ながら、なんとチベット語の一種をしゃべる。大勃律のバルチスタンの人々がチベット語をしゃべるのにたいし、小勃律のギルギット人(チベット人はギルギットをブルシャと呼ぶ。ラサ発音でドゥシャ)はシン人に入れ替わったこともあり、チベット語をしゃべらない。チベット軍がどれだけいたかで、チベット語を話す・話さない、の境界ができてしまったのだ。

 20世紀前半の代表的なチベット学者フランケらは、ラダックやバルチスタン、西チベットにはチベット人到来以前、ダルド人が住んでいたと主張した。現在では当時よりもっと詳しい情報を我々は入手することができる。ラダックのダー・ハヌーやドラスの人々はシナ語を話し、ギルギットのシン人と同源で、ダルド人だ。しかしいつごろ、なぜ移住したのかはさまざまな説がある。バルチスタンだけでなくラダックでも、茶髪やブラウンの目の西欧人風の容貌をたくさん見かける。見かけだけでは仏教徒かイスラム教徒かわからない。バルチスタンでは100%イスラム教徒である。チョルバト谷には仏教徒が残っていたが、改宗してしまった。バルチスタン東部ではほとんどがヌルバクシュ派というシーア派から分離した秘教的な宗派に属する。

 サカ人説とダルド人説。少女にブロンドをもたらしたのは、そのどちらであってもおかしくない。サカ人もダルド人もパミール高原を越えて南方にやってきた。そんな彼らにブロンドは瑞兆かもしれないが、驚愕するほど珍しいものではなかった。古代のインド・ヨーロッパ語族については諸説があり、またほとんど知られていないため、アレキサンダー軍兵士末裔説がしばしば復活してくるが、古代ギリシア人をもってこなくても、昔から彼らはこのあたりにやってきていたのだ。

 サカ人、ダルド人、いずれにしてもシャンシュン国の一員だった可能性があることを最後に付け加えておきたい。ボン教の伝承によればシャンシュン国はいわば18の部族、あるいは小国によって成り立つ連合国だったという。18のすべてがチベット人である必然性はないといっていい。ラダックやバルチスタン、ギルギットのダルド人やサカ人の後裔がシャンシュンと関係ある可能性は少なくない。また西ネパールの広大な地域をおさめたカシャ人(インド・アーリア語族)がカイラス山の麓まで勢力を伸ばし、シャンシュン国の一翼をなしていた可能性もあるのだ。

 

<参考文献>

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