(7)霊的進化を遂げるイェシュア 

 サティヤが交易の旅に出ている間に、イェシュアはネパールのヒマラヤの麓まで出かけていた。

「彼らは心の整え方をおしえてくれたんだ」とイェシュアは言った。プラジュナ(知恵)を得るために所有について理解し、考えなければならなかった。シラー(道徳)のために正しく話し、よいことを行わなければならなかった。サマディ(三昧)のために正しい努力、正しい注意、集中が必要とされた。

「二君に仕えることはできない」と、ここでもイェシュアは口癖のように言った。「肉体と魂の両者に仕えることはできないのだ」

 イェシュアはこうも言った。

「サティヤよ、友よ。身体に食べさせたところで、すぐにおなかが減ってしまうだろう。しかしアートマに食べさせたなら、もう空腹を覚えることはないだろう」

 彼はますます瞑想にのめりこんでいった。

「ぼくは呼吸そのものになろうとしているんだ」と彼は言ったことがあった。

「人は瞑想するとき」とイェシュアはつづけた。「現実のほんの切れ端に集中すべきだ。でなければ、抽象的な何かに集中するのがいい。それが何であろうと、その人の知性を含んでいるだろう。ぼくは意識を保ったまま、そのことに集中しようとしている」

 イェシュアを見習って瞑想を試みたサティヤは、ついに呼吸を捉えたと思った。

 それはほんの一瞬だったが、光のなかにうつろいやすい姿を見た。空気の動きのようなものだった。一陣のそよ風のような。それは渦巻いて絶対的な平穏の地点へと流れていった。見たというより、感じたといったほうがいいだろう。ぼくはそれを体験したのだ。同時にぼくはイェシュアの顔を見た。

 イェシュアは言った。

「建物の外壁を見ているとき、君は内側を見ることができるかい? 巻物の外カバーを見たとき、君はなかに何が書かれているか言えるかい? それはありえない。君はぼくを見ることができない。ぼくを守っている外鞘しか見ていないのだ。外側というのはつねに変化しているものなのだ」

 イェシュアは涅槃(ニルヴァーナ)についても述べている。

「ニルヴァーナというのは、すべての感覚を遮断することではない。それは死でもなければ、人生の否定でもない。アートマの存在の否定でもない。それは二元性であり、そのことによって真実が見えていないのだ」



⇒ つぎ