Bon in Black ボン教チャム
宮本神酒男
ボン教チャム:ガメ寺
私がはじめてボン教のチャム(宗教仮面劇)を観たのは、1994年春、四川省松潘(ソンパン)の北方30キロに位置するガメ寺(dGa'
mal dgon)でのことだった。四川省アバ州には35座ものボン教寺院があるが、松潘だけでも10座を数えるという。ボン教徒がこれほど集中した地域はほかにないだろう。そのなかでもガメ寺は1355年にニェメ・シェラブ・ギェルツェン(Nyes
med Shes rab rgyal mtshan)によって創建された由緒ある寺である。
私はケンポ(寺主)の部屋の隣室に数日間寝泊りしながら、チャムの日が来るのを待った。私はいわば下っ端の見習い僧のようなものだったので、朝早起きしてケンポの部屋のストーブの火起こしを試みた。案外火をつけるだけでも慣れていないとむつかしいものだ。私は道元の日常のおこないを規定する清規(しんぎ)ということばを思い出していた。
この頃の私にはボン教の知識というものはほとんどなく、ボン教徒にもほとんど接したことがなかった。その前年、年頭に中国で大きな怪我をし、5月にはラサで拘束され、国外退去をくらったあと、しばらくダラムサラに滞在した。94年初頭にはダラムサラに戻り、森のなかの瞑想センターで修行のまねごとみたいなことをしていたので、チベットには相当親しみを持ち始めていた。
そんな状態だったので、チャムの前後にケンポを訪ねてきたボン教の高僧がネパール・カトマンズ在住のロポン・テンジン・ナムダク(上述)であることに気づいたのは、ずっとあとのことである。私はその年か翌年にボン教のバイブルともいうべき「Heart Drops of Dharmakaya」(邦題・森孝彦訳『知恵のエッセンス』)を買うのだが、その著者がこの訪問者であることにもずっと気づかなかったのである。「数日後にもうひとりのリンポチェが来るよ」とケンポに教えられたが、そのリンポチェとはドランジのメンリ・リンポチェのことだと気づいたのも、ずっとあとのことだった。いまから考えると当時の私は不勉強で、惜しいことをしたものだと思うが、知識というのはゆっくり得られるのではなく、突然爆発的に増えるものなのだ。
ロポン・テンジン・ナムダクが部屋に入るや、ケンポが五体投地の挨拶をはじめたのを見て、私もあわてて五体投地をはじめたところ、「いやそんなことする必要ないよ」とロポンが高笑いしながらおっしゃったのを昨日のことのように覚えている。そういえば後年ドランジでメンリ・リンポチェの部屋を訪ねたとき、私が窮屈そうに五体投地をはじめると、リンポチェも「そんなことしなくていいよ」とおっしゃった。これは形式にこだわらないボン教のいい点だろうと思う。
このチャムの期間は、巨大な巡礼祭のようでもあった。周辺の遊牧民が集まってきて、テントが設営され、あたりはキャンプ村が出現したかのようだった。老若男女が寺院にやってきてケンポを訪ね、加持祈祷をお願いする。たとえば腰が悪ければ、うつぶせになり、ケンポは腰のあたりに線香や経典をかざし、治療するのである。彼らはそれで患部がよくなると信じ、実際信じる気持ちが強いせいか、ほんとうに治ってしまう場合もあるのだ。このヒーラーとしての高僧はシャーマンそのものである。ただしボン教の高僧だからというわけではなく、仏教の高僧もこうしたヒーラーとみなされる。
私はケンポが町へ行く車に同乗したことがあった。そのとき道端の若いチベット人の女性がケンポの車であることに気づくと、お辞儀をするのではなく、舌を出したのである。アッカンベーをしたのかと思って一瞬ドキリとしたが、これは敬意を示す一種の挨拶なのだった。噂には聞いたことがあったが、はじめて見たので(もっとも、それ以来目撃していないのだが)私は貴重な場面を見たのだと思ってすこし興奮した。
チャムの前日はケンポの指名した尼僧に導かれて、ガメ寺の裏側の聖地をめぐった。漢名を小西天山(海抜4050m、ただしあたりの標高が高いため高山に見えない)といい、俯瞰すればおそらく巨大なマンダラが横たわっているはずだ。チベット名はドゥシャで、鷹(あるいは鷲)が死ぬ場所という意味である。
ここにかつてボン教高僧が修行したとされる洞窟があった。穴の途中で引っかかり、あやうく抜けられなくなりそうになった。修行僧ならおそらくこれを産道のように感じるだろう。産道の奥にあいた狭苦しい空間は子宮ということになる。ゾクチェンのいう原初の状態で瞑想をするのなら、こういう洞窟こそふさわしいと思った。ちなみにボン教には「暗闇の修行」と呼ばれる49日間の閉ざされた場所での修行法がある。
森の中を歩きながら、さまざまな徴を見た。崖の岩壁には大きな「ア」の字が見えたし、巨石には「ア」のほか「卍」も見えた。夢中になって写真も撮った。当時はデジカメがなかったので、写りぐあいをたしかめることはできなかった。後日、写真を見て一瞬何を写そうとしたのかわからなかった。「ア」も「卍」もそこには写っていなかったのである。そもそもそこに聖なる文字や記号が見えたからといって、何がどうすばらしいのかわからないのだが……。
余興なのか、あるいは何かの教えなのか、尼僧に導かれて私は森の中の野原で薬草採りをした。ほんの5センチほどの特色のない弓型の草の葉を見つけると、根元の土を手でどんどん掘っていく。タコ糸ほどの細い根を取り出し、その先の真珠のような白い小さな球根を探り当てる。私は二度、三度と失敗した。神経を集中しないと、根を切ってしまうのだ。失敗を繰り返すうち、要領を得てたくみに球根を引き出すようになった。この球根は貝母(ベイム)という漢方薬の一種で松貝(ソンベイ)と呼ばれるもの。中国で咳が出ると私はよく市販のアンプルの貝母を買うが、これがその原材料だった。
*余談になるが、以前よく晴れた日、青海省の草原をぶらぶら歩いていると、鎌をもって冬虫夏草採りをしているふたりのチベット人女性に会ったことがある。冬草夏虫を見せてもらおうと近づくと、一目散に逃げていった! 物盗りかなにかと思われたのだろうか。こちらからすれば彼女らの鎌のほうが恐かったのだけれど。
翌日、僧侶全員が正装して行列をつくり、鳴り響く重奏楽とともに反時計まわりに寺院の周囲を練り歩いた。見慣れたケンポが(見慣れると人のいいおじさんのように見える)黄色い鶏冠のような帽子を被り、華蓋(gdugs)という大きな傘の下を歩くさまは輝かしく、堂々としていて、まさに聖人のように見えた。一行が寺院の中庭にもどると、チャム(仮面舞踏)がはじまった。
このボン教チャムの演目は、その時期(1994年前後)に見たシガツェのタシルンポ寺院や中甸(現シャングリラ)のソンツェンリン寺院の仏教ゲルク派のチャムとさほど異ならなかった。
チャムの踊りの演目(あるいは神の名)は以下のとおり。
チクチャム(mcig 'cham)
アリガリ(A li ga li)
ナムギュ(rNam rgyud)
ギャナハシャン(rGya nag ha shang)
マギュ(Ma rgyud)
ツォクチャム(Tshog 'cham)
デタプ(bsGral stabs)
アツァラ(A tsa ra)
ドゥルネダクモ(Dur nad bdag mo)
センギ(Seng gi)
ティルチャム(sPril 'cham)
シンラブグチャム(gShin rab dgu 'cham)
サラン(Sa glang)
当時私はボン教に仏教とはまったく異なる要素を期待していた。もうすこしシャーマニズムに近いものが感じられるのではないかと思っていたが、演目や内容は他宗派とほとんど同一といってもよかった。あとで述べるように、数年後、レコンの山中で行なわれたボン教チャムを見たとき、演技者がトランス状態に入るのを見て驚くことになった。
もっとも、仏教チャムにもシャーマニズム的要素はしばしば目にする。たとえばラダックのマトゥ寺(サキャ派)のチャムでは、ロンツェンと呼ばれるふたりのシャーマン僧が神がかりを披露する。ザンスカールのサニ寺(ニンマ派)にも演目のあいまにラパ(シャーマン)が登場するし、スピティのグンリ寺(ニンマ派)でも演目終了時にブチェンらがシャーマン的なパフォーマンスをおこなう。
ガメ寺のチャムのなかでもっともシャーマン的と感じられるのはシャナク(黒帽子)の踊りである。しかしこれもまた仏教諸派のチャムでも珍しいものではなかった。
ガメ寺のチャムでは異教的な要素よりも、仏教的な要素のほうが目立っていた。とくに印象に残ったのが、巨大な頭部を持つ和尚だった。この和尚は8世紀、サムエ寺でインド仏教派と中国仏教派(あるいは漸悟派と頓悟派)の宗論、つまり討論がおこなわれたときの中国派の禅僧、摩訶衍(マハーヤーナ)だろう。しかしそうだとすると、この場面は仏教のエピソードであり、ボン教の入る余地はないように思える。