(3)キリスト教原理主義との戦い 

 この『神の息』には『ダ・ヴィンチ・コード』と共通する手法がある。それは架空の組織や人物に混ぜて実在する組織を登場させるやり方だ。『ダ・ヴィンチ・コード』ではオプス・デイというカトリック公認の組織をあたかも秘密結社であるかのように描き、バチカンから批判を浴びた。オプス・デイが謎めいていて、会員になるのが容易でない(まず「笛を吹く」と呼ばれる第一段階からはじまる)のはたしかなのだが。

『神の息』にもNAE(National Association of Evangelicals 全国福音派連合)という会員3千万人を擁する実在の宗教団体が重要な役目をもつ。この組織は大統領選の際には大きな票田となるほど力を持っているので、8万4千人の会員のオプス・デイと比べれば、プライバシー性が少ないといえるのかもしれない。

 ブライアン・ブランディ師はニューホープ・チャーチの長であり、NAEのつぎの会長の座を狙う有力な聖職者である。しかしそのある種のいかがわしさを、新しい秘書のカーラを通じてつぎのように言わせている。

「私はニューホープにはPTLみたいな失敗をしてほしくないのです」

 PTLというのは昔の人気テレビ伝道師(テレヴァンジェリスト)ジム・ベイカーが作ったPTLクラブのことだが、彼はセックス・スキャンダルで失墜どころか実刑判決を受けて刑に服することになったのである。

「カーラ、そんなこと本気で言っているんじゃないよね」とニューホープ・チャーチのディレクター、ウィリアム・ジェニングスは言う。「たしかにわれわれには資金が必要だが、リック・ウォレンが本を売って何百万ドルもの収益を得たように、ブランディ師の書く本によって資金調達は可能だろう」

 リック・ウォレンの『The Purpose Driven Life』(邦題は『人生を導く5つの目的』)は大ベストセラーとなったキリスト教系のいわゆる自己啓発本である。ブランディ師はウォレンのように大衆を扇動する力をもっていた。

 ブータンのゴンパ(寺院)でグラントはこれ以上ないパートナーとめぐりあう。その名はクリスティン・ミサキ、父親が沖縄出身の日本人、母親がニューイングランド出身のカトリックという自称トラベル・ライターのハーフ美人だ。日本人の血が混じっているとはいっても男勝りで、活発な気性の持ち主である。

 グラントとクリスティンはプナカのある建物の中でキンレーから古文書を見せてもらう。それはキンレーが書庫係の僧であった二十年前に発見したものだった。見かけはほかのチベット仏教経典とかわらなかったが、一部はパーリ語で書かれていた。小説には明示されていないが、パーリ文字というのは存在しないので、死滅した当時の文字がつかわれているはずだ。ノトヴィッチがヘミス僧院で見せてもらったのは、チベット語訳だった。いまグラントたちが見ているのはそのオリジナルだったのだ。

 クリスティンはようやくこの古い経典がイッサについて書かれていることを知り、たずねた。

「ではこの本を書いた人はだれなの?」

「インドでイッサに教えを授けたお坊さんさ」とキンレーはこたえた。「イッサの死後何百年も、本は書かれた寺院に保管されていたはずだ。しかしヒンドゥー教が勢いを増してきたので、仏教経典は集められてチベットへ送られたのだ。そして1959年、共産主義者たちがチベットに攻め込んできたとき、それらはネパールやブータンに移された」

 もちろん小説なので文句を言う筋合いはないのだが、実際ヒンドゥー教に圧迫されたからといってチベットへ経典が運ばれるということはなかった。仏教経典が大量に翻訳されたのは、ラサの吐蕃王朝が滅亡した後、10世紀後半の西チベットのグゲ王朝のもとでの話である。しかそこのテンポのいい小説にはそんな穿鑿など無用だろう。




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