Welcome to the Bon caves

ボン教の洞窟へようこそ

                     宮本神酒男

1 高僧テンジン・ワンダクの
  秘密の宝箱のような岩窟寺院

     (西チベット・グルギャム)

グルギャムの洞窟

 強い太陽光のもと、息を切らしながら、岩壁を削って造った道を登り、黒い幕をめくって岩窟のなかに入った途端、すべてが一変した。薄暗くひんやりとした空気のなかに、神像やトルマや経典や供え物などがぎっしり、雑然と置かれていて、まるで御伽の国に一歩踏み込んだかのようだった。

 それらに囲まれ、奥に坐していたのは、80歳を超え、なおかくしゃくとした高僧テンジン・ワンダク師(bsTan ‘dzin dbang grags 1922-2006)だった。執着を捨て去ることができたからこそ、これほどの高僧になったのだろうと思う。しかしこの宝箱のような洞窟のさまざまなものに対し、愛着を持っているのはまちがいないだろう。私はこれらを見た瞬間、いとおしくてたまらなくなった。主であるテンジン・ワンダク師がそう思わないわけがない。

 じつはその一週間前、師とはチベット自治区最西端の町、阿里で会ったばかりだった。おりしも人民病院の開設20周年記念の式典が開かれていた。テンジン・ワンダク師は開設時の責任者であり、記念行事の主賓だった。われわれはその行事に出席し、また病院のすぐ近くにあるボン寺の師の部屋を訪ねたのである。

 テンジン・ワンダク師は1922年、ラサ北東のナチュ地区に生まれた。幼いときに僧役(grva kral 徭役として僧になること)としてボン教のパ寺(sPa dgon)に入り、勉学に励んだ。ゾクチェンを学び始めるのは23歳頃からである。25歳になるとテクチュー(khregs chod)やトゲル(thod rgal)を深くきわめていた。

転機となったのは、カン・リンポチェ(カイラス山)を巡礼した32歳のときである。のちボン教の最高峰のひとりとなり、西側にボン教を広めるのに寄与することになる若き日のテンジン・ナムダク師と邂逅したのもこの年だった。テンジン・ワンダク師はボン教の総本山であるメンリ寺のカルナ(mKhar sna)修道院で修行を積んだ。
 それからまもなく、テンジン・ワンダク師は偉大なる僧キュントゥル・リンポチェ(
Khyung sprul rin po che)と出会う。グルギャム寺はキュントゥル・リンポチェが建てた寺だった。

キュントゥル・リンポチェ入寂後はその遺戒を守り、座主としてボン教の発展に努めた。もっとも苦難の多かった時代は文革(19661976)の頃だった。寺院の建物はほとんど破壊されてしまった。
 文革の後期には医療の遅れを痛感するようになり、アムチ(チベット医学の医師)として病院の建設を画策し、1984年、その尽力が実り、ついに人民病院が発足した。こうした社会貢献が認められ、中国政府からの評価も高かった。チベット、中国、両者からの評価が高いという点では稀有な例といえるだろう。

 

シャンシュンのへそ

 グルギャムの岩窟は小さいけれど、古代シャンシュン国のへそと言っても過言でないほど重要な場所である。一説には、岩窟のある岩山はシャンシュンの都キュンルン銀城だった(私は現在のキュンルン村近くが最有力だと思っているが)。もし都でなかったとしても、シャンシュンの重要な城砦であったろう。

 キュンルン銀城は「5城(mkhar)4塞(rdzong)」のひとつであり、チベットの37の聖地の最上の場所とされていた。

この岩窟は、ボン教の聖人テンパ・ナムカ(Gyer spungs Dran pa nam mkha’)の修行窟だったかもしれない。

 テンパ・ナムカは謎めいていて、じつに興味深い人物である。

 テンパ・ナムカの生きた8世紀は、弱体化していたシャンシュン国が吐蕃に吸収されて消滅し、かつボン教が存亡の危機に瀕した時代だった。伝説によれば吐蕃のティソン・デツェン王のとき、テンパ・ナムカ率いるボン教徒とボーディ・サットヴァ率いる仏教徒との間で呪術コンテスト、また哲学の論争が行なわれた。

デッドヒートが続いたが、国王自身が仏教に傾いていたため、仏教徒が勝利を収める。これにより、本格的なボン教弾圧がはじまり、ボン教徒は仏教徒に転向するのでなければ、国外に逃亡するしかなかった。このとき多くのボン教徒が経典を持って中国、モンゴル、雲南へ亡命したといわれる。

 きわめて興味深いのは、テンパ・ナムカが仏教徒に改宗したという伝承である。この聖人とまで呼ばれる人物が、髪の毛を剃り、仏教徒になった。しかし仏教徒になったのは表面上だけのことであり、心はボン教徒だった。彼は国王に懇願し、仏教徒になるかわりにボン教経典を隠す許可を得たという。

 テンパ・ナムカと9人の弟子は経典類をスンブム(gZungs ‘bum 陀羅尼集)、ドブム(mDo’bum スートラ集)、ギュブム(rGyud ‘bumタントラ集)、シェラブ・ブム(Shes rab ‘bum 般若波羅蜜多集)に分け、チベット、スムパ、シャンシュン、ブータンのいたるところに隠した。仏教最初の寺サムイェ寺にさえ隠した。

 私はこのテンパ・ナムカ転向事件から、ユダヤ教の偽救世主サバタイ・ツェヴィ(17世紀)のことを思い出した。ツェヴィはヨーロッパや中東、北アフリカなどの離散したユダヤ人社会のなかで救世主として熱狂的な支持を受けるが、トルコで囚われの身となり、死か転向かを迫られ、結局イスラム教徒に転向した。しかしその転向が信じられない一部のユダヤ教徒は、転向は見せかけにすぎず、あくまで本当は救世主であると信じ続けた。その極端な一派であるフランキストの末流は今も残っているという。

 現代のチベット人学者はテンパ・ナムカの転向に関し、つぎのように述べる(タルタン・トゥルク編『水晶鏡W』)。

 テンパ・ナムカはボン教徒とパドマサンバヴァの弟子との論争の場にいた。そして悟りを得たものにとり、ボン教徒と仏教徒の区別などないことを示したのだった。それはあたかも天空の下に仁王立ちし、太陽と月を持ってシンバルのように鳴らすかのようだった。「人類にとって輝かしい知識を区別する必要などあるだろうか」とテンパ・ナムカは言った。開祖として崇められる彼はこうして黄金の剃刀でもって髻をばっさりと切り、パドマサンバヴァのマントラ乗に加わったのである。

 テンパ・ナムカが本当にボン教徒も仏教徒も表面上の違いにすぎないと考えたのかどうか、実際のところ、よくわからない。本質的に同じだというのなら、ボン教の修行者のかっこうのままでもいいではないか、と揚げ足を取りたくもなる。ただ依然としてボン教徒の間では聖人として崇められているのである。

 テンパ・ナムカはキュンルンの出身だという。一説には、彼には双子の子がいた。ひとりはツェワン・リグズィン(Tshe dbang rig ‘dzin)、ひとりはパドマサンバヴァだという。ということは、チベットの第二のブッダ、パドマサンバヴァはテンパ・ナムカの息子ということになってしまう。
 別説によれば、息子はツェワン・リグズィンひとりだけで、テンパ・ナムカは仏教徒に転向後、パドマサンバヴァの弟子になったという。
 これらは伝説にすぎないが、仏教のパドマサンバヴァほどに、ボン教におけるテンパ・ナムカの位置は高かったということだろう。

 

グルギャム寺院は岩窟寺院(gYung drung rin chen 'bar ba'i ke'u tshang)。岩壁に多数の石窟あり。

1936年キュントゥル・リンポチェによって創建された。

グルギャム寺の本体。ニンマ派やカギュ派も信仰する。

石窟寺院の中。所狭しとものがならぶ。

左上はナムケン、中央上にテンパ・ナムカの像。(→ボン教神像

タグラ・メバル像(左)とシペ・ギャルモ。

所蔵されたカンギュール、テンギュール。

人民病院創立20周年の式典に主賓として出席した。

式典には党や政府の幹部が並んだ。

グゲ出身の歴史家ツェリン・ギャルポと懇談。

右はテンパ・ナムカ像(カルドンのラカン内)。