『蜂の書』が語るイエスの杖と「イエス洞窟」 

 杖、といえば多くの人はモーセの杖を思い浮かべるかもしれない。モーセが右手に持った杖を振り上げると、海(紅海)は大きく二つに割れ、イスラエルの民はそこを渡っていくことができた。追っ手のエジプト兵が渡ろうとすると海は元に戻り、行く手を遮られるのだった。

 モーセの兄、アロンの杖もまたよく知られている。「民数記」16章では、モーセとアロンに対し、コラたちが反旗を翻す。実際は不平をこぼすだけなのだが。

 神に罰せられたコラとその家族は、地に飲み込まれて死んでしまう。さらには250人ほどの同調者も死ぬ。これはもし本当に起きたことなら、クーデター未遂の首謀者と一味を処刑したということなのだろう。そのあと疫病が蔓延し、1万人以上の犠牲者が出てしまう。

 そして神の命令によって、12部族の各家に一本ずつの杖を提出させ、「あかしの幕屋」の前に置かせた。これによって神がだれを選ぶかを見極めるのである。翌日、アロンの杖からだけ芽が出て、アーモンドの花が咲き、実がなった。アーモンドの花は桜の花によく似ているので、アロンの杖はさぞ美しかったことだろう。このことによってアロンはイスラエルの民の祭司者の元祖となったのである。

 一方イエスの杖とは何だろうか。新約聖書に出てくる杖は「黙示録」2章の「(キリスト者は)鉄の杖を持ってちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう」という一節だけである。これも象徴的な意味合いが強く、実際に鉄の杖を持つというわけではないだろう。

 モーセの杖について詳しく書いているのがネストリウス派の重要な文献『蜂の書』だ。この書は、ヴァン湖西岸のアフラト(もともとアルメニアの都市。現トルコ領。近年、仏教洞窟寺院跡が発見された)出身の司教シェレモン(ソロモン)によって1222年に著されたものである。

 シェレモンによると、エデンの園を去るとき、アダムは善悪を知る木(いちじく)を切って杖を作った。その杖はアダムの死後、息子のセツにわたった。その後代々人の手をわたっていき、ノアのもとに落ち着いた。ノアはそれをシェムにわたした。そしてアブラハムにわたり、その杖で偶像を壊した。さらにイサクやヤコブとわたり、ヤコブ・ユダのもとに落ち着いた。そのあと戦争の時代をへて、モーセが手にすることになる。モーセの杖といってもモーセのもとへ来るまで長い時間を経ているのだった。

 モーセに率いられてカナンの地へ来たとき、先に探るために入った者のうち生き残ったのはヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブだけだった。彼らはピリシテ人やアマレク人と戦うため、この杖をもっていた。

 ピネアス(ピンハス)はこの杖をエルサレムの門の前の砂漠に隠した。それがふたたび現れるのはイエスが誕生したときだった。ヨセフとマリアが幼な子イエスを連れてエジプトへ逃げたとき、ヨセフの手にはこの杖が握られていた。彼らがナザレにもどってきたときも、ヨセフの手にはこの杖があったのだ。そして杖はイエスの兄弟ヤコブにわたった。しかし盗人のヤコブ・ユダス・イスカリオトが杖を盗んだ。

 イエスが十字架にかけられたとき、十字架のための木が不足していた。そこでユダスは杖を使用するよう申し出た。十字架の横木にこの杖が使われたのである。

 

 さて、この杖とどう関係があるか正確にはわからないが(イエスがインドにやってきたとき、その手に持っていたのだろう)イエスの杖と称されるものがカシミールのアイシュ・ムカム(イエス洞窟)の聖人廟(ハズラト・ザイヌッディン・ワリ廟)に保管されているという。ホジャ・ナズィル・アフマド(第8章「アフマディヤ派の…」)は1947年7月19日、この現物を見て、一枚の写真にも撮っているのである。杖は長さ250センチほどで直径2センチから5センチ弱、材質はオリーブで、焦げ茶色をしているという。半世紀以上たってスザンヌ・オルソンが訪ねているが、現物を拝見することはできなかった。

 このイエスの杖(アッサ・イ・イッサ)は『ラウザ・トゥス・サファ』や『ジャメ・ウッタワリフ』、『ワジーズ・ウッタワリフ』などの歴史的著作物にも載っているという。それらによると、もともと杖はハマダンのハズラト・ミール・サイェド・アリの所有物であったらしい。それが贈り物としてハズラト・シャイフ・ヌルッディン・ワリのもとへ渡り、最終的にハズラト・ザイヌッディン・ワリにわたったという。これが600年ほど前のことである。




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