ボン教吉祥の言葉
「General Introduction to the History and
Doctrines of Bon」
サムテン・G・カルメイ著
より日本語部分訳抜粋(宮本神酒男)
ボン教の伝承によると、ボン教発生の起源地はオルモ・ルンリン(’Ol mo lung ring)という所、つまりタジク(sTag gzig)あたりであると推定されている。この場合のタジクとは、学者たちによってペルシャ(Persia)に同定されている所である。オルモ・ルンリンというチベット語に何か意味があるのか否かは、容易に答えられない問題である。従来の解釈に従えば、「オル」−いまだ生まれざる、「モ」−衰滅せざる、「ルン」−シェンラプ(gShen rab)のことば、「リン」−シェンラプの永遠の哀れみ、という意味になる。(註1)この解釈は一読するだけで、やや時代遅れの、しかも根拠の希薄なものとわかるであろう。文字通りの意味を問えば、明らかに「オルモという長い渓谷」と解せよう。チベットにもプンモ・ルンリン(Bon mo lung ring)などのような類似の地名はあるが、タジクのオルモ・ルンリンとはなんら関係がないようである。とはいえ、類似の地名があるために、オルモ・ルンリンの所在地をつきとめにくくなっているとも言えるのである。
オルモ・ルンリンとはこの世に実在する地なのであろうか、それとも極楽(スカーヴァティー−Sukhavati)のような想像上の聖なる国なのであろうか。ボン教の教えでは、これら双方の問いに対して「然り」と答えている。オルモ・ルンリンはこの世に存在する、なぜならばその地は西の方、タジクに存在するからである。しかも、この世が最終的に焼き尽くされる時、その地は空高く飛揚し、天界にある神聖な国スィパ・イェサン(Srid pa ye sangs)(註2)と合致するので、不滅の地ともなるのである。滅することのない世界でありながら、現し世でもあるという観念は、ボン教に特有のものではない。仏教でも同様にブッダガヤ=ヴァジュラーサナ(Vajrasana)は、この世が消滅する時に天空に昇るのである。ともあれボン教徒たちにとって、オルモ・ルンリンがこの世に実在しようがしまいが、そんなことはさほど問題ではない。だから1959年まではオルモ・ルンリンへ巡礼に出かけていたものであるが、行った人は誰も戻って来なかったらしい。ソビエト国境で消息を絶ったものと想像できると言う人もいる。
ここでオルモ・ルンリンという国に関する伝承を取り上げて、ボン教徒がその国の存在と現世との関係をどのように把握していたかを論証するための一助としよう。伝承ではまず、オルモ・ルンリンが現実世界の三分の一を占めており、西方のどこかに位置すると言っている。その形状については、八本の輻を持つ車輪状の天空に相応する、八弁の花として描き出されている。国にはユントゥン・グプツェー山(g-Yung drung dgu butsege)があたりを制してそびえている。この山の名を直訳すると「九卍層」であるが、卍と数字の九はどちらもボン教ではきわめて重要な意味を持つ。卍は仏教の金剛(vajra)に相当し、不滅を象徴するシンボルである。また、ユントゥンという語には、助動詞のドゥ(du)をつけて、「常に」、もしくは「永遠に」という意味の副詞ユントゥン・トゥの形で、古文書中にたびたび用いられている。さらに、ボン教の別称トゥルンガク・ユントゥン・ボン(’phrul ngag gyung drung bon「魔法のことば、永遠のボン教」)の中にもユントゥンという語がある。しかしながら、ボンの別称としてユントゥンがいつから使われだしたものか、正確な年代は断定できないにしても、10世紀以前に使われていたとは考えられない。さて、ボン教における数字の九は、とりわけ地界と天界および教義に関連している。地界は地殻から地底へむかって九層(サ・リムパ・グ sa rim pa dgu)をなすと信じられている。天界は最初に生じた時は九層(ナム・リムパ・グ gnam rim pa dgu)であったが、後に13層に拡がった。ちなみに数字の13は、九と並んでボン教の吉相を表す数である。教義もやはり九種の方便(テクパ・リムパ・グ theg pa rim pa dgu)に分類されている。またその山頂は奇しくも水晶巖で形成されているのであるが、もとをたどれば、それはおそらく雪を頂いている様子、もしくは氷でおおわれている様子を表現したものであろう。年を経るにしたがって、この水晶巖に特別な重きが置かれたのであろう。この山のふもとから四方に河川が流れ出ている。その河川とは、獅子の形をした岩窟を発して(センゲ・カパ Seng ge kha ‘babs)東方へ流れるナラ河(Nara)、馬型の岩窟から(タチョー・カパ rTa mchog kha ‘babs)北方へ流れるパクシュ河(Pakshu)、孔雀形の岩窟から(マチャ・カパ rMa bya kha ‘babs)西方へ流れるキムシャン河(Kyim shang)、象の形をした岩窟から(ランチェン・カパ Glang chen kha ‘babs)南方へ流れるシンドゥ河(Sindhu)である。ユントゥン・グプツー山を中心に、何百もの寺や都市および庭園がよりそっているが、注目に値する主要地は、八ヶ所だけである。山の東にはシャムポ・ラツェ寺(Sham po lha rtse)、南にはシェンラプ生誕のパルポ・ソゲー宮(Bar po so brgyad)、西にはシェンラプの妻ヒューサ・ゲーシェーマ(Hos bza’ rgyai bzhad ma)が三人の子供トプ(gTo bu)、チェープ(dPyad bu)、ネウチェン(Ne’u
chen)をもうけて住んだティムン・ゲーシェー宮(Khri smon rgyal bzhad)、北にはシェンラプのもう一人の妻ポサ・タンモ(dPo bza’ thang mo)がルンデン(Lung ‘dren)、ギュデーン(rGyud ‘dren)、ネウチュン(Ne’u chrng)の三子をもうけて住んだコンマ・ネウチュン宮(Khong ma ne’u chung)がある。ユントゥン・グプツェー山と以上の四大主要地は、オルモ・ルンリンの内部地域(ナンリン nang gling)を占めている。この地域の後に、12都市からなる中間地域(パルリン bar gling)が続くが、そのうちの四大都市は、東西南北の四方位に位置している。西にある都市はギャラー・ウーマ(rGya lag ‘od ma)と呼ばれ、コンツェ・トゥルキ・ゲーボ(Kong tse ‘phrul gyi po)の在所である。この重要人物に関しては後述する。中間地域の後には外部地域(タリン mtha’ gling)が広がている。以上の内部、中間、外部の三地域は、河川や湖によって区切られていると言われ、オルモ・ルンリン全土はムキュー・デーウェー・ギャツォ(Mu khyud bdal ba’i rgya mstho「周囲に広がる海原」)にとり囲まれている。ほかでもないこの海、すなわちオルモ・ルンリンの西方海上に、コンツェ・トゥルキ・ゲーボが、神秘的な寺を建立したのであった。伝承では、この王は中国人でシェンラプ・ミオゥの信者だったと伝えられている。シェンラプ・ミオゥの主だった弟子たちが、シェンラプの教えをことごとく収集して書き留め、その記録を預けたのが、まさにこの寺であったから、とりわけここが重要地となったのである。さて、オルモ・ルンリンの環海もまた、ウェーソ・ガンキ・ラワ(dBal so gang kyi ra ba「峨々たる雪嶺の周壁」)という雪峰にとり囲まれている。この峰の名はチベット人が自分の国を言い表すことばとしてたびたび用いるカンリー・ラウェー・コルウェー・シンカム(Gangs ri’i ra bas bskor ba’i zhing khams「雪峰の壁にとり囲まれた国」)と類似している。
オルモ・ルンリンへ行くには「矢道」(ダラム mda’ lam)を通らねばならないということである。この道はシェンラプがチベットを訪れる際に、環状雪壁の内側から矢を射て創ったものだ。矢で山壁をうがち、大きなトンネルを作った。だが、矢の突き立った所に関しては言及されていないので、このトンネルを通り抜けることは、容易ではない。途々、幾多の峡谷を越え、数多の野獣に出くわし、さらに暗闇に包囲されたまま、9日間かけてようやくオルモ・ルンリンへたどり着くのである。信者たちには、たとえば中央チベットからそこまでの道程に関する情報もないし、パンチェン・ラマ(Pan chen Lama)三世ペーデン・イェシェ(dPal lden Ye shes 1737−?)の「シャンバラ旅行記」(シァンバレー・ラムイー Shambha la’i lam yig)のような旅行案内書の類とてないのである。
本稿では、11世紀以降のボン教僧侶による多数の著作物のうち、きわめて詳細な記述の一部を取り扱うにとどめる。とはいえ、この現実ばなれした国の所在を考察するのに必要な基本資料はおさえてある。科学というものは熱狂的な信者の心にさえ多大の影響を及ぼしている。さもなければ彼らが預言者たちのことばに疑問をさしはさむこともなかったであろう。ボン教僧とて例外ではない。彼らの当面の問題はまず、経典に従ってオルモ・ルンリンの位置を地理的に同定することである。オルモ・ルンリンが地上界にも天上界にも存在するために、問題はますます解き難くなっている。ここで問われるべきことは、オルモ・ルンリンがシャンシュンZhang zhung)に実在していたにもかかわらず、「タジク」にあると断定され始めたのは何世紀なのか、また何故にこのようなことが生じたのか、という問題である。これまでのところ、発見された写本や碑文からは、10世紀以前にオルモ・ルンリンという名称や観念が存在したという実際的な証拠はあがっていない。その一方で、チベットではいまだに、考古学的な発掘や、系統的な写本収集に手がつけられていない現状なのである。ランダルマ王(Glang Darma)の暗殺に続くチベット王国の壊滅的な崩壊から10世紀初頭に至る期間は、チベット史上もっとも暗い時代であり、これほど陰鬱きわまりない時代は他にはないであろう。この時代、チベットは余りにも宗教的政治的に混乱して、現存する痕跡はほとんど無い。しかしながら10世紀の初めに再び、仏教がチベットの国土を掌握し始めると、熱に浮かされたような勢いで、インドから仏教の新しい教えが摂取され、翻訳する作業が進められた。ボン教僧たちもこうした事態に刺激されて、おそらく、自らの見解を再検討する動きを起こしたのであろう。そこで自分たちの宗教とて、チベットのありふれた地に発生したはずがないと考えるようになった。そうして、七世紀以来チベット人が敬服してやまない文明の地タジク(ペルシア)に、シェンラプ生誕の地すなわちオルモ・ルンリンがあると解釈したのである。
ともかく、経典中に記述されたオルモ・ルンリンの山河に関する事柄を、近代地理学の知識に照らしてみると、その起点から幾筋かの川を発する雪嶺ティセ(Tise:別名カイラス Kailas)と、ユントゥン・グプツェー山が完全に一致すると判断できるであろう。その第一の理由は、ティセが、ボン教発生の地と伝えられているシャンシュンの最重要地であったという点である。まさにその地に、ボン教もしくはボン教と同様の信仰が生じたと認めてもよさそうである。第二の理由は、ボン教の重要なテキストがシャンシュンの言語とチベット語で書かれている点である。それに、シャンシュン語をボン教僧の創り出した一種の人工言語とみなす学者たちもいるが、現在のラダク方言(Ladhaki)とクナワル方言(Kunawari)−両者とも旧西チベット地域で使われていることば−の中に多数のシャンシュン語が現存することも注目に値する。(註3)
オルモ・ルンリンがティセ山一帯に同定されることは、14世紀の重要文献「ツァギュー・ニセル・トゥンメ」(rTsa rgyud nyi zer sgron me)で裏づけられている。同文献中、東に中国、南にインド、西にオギェン(O rgyan)、北にリ(Li:別名コータン Khotan)ありと明示されているが(註4)、オルモ・ルンリンそのものの記載に際しては明らかに混乱がある。というもの、コンツェ・トゥルキー・ゲーボの生国ギャラー・ウーマリンが西に位置すると記載してあるが、これは孔子をモデルにした人物であるから、その生国を西方にとるのは矛盾しているのである。(註5)
ところで、前述の見解に真向から対立する意見もあり、たとえば「ゼルミク」(gZer mig)のようなテキストには、ティセ地方はオルモ・ルンリンにあらずと記されている。伝承では、この意見を何とかくつがえそうと、ティセ一帯がシャンシュンのオルモ・ルンリンに「相当している」とのみ考えているのである。
もちろん、信仰者の立場からすると、そう簡単に事実を受け入れたくないのも無理はない。ティセ一帯はボン教の聖地とみなされてはいるが、誰でも訪れることができて、あまりにもありふれた所なので、シェンラプの生誕地とはされていない。これほど現実的すぎると、霊的レベルでのみ存在するような神秘的で未知なる国を好む信仰者には不満なのである。
ここで少し、最近Tibetan Review(註6)に掲載された、オルモ・ルンリンをめぐる論文に注目するのも有意義であろう。ボン教学者テンジン・ナムダク(Tenzin Namdak)が1964年に、チベット語で相当語句をつけたシャンシュン語の語彙集とともに、ボン教の年代記に関する小論文を発表した。(註7)彼はこの論文に、自らのテキスト解釈に基づいて描出したオルモ・ルンリンの伝承図を入れている。この地図はまずE・ヘテニ(E.Hetenyi)によって、後にソビエト連邦のB・クズネツォフ(B.Koznetsov)によって取り上げられ、古代のチベット地図と評されている。彼らによると、この概略的な地図は、紀元前のキュロス大帝国統治下における中東とペルシアの地図に幾分類似している。そこで、ある種の地名および宮殿名はペルシア語起源の語を転写したものであり、それらのうちのひとつは地図のかなた西方にあるエルサレムに相当することばだと、彼らは考えている。こうした見解は確かにボン教の伝承と合致しており、またこの方面の研究はきわめて重要であろうから、私はその続行を期待している。
シェンラプ・ミオゥは、ボン教の開祖である。彼は仏教における釈迦牟尼と同等の地位を占めるが、釈尊とは次の点で異なっている。つまり、史実性や生没年、人種的な素姓、諸々の行跡、直伝もしくは口承として信じられている莫大な書物の信憑性などを確証する資料がそろっていない点である。書物に関しては、ボン教徒の言によると、仏教経典の編纂方法と同じやり方で、シェンラプの死後集められて記録されたものである。彼の生涯については、もっぱら、事実と伝説をないまぜにしたやや新しい時代の資料によって知り得るのみだ。10世紀以前の文献では、シェンラプのチベット来訪や、南チベットのコンポ(Kong po)に住んでいたと言われる悪魔キャッパ・ラーリン(Kyab pa lag ling)との交渉などの行蹟面に、光を当てるほどのものが、そろっていないのである。
ここで、ボン教の伝承をもとに、シェンラプを概説しよう。天上の神聖なる国ティーパ・イェサンにタクパ(Dag pa)、セルワ(gSal ba)、シェーパ(Shes
pa)の三兄弟がいた。三人とも、ボン教の賢人ブムティ・ローキ・チェチェン師(’Bum khri glog gi lce can)の下で修学していた。学をまっとうした後、そろってシェンラ・ウーカル神(gShen lha ‘od dkar)に詣で、生けるものたちの苦悩に対して自分たちが何をなし得るかを問うた。神の答えは、三人めいめいが過去、現在、未来の三世に導師となって働くであろうというものであった。長男のタクパが過去世で任務を完遂すると、次男セルワが現世の導師、シェンラプとなった。そして三男のシェーパは、来るべき後世でおのが務めに従事すべく待機中である。シェンラ・ウーカル神はシェンラプに対して、監督指導を行うと約束し、またティーパ・サンポ・ブムティ神は、この世を秩序正しく維持して彼を助ける旨承諾した。(註8)
上述の二神とシェンラプは、ボン教の三尊であり、それぞれ、ラ、ティーパ、シェンと呼ばれている。ラとティーパはシェンの任務遂行を援助するのである。シェンラプはオルモ・ルンリンに王子として生まれた。そしてまだ年端も行かぬ頃からボン教を説き始めた。彼の生涯を通じて、悪魔キャッパ・ラーリンは好敵手であった。この両者の関係は釈迦牟尼とデーヴァダッタ(Devadatta)の間柄に似ている。シェンラプの反発を喚起するほどの悪魔がいたからこそ、お互いにあれほど激烈に自らの力を表現しあえたのであろう。そうだとすれば、このような悪魔の存在こそ、幸運この上ないことと考えられる。シェンラプの生涯でもっとも興味深いのは、おそらく、チベット来訪伝と言われる部分であろう。この旅のいきさつは、ボン教の伝道にあるのではなく、キャッパ・ラーリンに馬を七頭盗まれたことにあった。そうはいっても、彼はこれをチベットにボン教を伝える好機にしたいと思った。しかし、チベット人には自分の教えを十分に受容する用意がまだできていないと見てとった、それゆえに、将来、機が熟せば自分の教えはすべて、オルモ・ルンリンからチベットへ広まるであろうと預言したのである。
シェンラプは恐ろしい神々に変身して悪魔キャッパ・ラーリンを征伐しようとした。シェンラプが凶暴になればなるほど、悪魔の力は衰退していったが、ようやく降伏したのは、シェンラプが洞窟の静寂に引きこもった後のことである。彼は82歳で現世の生涯を閉じた。
シェンラプの生涯は12幕から構成されると考えられる。学者たちはこれをただちに釈迦牟尼の生涯と比較してきたが、その方法は、釈尊とゾロアスターの生涯の比較と同じやり方である。さらに、シェンラプの聖人伝は三版あり、いずれにも仏教の影響が見うけられる。
1) シェンラプ伝に関する周知の記録で、もっとも古い時代のものは、「ドドゥー(mDo ‘dus)」[Kvaerne 1974:K7]であろう。これはシャンシュン語からの翻訳と推測されるが、テルマ(gter ma 再発見されたテキスト)の分類に類別されている。本書の発見年代は、ボン教年代記によると、10世紀までさかのぼる[Kvaerne
1971:225-6,256-8]。しかし不幸にも、その所在に関しては、チベット国外のいずこなのか、いまだに報告されていない。本書は三版中もっとも短く、21章からなる一巻本である。
2) 二番目の版は18章からなる二巻本の「ゼルミク(gZer mig)」である[Kvaerne 1974:K6]。その内容はすでに学者たちに知られているが、年代に関しては議論がある。本書も最初の版と同じく「テルマ」の分類に入れられている。「テルマ」とは、本当にまぎれもなく発見されたテキストをさすのか、それとも、自称発見者によって新たに書き著されたものをさすのかという問題は、また別のテーマであるから、いずれ論ずることにする[Karmay 1975a:187-9]。ともかくも、「ゼルミク」はボン教経典中最も重要な書物である。私は「ゼルミク」の編纂年代(再発見の年代とするほうが好ましいだろうか)、もしくは少なくともそのうち幾篇かの年代は11世紀にさかのぼり得るだろうという結論に達した。(註9)なぜならば、11世紀に著された書物には、広範囲にわたって「ゼルミク」からの引用が見うけられるからである。
3) シェンラプ伝の第三番目の版は「ジジー」(gZi brjid)という全12巻本である[Kvaerne 1974:K5]。スネルグローブ教授はヨーロッパ人学者として初めて、この第三版に先鞭をつけた。彼はボン教学者テンジン・ナムダクの協力を得て、「ジジー」 からボン教教義の根底に関する部分を抜粋、翻訳し、The Nine Ways of Bonを公刊したのである。この公刊物を別にすると、「ジジー」はその大部分が、依然としてチベット学会に知られないままである。ボン教の経典分類法によると、「ジジー」は伝承(ニェンギュー snyan brgud)の分類に入る。つまりそれは、賢人あるいは権威者が書き取りに熟達した者にテキストを口述筆記させた分野をさしている。「ジジー」は14世紀にロデン・ニンポ(Blo ldan snying po)によって口述筆記されたものと言われている。したがって三版のうちもっとも新しい版なのである。本書が口承で伝えられたものか否かはいざ知らず、「ゼルミク」に見られない観念や習慣、鳥獣にまつわる興味深い物語など、広範囲なテーマにわたって古代起源の資料を載せてはいるが、「ゼルミク」の拡大版であることにはまちがいはない。本書は宗教的な帰依者の聖人伝というよりもむしろ、叙事詩的物語の類である。
上述の通り「ゼルミク」は11世紀にまで、「ドドゥー」はおそらく10世紀かあるいはそれ以前にまでさかのぼる。これらの書物には生粋のボン教らしい趣はなくて、むしろ、ボン教の資料をインド仏教のイデオロギー―例えば因果、再生、根本的に悲惨な生の本質と解脱方法、そして悟りに至るカルマの観念を適用して、全体を構成した感がある。とはいえ、ただちにわかることだが、そこに編まれた資料の大半はやはり明らかにボン教のものと言いえるであろう。これらの書物で、シェンラプ・ミオゥとはボン教を説き、生きとし生けるものをもれなくより良き世界へと導く存在、ただその目的だけのために、この世に生まれた超人的な存在として描かれている。彼の栄光は、途方もなく幻想的なまでに讃美されている。
そもそもシェンラプに関する情報を10世紀以前にさかのぼって入手し得るであろうか。あるにはあるが、ほとんど入手し得ないのが現状である。敦煌写本には彼の名前が少なくとも五回、「祭司」の類として出てくる。(註10)そこでは重要人物とみなされていないが、いずれにしても、生者と死者の間を取り持つ有能な不可欠の「祭司」と考えられている。したがって、チベット生まれのこのような人物が、おそらく7世紀以前に実在したと仮定しても、あながちはずれてはいないかもしれない。ボン教年代記は、シェンラプを仏陀よりもかなり古い時代の人と推定しているが、実際、敦煌写本の内容がすでに伝説めいた趣をそなえはじめている事実は、9世紀後半もしくは10世紀前半から存在していたこの写本の完成以前に、すでにシェンラプが生存したことを物語っている。それゆえに後代の伝承は、その開祖をシェンラプとする限りにおいて、8−9世紀に流布していた伝承と直結する。トゥカン・チューキ・ニマ(Thu’u bkwan Chos kyi nyi ma 1731−1802)がシェンラプを老子(Lo’u kyun,Laozi)と同一人物に見ているが、これはさほど重要な提言とも考えられない。(註11)
たかだか「祭司」でしかないシェンラプ・ミオゥを神として崇めることは、大乗仏教において、歴史上の人物釈迦牟尼を仏陀とする神格化に匹敵するものであろう。莫大なボン教聖典の大部分はシェンラプの作とされているが、彼のことばと確証できるものは何もない。しかしながら、シェンラプがそもそも何かを書いたのかと問うことは、釈迦牟尼が実際に書いたものがあるのかと問うようなものである。
シェンラプが教えたと信じられている教義は、ふたつの主要体系に分類される。まずひとつ目は「ゴシ・ズーンガ(sGo bzhi mdzod lnga)」と呼ばれる体系で、直訳すると四門(あるいは四道)と宝庫一棟、合わせて五という意味である。この五とは以下の如きものである。
1.「チャプカル(Chab
dkar)」―白い水
2.「チャプナック(Chab
nag)」―黒い水
3.「ペンユル(’Phan
yul)」―ペン国
4.「プンセー(dPon
gsas)」―手引き
5.「トトー(mTho
thog)」―頂上
さて「チャプカル」とは、おもに呪文などの密教的な教理を示し、「チャプナク」は種々の説話および儀礼を、「ペンユル」は僧の修行教科などの顕教的な教理いっさいを含んでいる。「プンセー」はゾクチェン(rDzogs chen)瞑想体系のような心霊実践のための直接的で専門的な教えを表す。五番目の「トトー」つまり「宝庫」は文字通り、他の四門すべてに至るという意味で「チギュー(spyi rgyug)」と呼ばれている。これらの中には、全くと言ってよいほど仏教の分類法に一致する部門がある。それは「チャプカル」と「ペンユル」で、前者は仏教タントラに、後者はスートラに相当する。なお、この「ペンユル」という用語の特殊な用法に関しては、まだ歴史的背景が立証されていない。が、中央チベットのペンボ(’Phan po)と呼ばれる峡谷に関係がありそうだ。
もうひとつの分類体系は「テクパ・グー(Theg pa dgu)」で、九方便もしくは九輪(乗)などと訳される。この体系には三種類の版、すなわち、「南方宝物版(ロテル lHo gter)」、「北方宝物版(チャンテル Byang gter)」、「中央宝物版(ウーテル dBus gter)」がある。また九方便は以下の如く、三部門に分類されている。
1.最初の四方便は「原因の方便(ギュー・テクパ rgyu'i theg pa)」である。
2.つづく四方便は「結果の方便(デプー・テクパ 'bras bu'i theg pa)」である。
3.九番目の方便はゾクチェンの瞑想形態である。
D・L・スネルグローヴが公刊した The Nine Ways of Bon は「南方宝物版」である。
ほかの二版に関する研究は、いまだにとどこおっている。「ゴシ・ズーンガ」と「テクパ・グー」の体系分類法には、見かけ以上にもっと複雑な関係がある。おそらく、第一の体系は第二の体系よりも古いが、後者はボン教の多様な発展段階をかなり包括的に系統立てたものだと、私は考えている。何はともあれ、教義を九部門に編成してきたのは、ボン教のみならず、ニンマ派でも同様である。私は一方が他方を模倣したに相違いないとみているが、この問題は単純ではない。ニンマ派で仏教教理を九「テクパ」に分類しているのを、他の正統仏教書は、必ずしも歓迎していない。というのは、ボン教の体系と信仰がニンマ派に浸透しているのではないかと、大いに懸念しているから、受け入れられないのである。しかしその一方、「タウェー・リムパ・ シェーパ」(lTa ba'i rim pa bshad pa)と題する文献で(註12)、8世紀末にかけて生存した有名な翻訳者カワ・ペーツェー(sKa ba dPal brtsegs)の作とされているものがある。この中に、ニンマ派で何を「九テクパ」と呼ぶかという短い解説が収められている。もっともそれが「九テクパ」を確定しているわけではないが。もしもこの文献が本物ならば、当然これは、ボン教の体系がニンマ派に負うことを明らかにする証左となるであろう。しかしながらプトン・リンチェントゥプ(Bu ston Rin chen grub 1290−1364)の見解によると、カワ・ペーツェーの文献は本物ではない。したがってプトンは、これをさらに研究されるべき問題と考え、「ディチェー」(di dpyad これを検証せよ)と述べたのである。(註13)
最後に、現在および将来へ向けて、シェンラプの生涯を研究する重要性について、若干言及しておこう。実のところ、この分野の研究に専念している学者は、ペル・クヴェルネ博士(Per Kvaerne)を除いて、他には誰もいない。彼はパリのギメ博物館に収蔵されている11葉のタンカを綿密に研究している。これらのタンカはシェンラプの生涯を実に詳細に描出しており、しかもきわめて質の高いものである。また、この上もなく忠実に「シジー」版を踏襲している。
ボン教の歴史家たちが伝えてきたところによると、ボン教はシェンラプが万年雪の国チベットを訪れた際、彼自身によって初めて紹介されたというのである。そしてムチョ・デムドゥク(Mu che ldem drug ボン教の六師)と言われるシェンラプの高弟たちが、この教えをシャンシュンにもたらし、そこで、宗教テキストのシャンシュン語訳、さらにチベット語訳を行ったとも伝えられる。
伝承によると、シャンシュンは外部(ゴワ sGo
ba)、内部(プクパ Phug pa)、中間(パルワ Bar ba)の三地域よりなっていた。外部地域とは西部チベットと呼んでもさしつかえない領域をさす。すなわち、西はギルギットから東はナムツォ湖(gNam mtsho)に隣接するタンラ・キュンゾン(Dangs ra Khyung rdzong)まで、北はコータンから南はチューミ・ゲーチュ・ツァニー(Chu mig brgyad cu rtsa gnyis)まで広がった地域である。内部地域とはタジクにあたるらしい。中間地域はギャカル・パルチュー(rGya mkhar bar chod インドとの緩衝地帯)のことと言われるが、まだ、地理的同定はなされていない。シャンシュンがこれほど広大な領域を占めていたかどうかはいざ知らず、西部チベット全域にわたる独立王国であったことは確かである。主都をティセ山の西方にあたるキュンルン・ングーカル(Khyung lung dngul mkhar)に置き、7世紀には
Lig myi rhya という王がいた。王妃のととりにセーマゲー(Sad ma gad)はチベット王の姉妹であった。したがって、この王国はおそらく、7世紀にソンツェン・ガンポ王(Srong btsan sgam po)によってチベットに併合されたのであろう。しかし、[ペリオ・チベッタン(P.T.)1287]とボン教史に従えば、併合はティソン・デツェン王(Khri srong lde btsan)が行ったのであるから、8世紀の出来事ということになる。
シャンシュンの征服年代および Lig myi rhya 暗殺の年代については、かなり混乱しており、打ち捨てておけない問題である。この併合に関して、チベット史を根底から修正する必要があるであろう。検索できるもっとも古い時代の資料は、1035年頃に隠蔽された[P.T.1287]であるが、紛れもなくこの写本は、隠される前に再編されたのである。これは、ディグム・ツェンポ(Dri gum btsan po)より始まる諸代チベット王の歴史的記事を載せた長大な巻子本で、現在では「年代記」と呼ばれている。史料は一篇ごとに節を区切って余白を置き、それぞれ明瞭に切り離している。ティソン・デツェン王(742―?)の話の直後に、シャンシュン陥落の節が続いている。まさにこの節こそ、ティソン・デツェン王の治世と関係し、とりわけわれわれの興味をそそるのである。この写本を編集してフランス語訳した版では、シャンシュンに関する新しい節が「rgyal po ‘di’i ring la・・・・・・(この王の時代に)」で始まるという唯ひとつの理由から、この陥落事件をティソン・デツェン王の治世(第八節)に起こった出来事と見做している。(註14)「この王」という句は、先に名をあげられた王、すなわちティソン・デツェンをさすと解釈するのが自然であろう。なお、この版では、写本を10節構成として呈示している。しかしながら、現代のチベット史学者ゲドゥン・チューペル(dGe ‘dun chos ‘phel)は「テプテル・カルポ」(Deb ther dkar po 白冊史)という著書で、シャンシュン併合をソンツェン・ガンポ王の治世下の出来事とし、その歴史的順序の重大な逆転については何ら注釈をつけていない。(註15)1940年代初頭に彼は、敦煌写本の写真版を使って、その年代記を執筆中であった。したがって、彼が真先にこの矛盾に気づいたことになる。初めて諸々の出来事に関する彼の論述を読んだ時、それが写本の意図する処に反しているように思われた。しかし、写本それ自体、再編の段階で順不同に、切られたり継がれたりしたことは、いまや疑う余地のないことである。それは、巻子本の裏に記された漢訳テキストを対照して、すでに明らかである。シャンシュン陥落の話が載った部分はもともと、ソンツェン・ガンポ王の治世(第六節)(註16)に続いていたのである。したがって、ゲドゥン・チューペルの資料解釈は正しかったことになる。
それにしても、再編された写本[P.T.1287]と類似する話がボン教史にもあるということは、後世の時代のボン教資料が、この写本の別の版を利用して書かれた証拠であり、それならば、この別の版が9世紀にはすでに流布していたことになる。インドで出版されたボン教版は「シャンシュン・ニェンギュー・プン・マ・ヌッペー・テンツィー」(Zhang zhung syan rgyud kyi bon ma nub pa’i
gtan tshigs シャンシュンの伝承であるボン教が廃止されなかった理由)という題である。(註17)この著者は不明だが、テキストの年代はきわめて古いと評判で、現存する唯一のものである。しかしその一方、[P.T.1286]や史記として参照される[P.T.1288]には、ソンツェン・ガンポ在位中のシャンシュンが簡単に言及されているが、シャンシュンの王の名前は期待に反して Lig myi rhya ではなく Lig snya shur であり、その上チベット王の名も彼の姉妹の名前も出て来ない。(註18)それゆえに、シャンシュン崩壊をソンツェン・ガンポ王に帰する議論にあまり肩入れしすぎないよう、慎重でなければならない。この問題は、[P.T.1287]とボン教史を、他の資料とまったく関係のない原資料に照らし、検証できて初めて、解決可能なのである。マクドナルドは[P.T.1047]に、ソンツェン・ガンポ在位中のシャンシュン没落に関する当時の情報が収められていると考え、この中に問題解決の糸口があると述べている。[Macdonald 1917:272-3]。なお[P.T.1047]は、ボン教の伝承一般に見られる占いに関する写本である。
シャンシュンは併合されるにともなって、しだいにチベット化していったが、同時に、古代チベット文化の発展に大いに寄与した。というのも、この地がタジク(イラン)、ブルシャ(ギルギット)、リ(コータン)、中央アジア諸国に隣接し、こうした各地より及び来る影響に門戸を開放していたからである。シャンシュン独特の文化ならびに言語はチベットの文化の言語に統合され、同時に、宗教も同化されたと推測できる。シャンシュンの人々に崇拝された主神は、ティセ山に鎮座するクラ・ゲクー(sKu bla Ge khod)であった。もっとも評判の高いボン教の師はテンパ・ナムカ(Dran pa nam mkha’)で、八世紀にキュンルン・ングーカルで生まれたと信じられている。シャンシュンの言語に関しては、すでに論じた[Karmay 1975a:174-5]。最近に至るまでチベット学者達は、ゲルク派の歴史家が犯した地理的な誤りに惑わされて、グゲとシャンシュンを同一地とみなしてきた。が、グゲはシャンシュン属領の一小国にすぎなかったのである。王ならびに王にまつわる事物が信仰の対象となったのは、6−7世紀間のことであろう。チベット王はチャ(Phya 天運の主)であるヤプラ・ダートゥー(Yab bla gdags drug)の子孫と信じられていた。この信仰の核心となったのは、もとをたどれば、おそらく王や王の随神―大半が山の神の―が持つ神性であったろう。この他に、様々な儀礼を執り行い、王の即位とか条約の調印といった特別の場合に、神聖な儀式を司る司祭がいた。彼らは「シェン」もしくは「ボンポ」と呼ばれ、彼らの司る儀礼は「ボン」と言われた。王の神性に対する信仰と儀礼が、宗教の基本的な部分を形成していたのである。幾多の様々な葬送儀礼や祭司の位階制がすでに存在していたこと、それに王の神性に対する信仰やある種の来世信仰に着目すれば、この宗教が現に了解されている以上に、複雑であることがわかる。
ことによると、ボン教はすでに7世紀には、外来要素を採用しつつあったのかもしれない。ボン教の宇宙観にイランの影響がみられることは明白である。その上、7世紀末にかけて、アジアの最強国のひとつであったチベットは、仏教が隆盛中の中央アジア一帯を、覇権を求めて転戦した。ある領地をチベットの支配下に入れると、明らかに、統治を通じチベット人たちは、じかに仏教と接触するようになったはずであるが、ソンツェン・ガンポの宮廷では、仏教はせいぜい洗練された斬新なものという程度にとどまっていた。それゆえ、ボン教こそが、仏教の影響にまともにさらされ、カルマや再生というインドの理論に最大の関心を寄せることになったのである。ただし、それらの理論は、源を承認しないまま吸収されたのではあるが。その当時のボン教は、依然として胎生段階にあり、三大要素がないまぜになっていた。その三大要素とは、1.王の神性と彼の随身に対する崇拝、2.世界の生成に関するイランの諸観念、3.カルマとか再生といったインドの諸理論である。
ボン教は8世紀初頭までに、やがて正式に導入される仏教徒十分対抗できるだけの力を蓄えていた。ティソン・デツェン王は熱心な仏教徒であったが、第一王妃のツェポンサ・マルゲー(Tshe spong za dMar rgyal)はボン教徒であった。妃たちの中でこの王妃ただひとりが、幾人かの息子をもうけた。王とこの王妃の間に生じた宗教上の相違は、たいそう深刻化して、ついに、王妃が仏教に熱心なひとりの息子を毒殺したほどである。またボン教の伝承によると、彼女は自分の夫を呪い殺させたとも言われている。真相はどうであれ、王がなくなった事情は全くの謎に包まれている。王妃の側近に多くの有力な大臣がいた。そのひとりケン・ターラ・ルゴンは、王と国家に対する功労を高く評価されたので、760年頃、特別に銘刻された石柱が彼の名において建立された。この石柱は現在もポタラ宮の前に立っている。しかしながら、「バシェー」(sBa bzhed)には、ケン・ターラ・ルゴンという人が仏教に反対したため追放された、とあり、また、サムイェ―(bSam
yas)にボン教様式の黒いストゥーパを建立した同名の人もいる。追放された人と、功労を高くほめ称えられて人が同一人物とは考えにくいので、同名の人物がふたりいたか、あるいは、「バシェー」版が後代になって偽造されたと、述べるしかないのである。官僚たちは政治上の権力欲を露骨に顕さないために、ややもすれば宗教上の争いという体裁をとった。ティソン・デツェン王が成人するまでの間、貴族たちは対抗派閥をつくって、一時的に仏教を禁じたことさえあった。
サムイェ―にストゥーパが建立された後、仏教は勝利をおさめたが、それは純粋に宗教的な見地で成功したというよりも、むしろ、政治的に抜きん出たという意味である。いかにそうであろうと、ボン教の戦いは続いた。古来の信仰はチベット人の精神に深く浸透しており、一般の人々は依然としてボン教を奉じていた。しかしボン教は迫害を受け、その祭司たちは中央チベットか追放されたそうであるが、彼らは仏教の実践を問題として論ずることにやぶさかではなかった。彼らの中には退去する時に、書物の破棄をまぬがれるためあちこちに隠した人々もいる。仏教について論じることを容認した人々の中に、多大の尊敬を集めているボン教の師テンパ・ナムカもいた。このようにして、彼らはボン教が根絶やしにされるのを防ぎ得たと、伝えられている 。ボン教に対して、公的で組織的な迫害が8世紀に展開されたという記述は、ほとんどすべてのボン教の歴史書や、若干の仏教史書、たとえば「バシェー」や「ケーベー・ガトゥン」(mKhas pa’i dga’ ston)などに載っているが、迫害についての当時の記録は何も入手できない。ただ[P.T.239]に、ふたつの信仰集団間で若干の摩擦があったと示されているだけである。[P.T.239]を除くと、精査できる独立資料は皆無だ。ゆえに我々は、もっぱら後の時代のテキストにたよって、このあいまいな問題を垣間見る程度しかできないのである。
ボン教史家の意見は、迫害の起こった年を丑の歳、すなわちティソン・デツェン王45歳の時とすることで一致している。それゆえ私は「レクシェーズー」(Legs bshad mdzod)の翻訳書に、ボン教の正式な廃止年度を785年と提示した(Karmay
1969:94, n. 2)。おそらくボン僧の多くは辺境地方へ去ったであろう。事実ナキ・ポンポ(Nakhi Bonpo)が、自分たちの祖先はボン教迫害にともなって、中央チベットからやって来たのだと述べている。この時代に宗教テキストが隠された蓋然性はきわめて高い。テキスト隠蔽の思いつきには、ボン教徒とニンマ派の間に著しい差異がある。パドマサンバヴァと弟子たちが大半の宗教テキストを秘したのは、信者たちがそれらを理解できるほど、十分に霊的に成熟していないという理由からであった。一方ボン教僧は、迫害者に教理集を絶滅される危険があったため、隠さざるを得なかったと述べている。事情はどうであれ、双方とも幾世紀か後に、厖大な宗教テキストを再発見したと主張し、また、それらが隠された時期については8世紀であると断じている。
785年から1017年に至るまでの期間は、ニンマ派同様ボン教が宗教的に進展するために、とりわけ重大なはずであったが、実際のところ、この期間のボン教については不明なのである。いわゆる「ボン教後期敷衍」は1017年、シェンチェン・ルガ(gShen chen Klu dga’ 996―1035)によるテキストの再発見を契機に始まった。彼はボン教の後期発展における最も重要な人物のひとりであり、おびただしいテキストの発見を主張した最初の人でもある。これらの「テルマ」がボン教聖典の中で、大規模な中核を形成していったのである。
シェンチェン・ルガの出現とともに、ボン教は完全な組織宗教へと飛躍した。なお、その組織形態は、多かれ少なかれ仏教の様式と似通っていたが、教義と実践に関しては、仏教が最初から排除しようとしていたボン教独自の要素を堅持したのである。その当時のボン教僧には、仏教と調和をはかろうとする姿勢がうかがえる。仏陀釈迦牟尼は、シェンラプの発現形態のひとつで、有情の者たちを六種類の存在様式から導き出す六神のひとりとされた。また同時にボン教は、チベットで有用な信仰と実践を、いずれから生み出されたものであれ、もれなく包含しようとしていた。チベットのあらゆる信仰を包括した宗教が存在したとすれば、それは、ボン教であった。それゆえ、まさにこの意味において、ボン教はチベット特有のラマ教を代表していると言ってよいであろう。
シェンチェン・ルガは、シェンラプ・ミオゥの息子コンツァ・ワンデン(Kong tsha dbang ldan)の直系だと主張するシェン一族に生まれた。シェン族の領地はツァン(gTsang)にあった。彼は青年時代に背中を負傷し、それがもとで不具になった。そのため「シェングー」(gShen sgur せむしのシェン)と呼ばれた。彼は宗教テキストを再発見すると、ただちに、多くの弟子を集めた。この中の三人が、続く4世紀間に発展するボン教で、重要な役割を果たすことになったのである。三弟子のうちのひとりドゥチェン・ナムカ・ユントゥン(Bru chen Nam mkha’ g-yung drung)はトゥの家に生まれた。彼の祖先はギルギット(ブルシャ)からチベットへ移住してきた。師のシェンチェン・ルガは彼に、自分が再発見したテキストのうち、「ズープー」(mDzod phug)[Karmay 1975:191]と「ガッパ」(Gab pa)[Kvaerne
1974・・K109]の研究を確立するように命じた。その結果、この弟子は1072年にイェール・エンサカ寺院(g-Yas ru dBen sa kha)を建てた。この寺は、ボン教僧の重要な学問所となったが、1386年におしくも、洪水で壊滅した。ケーパ・ヤルモ・タンバ(mKhas pa dByar mo thang ba 1144-?)とアシャ・ロトゥー・ゲンツェン(’A zha Blo gros rgyal mtshan 1198-1263)はこの寺のもっとも著名な僧院長であった。僧院長の多くはトゥ家の出身で、この一族は当寺院の後援者をもって自任していた。しかしながら、寺が壊滅すると、一族の家運も傾き始め、パンチェン・ラマをふたり出した後、とうとう19世紀に家系がとだえた。第二世パンチェン・ラマ、ロサン・イェシェー(Blo bzang ye shes 1663-1737)が生まれた時、慣例通り、家族こぞってタシルンポへ随行し、家領には誰も留まらなかった。家領の里人たちは、このことでトゥの家系が絶えてしまうのではないかと懸念し、タシルンポ当局へトゥ家の人をひとり帰してもらうよう願い出て、どうにか事態を切り抜けたのである。ところが、19世紀に再度この家系に第五世パンチェン・ラマ、テンペー・ワンチュク(bsTan pa’ dbang phyug 1855-81)が誕生した。やはり一族をあげてタシルンポへ随行したが、この時はトゥ家の家系を維持するために、心を砕く者が誰もいなかった。それであえなく、トゥッツァン家は絶えてしまったのである。一族の家屋敷と地所は、タシルンポのラタン(Bla brang)の所有となった。このふたりのパンチェン・ラマ伝を書いた作家たちは、用心深くトゥ家の宗教を秘している。伝記作家たちはラマの血統に関しては、氏素姓の高貴さを大仰にほめそやしたが、家の宗教に関しては、それがゲルク派方の目に、このラマたちの神聖さをそこなうとも映るかもしれないから、公表する必要はないと考えたのである。
シェンチェン・ルガの傑出した三弟子のふたりめは、シュイェー・レクポ(Zhu yas Legs po)であった。師はこの弟子に、ゾクチェン瞑想の教理を守るよう言い渡した。弟子はシュ家の出身で、その子孫たちは現在インドで難民となっている。彼は11世紀にキーカル・リシン寺(sKyid mkhar ri zhing)を建てた。この寺はゾクチェンの哲学および実践のために、欠くべからざる中心的名刹となった。
さて、主だった三弟子の最後は、パトゥン・ペーチョク(sPa ston sPal mchog)で、多大の尊敬を集めたパ家の出身であった。彼はタントラ学に関心を抱いた。それに、隠遁所の機構を創設した。そこは後に発展して、タントラ学の中心的役割を担った。(註19)以上の三弟子を輩出したトゥ、シュ、パ、の三家族に加えて、さらにもうひとつ、メウ(rMe’u)と呼ばれる家があった。この家系にはシェンチェンと会見した者は誰もいないらしいが、11世紀に、メウ・ケーパ・ペーチェン(rMe’u mkhas pa dPal chen 1052−?)がサンリ寺(bZang
ri)を建てた。この寺は哲学研究のもうひとつの中心となった。こうしてツァンに全部で四つ、ボン教の中心寺院が置かれたのである。トゥ家とメウ家の建立した二寺は、もっぱら哲学研究にかかわったが、残りの二寺は、霊的の進歩と瞑想を推し進めた。当時の学僧たちは、ボン教の寺を経めぐるばかりではなく、サキャやナルタン、サンプなどの仏教寺院にも逗留したものである。仏教学者の伝記を読むと、論壇でボン僧に会い、哲学的な論戦を展開してボン僧たちを負かしたという話にたびたびでくわす。サンプで研鑚中、幾人かのボン僧を論破したプトン(Bu ston)なども、まさにこの例なのである[Ruegg 1966:73]。
上述の四大寺院は主として、北方に住む牧畜民の寄進によって維持されていた。チベットの牧畜民の大部分は、チベット史を通じて始終変わらず、ボン教の熱心な信者であり、彼らが寺の必需品をまかなってもいたのである。寺は寄進の品物を集めるために僧たちを派遣し、その一行は東奔西走して品物を寺へ運び込んだ。寄進物のほとんどは畜産物であったから、後で、これを小麦粉やその他の穀物など、牧畜民では用立てできない種類の必需品と物々交換した。
11世紀から14世紀の間、ボン僧は平穏無事な信仰生活を満喫した。仏教諸派との宗教上、政治上の紛糾にわずらわされない限り、彼らは落ち着いて宗教三昧になれたのである。ところが、14世紀の末に至ると、1386年のトゥ寺院の壊滅を始めとして、上述の四大寺院は軒並み頽廃への道を転落していった。ボン教史に新しい時代が始まったのである。新時代は、ニャムメー・シェーラップ・ギャルツェン(mNyam med Shes rab rgyal mtshan 1356−1415)というギャロン出身のボン教師とともに到来した。彼は1405年にメンリ寺(sMan
ri)を建て、この寺が、1959年までボン教のもっとも重要な中心寺院となった。とはいえ、ボン教の発展した往年に比較すると、とりたててあげる程の役割も果たさないままであったが、それでも、チベットに信教の自由がなくなる最後の日までもちこたえたのである。1834年、ダワ・ギャルツェン(Zla ba rgyal mtshan 1796−?)がツァンに寺を建てた。これはユンドゥリン(g-Yung drung gling)と呼ばれ、ボン教最大の寺院のひとつとして200人の僧を擁していた。また少し後に、カルナ(sKhar sna)と呼ばれる寺も、メンリ寺の近くに建てられた。したがって中央チベットには、合わせて三つ、ボン教の主要寺院があったのである。
1017年から1386年に至るまでの平穏に比べると、この後は、厳しく困難な時代になった。ゲルク派が権力を握ると、その神政政府はいろいろな動きを抑制したので、ボン教はまたもや、チョナン派(Jo nang pa)とともに迫害を受けることになった。それは第五世ダライ・ラマ治世下のことである。特にキュンポ(Khyung po)にあったボン教の数ヵ寺が、ゲルク派に改宗されたし、カムのベリーで起こった迫害はもっとも過酷になっていった。つまり、遺憾ながら、チベットの仏教僧でもある神政統治者が、ベリーで、宗教上の対抗者を制圧するためにモンゴル兵を用いたからである。(註20)しかし、ボン僧は、チョナン派にふりかかったような、中央チベットから完全に消し去られるという運命をどうにかまぬがれた。このような迫害が、神政体制の間中あちこちで続いていたのである。終始ボン教の拠点であったギャロンでは、数年間にわたって満州人の侵略に抵抗し続けていた。乾隆帝はもはや手も足も出ないと悟り、自分の法師でゲルク派の活物であるチャンキャ・ロルペー・ドルジェ(lCang skya Rol pa’i rdo fje 1714‐1786)に、強硬なボン僧に対抗して呪力を使うように依頼した。しかしこのラマは、中国軍を用いてボン教徒を打ち破る好機を逸した。中国軍が1775年頃、撤退したからである。ギャロンの人々をむりやりボン教の信仰から引き離してしまおうという、彼らの目的は達せられなかったが、有名なボン教寺院ユントゥン・ラディン(g-Yung drung lha sding)を破壊し、後に、ガンデン(sGa’ ldan)と呼ばれるゲルク派の寺を、同じ場所に建てた。乾隆帝はボン教禁止の布告を発令した。(註21)
こうした災難や妨害にもかかわらず、ボン僧は自らの伝統を守り続けた。19世紀後半になって、ゾクチェンの哲学がひときわ新たに展開し始めた。これはカムにおいて、ボン教師シャルザ・タシ・ギャルツェン(Shar rdza bKra shis rgyal mtshan 1858‐1935)が着手したこのによるのである。彼はリーメー(Ris med 超宗派主義)運動を起こした人々の中のひとりである。(註22)ほぼ18巻から成る彼の著作集は、単にボン教の伝統を継続せしめたばかりでなく、おそらくニンマ派側からの刺激を受けたせいもあろうが、ボン教を当時の同派と同じ方法で発展せしめるのにも役立ったのである。こうした発展の賜として、カギャ・キュントゥー・ジグメー・ナムケー・ドルジェ(Ka rgya Khyung sprul ‘Jigs med nam mkha’i
rdo rje 1897‐)が1936年にティセ山(カイラス)の近くに、キュンルン・ングルカル(Khyung lung dngul mkhar)という新しい寺を建立した。この人こそ、1950年にデリーで、シャルザ・タシ・ギャルツェン全集の石版版を初めて作ったラマである。
註
1) [gZer mig,vol. Ka chap.7,f.120b;Kvaerne 1974:K6]
2)ボン教では天を四界に分けており、ティパ・イェサンはそのうちの一界である。そこはティーパ・サンポ・ブム ティ (Srid pa sangs po ‘bum khri)の住む世界と考えられている。(訳者註[Karmay 1975a,:195]を要約)
3) [Haarh 1968;Stein 1971b:231-254]
4) [f.22a,b]このテキストは14世紀にタポ・ゲーワ・タクパ(Bra bo rGyal ba grags pa)によって発見されたものである。
5) [Stein 1959:29-30;Karmay 1975b]
6) [Jan.-Feb. 1973:14,Dec.1973:裏ページ]
7) [Zhu Nyi ma grags pa 1965]このテキストはE.Haarhによって編集及び翻訳され、[Haarh 1968]として公刊。
8)これら二神に関しては[Karmay 1975a:194]参照のこと。
9) [Karmay
1975b;Blondeau 1971:33-48]
10) [PT 1068,1134/2,1136,1194,1289]敦煌写本ナンバーは[Lalou
1931,1950,1961]
によっている。 [Thomas1957:Chap.I,text
A,p,16]敦煌写本とThomasではシェンラプ・ミオゥの綴りが一致している。この名前の意味に関しては[Stein
1971a:539 n.7,540n.11] を参照のこと。
11) [Grub mtha’ shel gyi me long,section Tha:Ma ha tsi na’i yul du rig byed dang bon gyi grub mtha’ byung tshul,f.15a]
12)[Tibetan Tripitaka,Otani vol.144 No5843]
13)[Chos ‘byung f.198b]
14) [Bacot,Thomas,Toussaint 1940:115]
15) [dGe ‘dun chos ‘phel f.29a]
16) [Bacot,Thomas,Toussaint 1940:13,80;Macdnald 1940:111]
17)ボン教のニシュパンナヨーガの歴史と教義、[Satapitaka Series,vol.73 section
Pa:259-267]
18)[Bacot,Thomas,Toussaint
1940:13,80;Macdonald 1971:255-271]
19)シェンチェン・ルガの生涯と彼の弟子に関しては、[Karmay 1969:126-140;Smith 1970:6,n.13]
20) [sDe srid Sangs rgyas rgya mtsho 1960:307,375;Blo bzang chos kyi nyi
ma,section Ta,f.8a]
21) [Blo bzang chos kyi nyi ma, section Ta,f.8a;Brag dgon zhabs drung gsTan
pa rab rgyas,section:Kha gya tsho drug nas rgyal mo tsha ba rong gi bar gyi dgon
sgrub sde phal che ba’I dkar
chag tho tsam bkod pa,f.265b]
この文献で は、 寺院の名前をテンペーリン(bsTan phel gling)としてある。
尚[Smith 1969:10]も参照。
22)[Smith 1970:35,n.67]。彼の小伝に関しては[Kvaerne 1973:276-278]参照。