西洋人サドゥーと会う 

 1906年8月、スンダルはカシミールのジャンムーでオレンジ色の衣に身を包んだサドゥーと会った。しかし彼は西洋人だった。彼はサミュエル・ストークスという名のクエーカー教徒のアメリカ人だった。インド人に福音を広げるために北インドの田舎をまわっているということだった。スンダルは自分とおなじく神からのお召しで説教をしているサミュエルの姿に強い印象をもった。ふたりは秋と冬の数か月間、いっしょに旅をすることにした。

 最初の夜から試練だった。食べ物にも宿にもなかなかありつけなかったが、やっと馬小屋で寝ることができた。このときはじめてサミュエルから12世紀のイタリアの流浪の聖人、アッシジの聖フランチェスコの話を聞き、スンダルは感銘を受けたのである。聖フランチェスコは裕福な家に生まれ、贅沢な生活を楽しんでいたが、大きな病気にかかったのをきっかけに、考え方を転換した。彼はもし死んでいたとしても、自分は天国に行くことはできなかったと考えたのだった。彼は家の財産を捨て、貧窮の生活を選んだ。各地を放浪しながら福音を説くようになった。

 サミュエルは幻灯機を持っていた。夜、集まってきた人々にパレスティナのキリスト教の聖地を映し出した。村人の目と同様、スンダルの目もまた幻影のような異国の地の光景に釘づけになったにちがいない。

 ふたりはサバトゥのハンセン病院でしばらく奉仕した。その後サミュエルは米国にもどって新たにインドにやってくる人材を探すことになった。サミュエルが去ったので、スンダルはひとりでサバトゥ周辺の村々をめぐることにした。

 ナルカンドという村にさしかかった。(ナルカンドは現在数軒の安いレストランが並び、宿場町のような雰囲気を醸し出す小さな町だ) 麦刈りをしていた農民たちはスンダルがクリスチャン・サドゥーであることを知ると、いやがらせをして追い払おうとした。農民のひとりが投げた石がスンダルの額に当たり、血が噴き出た。農民たちはこのサドゥーが恨んで彼らに呪いをかけるのではないかと恐れた。しかしスンダルは「父なる神よ、彼らを許したまえ」と唱えただけだった。

 一時間後、作業をしていた農民のひとりが、川岸で血が止まるのを待っていたスンダルのもとへふらふらしながらやってきて、「頭がすごく痛い」と訴えた。ナンディという名の青年だった。彼は石をぶつけたため呪いをかけられたと思ったのだ。スンダルはしかしナンディの鎌を取ると、彼のかわりに麦刈りをはじめた。頭痛がするナンディのかわりに働こうとしたのだ。これ以来農民たちはスンダルの語るイエスの物語を聞こうとするようになった。

 


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