古代インドの教え               宮本神酒男

 イェシュアは船がヒンダス川河口に着くまでの数週間、グルのラマンチャナから一日16時間の教えを受けた。

「人の身体は」とグルは言う。「至高の霊の神殿なのだ。それは崇敬され、いつも注意を払われなければならない。ほどよく運動をし、食物を取り、衛生を心がけなければならない。すべてが本質的なことである。しかし身体を動物の本能に任せてしまうのも人の心というものだ。それゆえ人の身体は至高の聖なる神殿であらねばならぬ。野生の馬を馴らすように身体を調教する必要がある」

 イェシュアはカルマの理論についてグルと論じたことがあった。

「カルマはあらゆる行為の避けられない報いであり、人生の輪を通じて伝えられるものと教えられました。わたしがこの生においてすること、あるいはしないことは、最近の前世の行いが原因で起こされているにちがいありません。そして今後、何十回もの転生に影響を与えることでしょう。しかしこれはとても信じがたいことです。神がよい神であるなら、公明正大であるはずです。何代も前の前世の行為によってどんな罰が加えられるというのでしょうか」

「もっともな意見ではあるな、追放者イェシュアウよ」とラマンチャナはやさしく言う。「しかしカルマはダルマの法を知らずに理解することはできないだろう。ダルマは真実であり、宇宙の不可避の法である。そしてすべてはその法則にしたがって動くのだ。まことにもって、剣によって殺しを行う者は、そのまさにその考えによってダルマの法の劇を演じることになるのであり、その結果というのは剣によって死ぬということなのだ。愛は愛の報いを、憎しみは憎しみの報いを、感情は感情の、善は善の、悪は悪の報いを受けるだろう。ダルマはそれが乱されたとき、平静を求め、カルマはその結果の動きということになるだろう。しかしカルマは永遠不変と考えるとしたら、それはまちがいだ。実際、人はカルマを変えることができるのだ。でなければ何を信仰するというのだ? 信仰心を強く持つ者は熟練した者であり、つまり真のヨーギであり、カルマを超越しているのだ。ある人は低次の悪いカルマをなくすことができたかもしれない。カルマにマヤ(無知)はつきものだ。熟練者は悟りを開き、すべての無知を排除するだろう。『ウパニシャッド』にもつぎのような宝の教えがある。もし熟練者が殺しをするなら、それは殺しでないし、罪でも執着したカルマでもないだろう、と」

 



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