第17章 21世紀もつづくインド修行伝説
――魂の光修道院主宰ジョージ・バークのキリスト教――
イエスはインドでヒンドゥー教を学んだ
13歳から30歳の間か、30歳以降、あるいはその両方、イエス・キリストはインドへ行って修行したという説もしくは伝説は、過去の話ではなく、現在も信じている人々がいるという現在進行形の話である。エジプトならともかく、インドにまで行っていたこと、磔刑で死ななかったことなど、キリスト教本体から見ればトンデモ説である。しかしこれは宗教であり、異端のレッテルを貼られようとも、信仰心をあつくしている人々がいる。
第10章から12章で取り上げたパラマハンサ・ヨガナンダのシンクレティズム(ヒンドゥー教とキリスト教の習合)的な方向性を究極的に推し進めているのが、「魂の光修道院」(Atma Jyoti Ashram)を主宰するアボット・ジョージ・バーク(スワーミー・ニルマラナンダ・ギリ)である。聖トマス派キリスト教徒を自認する彼によれば、イエスはインドでウパニシャッドやバガヴァッド・ギータなどに見いだされるサナタナ・ダルマ(永遠の法という意味。ほぼヒンドゥー教を指している)を学んだあと、ヒンドゥー教の宣教師としてイスラエルに戻ったのだという。(もちろん厳密にはヒンドゥー教というよりはバラモン教だが、この場合、広義の意味のヒンドゥー教ととらえたい)
そんなバカな話はありえない、と多くの人は反対の声を上げるだろう。しかしジョージ・バークはいたってまじめに、聖トマス派キリスト教徒はオーム・ヨーガを実践しているので、イエスもそれを実践していたはずだと主張している。新約聖書のなかにも多くの証拠を見いだしていると述べている。バークの理論には無理があるが、あくまでこの考え方は、宗教上の論理なのである。聖トマス教会のオリジナルの儀礼(秘跡)は失われてしまっているため、J・I・ウェッジウッドやチャールズ・レドビーターらがつくった儀礼を用いているという。この両者が神智学協会のメンバーであったことをふまえれば、バーク率いる聖トマス教会はオカルティストといえるだろう。
イエス・キリストがエッセネ派に属していたという説は、荒唐無稽というわけではない。新約聖書にファリサイ派やサドカイ派が登場するのに、エッセネ派への言及がないのは、逆に登場人物の多くがエッセネ派に属していたことを意味するのかもしれない。イエスだけでなく、十二使徒を含む弟子や信者の多くがエッセネ派だったとジョージ・バークは述べている。
モーセの兄アロンおよびその子孫はエッセネ派の指導者(マスター)であり、予言者エレミヤも指導者だった。予言者イザヤや洗礼者ヨハネもまた指導者だったという。そしてその秘密の宗教哲学や実践は、エジプトの神秘的宗教に由来していた。このエジプトの秘教の起源はインドにあったとバーグは論を推し進めていく。それがインドのサナタナ・ダルマ、すなわち永遠の宗教なのだという。第3章で述べたように(これは基本的にアーサー・リリーの論だが)キリスト教、イスラエルのエッセネ派、エジプト・アレクサンドリアのテラペウタイ派、仏教(ここではヒンドゥー教)にはあきらかな共通点がある。
しかしここから「イエスはインドでヒンドゥー教(あるいは仏教)を学んだ」と結論付けすることはできるのだろうか。
すでに述べたように、2世紀のリヨンの聖エイレナイオス(イレナエウス)は、イエスは50歳過ぎまで生きたと主張している。これはつまり32歳の磔刑のあと20年も生きたということである。もう少し具体的に、磔刑のあとインドへ行ったという説を述べているのは、アレクサンドリアのバシリデス、マニ教の創始人マーニー、皇帝ユリアヌスらなどだ。イスラム教徒も、すなわちコーランもイエスは「磔刑で死んでいない」という説をとっているので、真偽はともかく、この説は突飛なものではないということになる。
「イエスはなぜインドに戻ったのか」とバークはわれわれをとまどわせるような問いかけをする。その答えはアンナ・カタリナ・エンメリック(18世紀の聖人)の見た幻のなかにあると彼は言う。「インドでイエスは人々を愛し、また心の底から愛された。一方、イスラエルでは、人々はイエスが何を言っているのかまったく理解できなかった」こうしたことから、イエスはインドに戻る決意を固めたとバークは結論づける。