ラマからイッサ文書のことを聞く
ノトヴィッチはヤングハズバンドとの出会いについて、英語版の出版者に対しての手紙のなかで軽く触れている。
マックス・ミュラーらから「本当はラダックへ行っていないのではないか」と怪しまれたため、この有名人の名前を出して反駁をしたのだろう。
1887年10月28日にマタヤンで会ったと具体的に記している。
「イエスの知られざる生涯」が上梓され、世にひと騒動が起きている頃、そのヤングハズバンドは出世の階段を駆け上がる最中だった。
ノトヴィッチは基本的に旅行家だったので、当然旅については詳しく記している。
彼はラワルピンディからスリナガルまではトンガという馬車に乗って移動している。
そして11人のクーリー(荷担ぎ)を雇い、パミールという名の経験豊かな犬(他の西洋人探検家たちとパミール高原を越えたことがある)とともにスリナガルを出発した。近道をするために、はいつくばるようにして急斜面を登って行った。
シンド峡谷は猛獣がいる場所として知られ、パンサー、虎、レパード、黒熊、オオカミ、ジャッカルにおびえなければならなかった。ゾジ峠のあたりの急斜面をうねる道から見下ろすと、谷底ははるかに深く、めまいを起こすほどだった。峡谷にかかる橋も、その上を歩くと大きく揺れ、谷底に投げ出されるかと思ったという。
この前後にヤングハズバンドと会っているはずだが、それについては省略している。
そのかわりに緩慢なペースで進むヤルカンド商人の隊商のことに触れている。ノトヴィッチは彼らのキャラバンサライ(隊商宿)に泊まることもあったのだ。
ヤングハズバンドもヤルカンド商人について述べている。トルキスタン(新疆)からカシミールへ抜ける難所ルートを開拓していたのはヤルカンド商人であり、彼はそのルートをたどったにすぎなかった。
しかしその功績によって彼は最年少で王立地理協会のメンバーに選出され、メダルを授与された。
ゾジラ峠から下って古い城跡のあるドラス、さらに単調な道を降りていくと賑わいのあるカルギルに着く。ノトヴィッチはこのイスラム教徒の多い町でまる一日くつろぎ、翌日、馬を換えてフレッシュな気分でワハ川沿いに進んでいった。
道中はチベット系の村ばかりになり、いよいよ「小チベット」といわれるラダックに入ったことを実感した。
ノトヴィッチはムルベクのゴンパ(寺)に着く。ここには遠目にもよくわかる有名な弥勒(マイトレーヤ)の磨崖仏があるが、彼が一言も触れていないのは、おそらく当時は外から見ることができなかったからだろう。彼はワハの町のはずれにあるゴンパを訪ね、そこのラマたちと話をした。
ラマは言う。
「われわれは仏教徒の子孫である(改宗した)イスラム教徒を神の真実の道にもどすべく骨を折っているのです。でもヨーロッパ人の訪問は歓迎しています。彼らはチベットのラマと同様、ブッダを崇拝しているのですから。しかしキリスト教徒のまちがいは、ひとたびブッダの教理を受け入れていながら、われわれのとは違うダライラマを作り出し、それに仕えていることです」
「そのキリスト教徒のダライラマとはだれのことなのですか?」とノトヴィッチは間髪入れず聞き返した。
彼はイエス・キリストのことかと思ったが、それはローマ法王のことだった。本来は本物のダライラマ(イエス)を崇めるべきなのに、偽物のダライラマ(ローマ法王)を崇めているとラマは言っているのだ。
ラマはつづけて言う。
「イッサは偉大なる預言者です。22のブッダのあとの最初のブッダです。彼はどのダライラマよりも偉大だといえるでしょう」
ラマがはじめて会う西洋人にたいし、突然ブッダ、またはダライラマとイエスが同等であると説き始めたのだ。仏教徒が発する言葉とはとても思えず、ノトヴィッチが当惑したのは当然だった。
ラマはノトヴィッチに対し、イッサについて書かれた古文書について語る。
「もととなる文書はインドやネパールでさまざまな時代に編集され、巡礼に訪れたラマたちがわれらのダライラマのために記念に寄贈したものです。ラサには数千部もの写本があるので、主だった僧院に行けば見ることができるでしょう」
「しかしあなたがたご自身は、イッサの古文書を持ってはいないのですか」
「ありません。われわれの修道院は小さいですから。大僧院ならば、代々のラマたちがそれらの文書を好きに閲覧することができるでしょう。まあ聖なる文書ですから、いずれにしてもあなたが閲覧する機会はないでしょうけどね」
ノトヴィッチは話を聞いていっそうその古文書に興味をひかれた。イッサ、仏教徒の預言者。そんなことがありえるだろうか。福音書が何も述べていない12歳から30歳のあいだ、イエスはインドで仏教の教育を受けたのだろうか。ノトヴィッチはイッサの文書を見たくてたまらなくなる。
このラマが語るシーンは、ヘミス僧院でイエスの古文書を見せてもらう布石である。
しかし19世紀後半ならともかく、チベットからミステリアスな要素がかなり消え、ラダックにも気軽に観光で訪れるようになったいま、これが実際に起こったこととはとうてい思えない。
チベットを舞台とした小説『第三の眼』(ロブサン・ランパ 1956)を読んだときにも感じたのだが、まったくの作り話ではないにせよ、虚構が入り込んで何かウソくさいのだ。
このラマが言うダライラマという称号がそもそも曖昧で、誤用である。アヴァローキテーシュヴァラ(観音)の化身とされるダライラマは、あくまでチベット仏教ゲルク派最高位の転生ラマであり、ラダックのラマたち(最大宗派はドゥク派)から崇敬されているとはかぎらないのだ。(現在は状況が異なり、宗派を超えたチベット仏教界のトップに位置する)
当時のチベットは、ダライラマ10世が10歳になり、摂政のティンレー・ラプギェが手腕を発揮しはじめたところだった。
グレート・ゲームの主役のひとりである「二重スパイ」ロシア人(ブリヤート族)のアグワン・ドルジェフ(1854−1938)はまだ19歳で、デプン僧院で若き僧侶として研鑽を積んでいるさなかだった。
もうひとりの主役ヤングハズバンドには、ほんの数日前出会っているのだが、ノトヴィッチはその重要性に気づくことはなかった。
こうしたリアルなチベットの動向はノトヴィッチの文章からは微塵も感じられない。しかしこの場面の前に、ノトヴィッチはチベット語の薀蓄をひけらかしている。
マホメットと同時代のチベットの国王が仏教徒のためにサンスクリットを単純化した言語を作り、またそれを表記するための文字を導入したと説明しているのだ。たしかに7世紀前半、チベット国王ソンツェンガムボがトンミ・サンボータをインドに派遣してサンスクリットを学ばせ、帰国後チベット文字を作らせたのだが、チベット語自体は仏教用語として借用されたサンスクリット語をのぞくと、サンスクリットとはなんら関係のない言語だ。チベットの知識を挿入することでもっともらしさを演出しようとしているが、かえって信憑性をそこねる結果になってしまったといえるだろう。
ムルベクのマイトレーヤ(弥勒)
Photo: Miyamoto Mikio