(3)エルサレムからの旅立ち 

 サティヤはイェシュアとはじめて会ったときのことをありありと思い出した。イェシュアは数人の黒服の男たちに追われ、サティヤの父親が統率する隊商のキャンプ地に逃げ込んできたのだった。作者はそのときのイェシュアの様子をつぎのように描写する。

 彼の衣は肘のあたりが破れ、顔は薄汚れ、左膝に血が着いていた。しかし赤味がかったぼさぼさの巻き髪を見たとき、思わず私は吹き出してしまった。まるで女の子みたいだな、と思ったが、つぎの瞬間その目を見ると、女の子らしさは微塵もなかった。青灰色の瞳がじっと私のほうを見ていた。実際、その目はひとの内側をまっすぐに見ているのだ。あるいはひとを射すくめている、といってもいい。

 なぜ男たちに追われていたのか、イェシュアはためらいながら明かす。

「ぼくは強盗でも泥棒でもないよ。神殿の商人たちが並べている台をひっくり返してきたからなんだ」

 これはもちろん「ヨハネの福音書」第2章の「神殿事件」をふまえている。イエスは過ぎ越し祭が近づき、人でごった返す宮殿内の市場に乗り込み、羊や牛、商人を追い出し、両替商人の金をまき散らし、その台をひっくり返すという暴挙にでたのだ。これが比喩かどうか、悩ましい箇所である。「イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである」と聖書には書かれているので、比喩なのだろう。でなければ、イエスは損害賠償すべきである。ともかく、おなじようなことを12歳のイェシュアが行い、商人たちから追われることになってしまった。

 サティヤと会ったことが、イェシュアの運命を大きく変えることになった。彼は世界を旅する隊商に興味津々で、サティヤにたいしても質問攻めにした。

「勉強はどうするの?」

「お父さんは、旅をすることで心が大きくなると言っているよ。旅をすれば、学べるんだ。ぼくは4つの言葉がしゃべれるし、ベナレスからエルサレムのルートも描くことだってできるんだ。それにお父さんの部下から数学や占星術を習ってるし」

「ぼくにも教えてくれないかな」

 サティヤはびっくりする。教えを乞われたことなどなかったからだ。

 イェシュアはさらに、「ぼくが隊商に加わりたいって、父君に頼んでいただけないかな」と話し、サティヤを驚かせた。

 サティヤの父親の許可を得たイェシュアは、後日、両親に付き添われて隊商のキャンプ地にやってきた。17年(あるいは18年)の間、イエスが何をしていたか、聖書には具体的な記述がない。映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』のように、大工見習いとして父ヨセフの仕事を手伝っていたとみなされることも多いが、地元にはいなかったので、エルサレムで働いていたのかもしれない。しかしのちの宣教活動をするイエスを見るかぎり、かなり濃厚な、深みのある修行時代を送っていたに違いないと思う。

 作者は母マリアをつぎのように描いている。

 イェシュアの母は彼を愛情深く引き寄せ、あたかもかけがえのない、壊れやすいものを扱うように抱きしめた。彼らは母子というより弟と姉のようだった。母は息子とおなじ年頃のように見えた。背丈もおなじくらいだったのだ。とても小さくて、繊細だった。ふたりとも目は青かった。父が息子に心構えを述べているあいだ、母はその後ろに立って待っていた

 神格化された女性、あるいは聖なる母子を描くのはなんとむつかしいことかと思う。外典の多くはマリアがとても若かったとしている。たとえば『ヤコブ原福音書』によると、マリアがイエスを産んだのは16歳のときだった。そうすると、このときマリアは28歳だったということになる。姉と弟のように見えたのももっともなことだった。

 『イェシュア』では、こうしてイェシュアは両親に別れを告げ、隊商に加わってインドをめざした、としている。

 



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