Bon in Black ボン教チャム
宮本神酒男
ボン教のわかりにくさ
ボン教とは何なのだろうか。つねにそのような基本的な問いを自分に問い続けざるをえない宗教が、ボン教だと思う。
ボン教の総本山ドランジは、インド西北ヒマチャルプラデシュ州ソーランの低い山襞のあいまに横たわっている。総本山といっても、チベット自治区中央部にある古刹メンリ寺(1405年創建)の亡命寺を核とした小さな村のようなコミュニティーである。ダライラマ14世を擁するチベット仏教の総本山であるダラムサラと比べ、第33代メンリ・ティズィンを擁するドランジは、ボン教僧侶の数も300人足らずにすぎず、きわめて小規模である。とはいっても各国(とくになぜかカナダ)の諸団体や個人の援助もさかんで、一般の学校や医薬局も整い、最近は立派な尼寺や図書館、博物館が完成し、意外なほどのにぎわいをみせている。
私は何度かドランジを訪ねる機会があったが、そのたびに仏教とのちがいは何なのだろうかと考えてしまった。ドランジにかぎらないが、チベットやどこかでお坊さんを見かけたとき、ぱっと見ただけでは彼が仏教徒なのかボン教徒なのか、わからない。緋色の僧衣の下に青色の着衣が見えて、はじめてボン教のお坊さんであるとわかる。つまりそれ以外では、外見上の区別はない。
もちろん彼がボン教徒であれば、寺院や聖地のまわりを反時計回りに廻るだろう。マニ車をやはり反時計回りにまわすだろう。まんじも日本の寺院の印である卍であり、仏教とは真反対だ。仏教徒が「オン・マニ・ペメ・フ−ム」とマントラを唱えるとき、ボン教徒は「オム・マティ・ムエ・サレンドゥ」というマントラを唱えるだろう。
そして当然といえば当然だが、決定的な違いは歴史上のブッダであるシャカムニを崇拝しないことである。これだけ外見が仏教と似ているのに、シャカムニを崇拝しないというのは、きわめてショッキングなことである。ボン教徒が崇拝するのは開祖トンバ・シェンラブ・ミボである。このトンバ・シェンラブ・ミボの像もまたシャカムニとそっくりに描かれるものだから、事態はいっそうややこしい。(註:トンバ・シェンラブ・ミボの四大化身のひとつはシャカムニだが……)
宗教哲学の中心にあるゾクチェンもまた、仏教のニンマ派と共有している。カギュ派のマハー・ムドラー、サキャ派のラムデーと同様、いわば宗派の根本的な「売り」の哲学を、仏教と共有しているのである。ボン教は、ゾクチェンに関してはむしろニンマ派よりも古いと主張している。
ボン教の著名な学僧ロポン・テンジン・ナムダクは、トンバ・シェンラブ・ミボもブッダのひとりであると述べている。ブッダというのは何人もいる、という考え方が仏教にもあるので、この見方は意表をついてはいるが、まちがってはいない。驚くべきことに、こうしてボン教は仏教であるということもできるのだ。
ダライラマ14世もまた呼応するかのように、ボン教は第5のチベット仏教の宗派であると述べている。そうすることによって、分裂しがちな諸宗教を団結させるという狙いがあるのかもしれないが。チベットの仏教徒のあいだでは、まだまだボン教を外道として蔑視する風潮も残っているのだ。
つねに私の脳裏から離れないのは、ボン教は千年前、二千年前は実際どんな宗教だったかという疑問だ。ボン教徒はしばしばボン教の歴史は1万8千年にも及ぶと主張するけれども、これは虚栄にすぎず、彼ら自身信じていないだろう。
ボン教を説明するのによく使われるのが「仏教伝来以前からあったチベット固有の宗教」という言い方である。それはたしかにそのとおりだが、それではそれがシャーマニズム的な原始宗教であったのか、それともある程度確立された形態をもった宗教であったかとなると、おおいに意見がわかれるのである。
仏教の歴史学者がボン教について述べるとき、バイアスがかかってしまうことが多い。たとえば17世紀の著名な歴史学者トゥカン・チューキニマは、トンバ・シェンラブ・ミボの出自と伝記を紹介し、ボン教の歴史を三段階(ドル、キャル、ギュル)に分けて説明するなど、ほぼ正確に扱ってはいるが、いっぽうでテルトン(埋蔵宝典発掘師)が「自分で埋めてそれを掘り出している」とか、「大量の仏典を改作してボン教経典を作り出した」などと貶めることを忘れていない。
かのミラレパ(1040−1123)も若い時分は力量の高いボン教徒だった。雹を降らして邪悪な叔父の田畑に損害を与えるなど、いわば黒い呪術師だった。そんなミラレパが仏教に転向することによって、ボン教はイメージを損ねることになる。マニ教徒だったアウグスティヌスがキリスト教に転向し、聖者になることで、マニ教のイメージがダウンするのとおなじ理屈である。
かといってボン教側がすべて正しいことをいっているかといえば、そうでもない。たとえばボン教は「血の犠牲をおこなう」といわれるのを極度に嫌う。またシャーマニズムに近いといわれることも極度に恐れている。現在のボン教はシャーマニズム的要素や血の犠牲を否定しているが、おそらく数百年前、あるいはもっとずっと最近まで、そうした面がボン教に残っていただろう。だからこそボン教は黒教などと呼ばれてきたのである。
チベット文化圏にはいまもラパとかパウォと呼ばれるシャーマンがいる。彼らをボン教徒と呼んでもいいだろうか。彼らの多くは仏教の守護神が憑依することが多く、ボン教徒どころか仏教の守護者なのである。
しかし彼らは最近まで、あるいは現在も血の犠牲をともなう儀礼をおこなってきたのであり、その意味では仏教にふさわしくない要素をもっている。あきらかに、もともとは仏教とは関係ない民間宗教の祭司だった。私はおなじチベット・ビルマ語族のイ族やリス族、あるいはもっとチベット人に近いタマン族などの民間宗教を連想してしまう。それらの民間宗教の儀軌は思いのほか複雑で、宗教哲学のようなものは持っていないが、完成された体系が構築されているのである。
古代のチベットやシャンシュンではどうだったのだろうか。私はどんな地域にも土着の宗教があったと考える。シャンシュンにはシャンシュンの、チベット(ヤルルン朝)にはチベットの宗教があったはずだ。
シャンシュンの基本的な地域、現在の阿里地方にあった民間宗教は、ボン教と呼べるだろうか。ここは非常に重要な点である。「古代チベットとペルシア文明」に書かれているように、ユンドゥン・ボン(確立されたボン教)はタジク(ペルシア)からやってきた外来の宗教だというのである。もし土着の民間宗教からボン教が発展したのだとすると、ユンドゥン・ボンそのものが否定されかねないということになる。ボン教は虚偽で固めた宗教だと批判されてしまうだろう。
そうすると、折り合いをつけるとするなら、シェンラブ・ミボによってタジクからもたされたボン教(それはゾロアスター教かもしれない)が土着の民間宗教と交じり合って生まれたのがユンドゥン・ボンである、という見方だろう。
たとえばボン教の神々のパンテオンのなかに、ニパンセという神がいる。ニパンセは、おそらくシャンシュンの中核である阿里地方の民間神からボン教の神に取り込まれたのだろう。一方阿里地方から遠くないインド・ラホール地方には、強力なパワーを持つゲパンセという神がいる。ゲパンセとニパンセの違いは、ボン教の神々のパンテオンに加えられたか、加えられなかったかの違いしかないのだ。
あるいはこういう見方もできる。ラホール地方のボン教にはゲパンセという神があったが、ユンドゥン・ボンの体系に組み込まれることはなかった、と。私は2008年、ゲパンセとともに何日間も山や村を歩いたが、どこか寺などに着くたびにラパは神がかり、神の言葉を述べていた。こういうシャーマニズム的な宗教形態をボン教とは呼ばないが、そう呼んでいた時代もあったかもしれない。
ネパールのタマン族のボンボ(シャーマン的祭司)もまたボン教徒と呼ばれることはないが、かつては呼ばれていた可能性がある。ボンボとボンポ(ボン教徒)のことばが近いのは、偶然ではないだろう。私はタマン族の宗教に古代ボン教の姿を重ね合わせて見てしまう。もちろん「ボンボ=ボンポ」説は定説とはなっていないが、民間宗教を漠然とボンと呼ぶこともあった名残ではないかと考える。