いかにしてインドのイエス伝説は形成されたか 宮本神酒男 

 1874年のラーマクリシュナのキリスト体験は、「インドのイエス伝説史」において大事件だった。ラーマクリシュナは、キリスト教とヒンドゥー教は対立するものではなく、究極的にはひとつの真理に到達するためのふたつの道であることを示したのである。

 このあと1887年にノトヴィッチがラダックのヘミス僧院でイッサ文書を発見し、1994年に『知られざるイエスの生涯』を出版する。それは偽書の可能性が大きいが、イエスがインドに来たかもしれないという伝説が生まれることにもなった。インドの新しい支配者となった西欧人がもたらしたキリスト教と土着のインドの宗教(ヒンドゥー教と仏教)とのあいだには深いところで何か関係があるのではないかという期待も膨らませることになったのである。

 ラーマクリシュナの弟子であるアベーダナンダがヘミス僧院でイッサ文書の存在を確認したのは1922年のことだった。アベーダナンダは実際何を見たのだろうか。金縁の豪華な仏教経典だったのか、それとも手書きの(手書きといってもきちんと書けばかなりきれいで立派に見える)経典だったのか。いずれにしてもチベット語の読めないアベーダナンダにとっては、わけのわからない文字の羅列にすぎなかったろう。ともかくも彼はヘミス僧院の僧が語るチベット語の文からおそらく英語に翻訳されたものを、ベンガル語に訳したのである。チベット語で記されたイッサ文書はたしかに存在し、何人かの西欧人に目撃されたが、その後姿を消してしまった。

 イッサ文書が偽書であったかどうかは、このさいもっとも重要なことではない。イエスが偉大なヨーギ(ヨーガ行者)であり、ヒンドゥー教とおなじ真理に到達したという考え方が生じたのである。この流れのなかから、ユクテシュワルやヨガナンダといった「キリスト意識」を追求する宗教者、哲学者にしてヨーギを生み出すことになった。

 もうひとつの大きな流れを起こしたのは、異端的イスラム教の教祖ミルザ・グラーム・アフマドだった。アフマドは、イエスは十字架上で死なず(これはコーランにも書かれていることなのでイスラム教のなかでは異端的な論ではない)インドのカシミールにやってきて長寿をまっとうしたと主張した。欧米人のどれほどがアフマドの著書に触れることができたかはわからないが、それを種本、あるいは情報源として多くの本が書かれ、ひとつの大きなジャンルが形成されたのである。すでに述べたように、カシミールにある「イエスの墓」ローザバル廟も、アフマドおよびアフマディヤ派によって「作られた」可能性を否定しきれない。主がだれであるかわからなくなった聖者廟など山ほどあるからである。それがユダヤ教やキリスト教の聖者の墓である可能性もまったくないとは言い切れないのだが。

 このように、イッサ文書やイエスの墓などあやしげなものを通してイエスのインド伝説は形成されてきたのだが、キリスト教とインドの宗教が融合し、それらを超越した真理を求めるムーブメントが起こるという副産物を生じることになった。実際にはなかったとしても、すなわち想像上にすぎないとしても、ヨーガ修行に励むイエス・キリストの姿は美しいと思う。

 

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