イエスがインドに来た痕跡 

 アボット・ジョージ・バークはイエスがインドへ行った(あるいは戻った)証拠をつぎつぎとあげていく。

最初に古代中国の文献として『玻璃鏡』を引用する。「この宗教の教師であり創設者であるイエス(Yesu)の誕生は奇跡的なものだった。しかし彼の教義は広がらず、アジアだけに生き残った」と、バークはインドとの深い関わりを示唆している。しかしこの引用の仕方は、信用を損ないかねない。なぜならこの書は二百年余り前にトゥカン・ラマがチベット語で著した『宗義書水晶鏡』であり、救世主イエス(耶蘇)のことに触れ、その教えが流布した「期間は短く、広まらなかった」と述べているにすぎないのだ。おそらく古くはネストリウス派(景教)の伝道師が、近世以降はカトリックやプロテスタントの宣教師たちがチベットや中国にやってきたが、仏教にとってかわるような存在にならなかったということなのだろう。

 ノトヴィッチがラダックのへミス僧院でイッサ(イエス)がインドに来たことについて書かれた文書を発見したことについて述べたあと、バークはスワーミー・アベーダナンダとスワーミー・トリグナティタナンダが別々の時期にヘミス僧院を訪ねて同文書を確認したこと、また僧院のラマたちが文書をノトヴィッチに翻訳して見せたことに触れている。この両者はラーマクリシュナの弟子であり、米国でヴェーダンタを教えていた。なおノトヴィッチの『知られざるイエスの生涯』が出版されたあと、英政府はイスラム教徒を雇ってヒンドゥー教徒の扮装をさせ、ラダックや近隣地域を回らせ、インドのイエスに関するさらなる文書を探させたという。しかしそうやって集められた文書は「焚書」にされる運命にあった。

 スワーミー・トリグナティタナンダはイエスの文書だけでなく、2枚のイエスの絵を見せられたという。一枚は、井戸のほとりでサマリア人の女と話をしている場面。もう一枚は、ヒマラヤの森でなだめられた野獣に囲まれた状態でイエスが瞑想している場面だったという。

 のちにロシア人の神秘的な画家ニコライ・リョーリフもヘミス寺院を訪れ、くだんの文書を見ている。そして「失われた歳月」の間にイエスがいくつもの仏教寺院に滞在したという話を聞かされたという。

 1921年にヘミス僧院を訪ねたのは『世界の屋根裏』を著したヘンリエッタ・メリックだった。彼女もそこでイッサの生涯の話を聞き、1500年前に書かれた文書の存在を確認している。昔、イッサはレー(ラダックの首都)に立ち寄り、そこであたたかく迎えられ、教えを説いたという。

 すでに述べたように、1939年にこの地を訪ねたのはカスパリ夫人だった。夫人は寺主から巻物を見せられたが、それには(おそらく通訳を介して)イエスがここに来たことが書かれてあったという。

 カリフォルニア州立大学の人類学の元教授ロバート・ラヴィッツがヘミスを訪ねたのはそれから三十数年がたった1975年のことだった。彼が会ったラダックの医者は、イエスが失われた歳月の間にここにやってきたという話をしたという。

 『アジア高地の氷と遊牧民の中で』の著者エドワード・ノアクがヘミス僧院を訪れたのは1970年代後半のことだった。ここの僧は彼に「ここの図書館には、イエスの東方への旅が描かれた文書が所蔵されていますよ」と語ったという。

 20世紀も終わりに近づいた頃、モラヴィア教会の宣教師カール・マルクスの日記が発見された。そこにはノトヴィッチのことと彼がイッサ文書を見つけたことが書き記されていた。ところがその箇所だけがなぜか破り取られ、紛失してしまったのである。しかしヨーロッパ人研究者がその部分を写真に撮っていたため、幸い「ないことにされてしまう」恐れはなくなった。

 第14章で触れたように、『ナータ・ナマヴァリ』は不思議な書である。ベンガルの教育者であり愛国者でもあるビピン・チャンドラ・パルは出版した自伝のなかで、有名なベンガルの聖人でありラーマクリシュナの弟子でもあったヴィジャイ・クリシュナ・ゴースワーミーが、ナータ・ヨーギとして知られる並はずれた隠棲僧侶ヨーギ集団とアラヴァリ山脈で過ごした日々のことを明かしている。ナータ・ヨーギたちは彼らの先駆的な指導者(グル)のひとりイシャ・ナータについて語った。イシャについては彼らの聖典『ナータ・ナマヴァリ』に詳しく描かれていた。ビピン・チャンドラ・パルはすぐにイシャがイエス・キリストであることに気がついた。

 イシャ・ナータがインドにやってきたのは14歳のときだった。その後イスラエルに戻って教えを説いたが、野蛮で即物的な人々のたくらみによって磔刑に処せられてしまう。しかし刑が執行されたあと、あるいはそれよりも前から彼はサマーディに入っていた。そのころ、彼のグルのひとりチェタン・ナータがたまたまヒマラヤの麓で深い瞑想状態にあった。そして幻の中にイシャ・ナータが拷問を受けている姿を認めたのである。チェタンはそこで体を空気より軽くし、イスラエルの地へと文字通り飛んでいった。

 チェタンが到達した日、空には雷がとどろき、稲妻が光った。世界全体が揺れ動いた。神々はユダヤ人にたいして怒っていた。チェタンはサマーディのなかにあったイシャの体をもってアーリア人の聖なる国へと戻っていった。イシャはヒマラヤの麓にアシュラムをつくり、リンガムの宗派を確立したのである。リンガムの宗派とは、シヴァ派のことだった。

 こうした伝説を裏づけるものとして二つの証拠品があげられる。ひとつは杖で、この聖杖はアイシュ・ムカンの僧院に納められている。もうひとつはモーセの石で、じつはこれはシヴァ・リンガであり、カシミールのビジベーハラのシヴァ寺院にあるという。この石をカシミールに運んだのは、なんとイエス自身だった。

 もうひとつ、カシミールのイエス伝説で重要な情報を与えてくれるのは『バヴィシャ・マハー・プラーナ』である。1世紀の中頃にカシミールの王がイエスと会ったという。

 サカ人の王がヒマラヤにやってきたとき、白い長いローブを着た黄金の体の威厳ある人を見た。驚きながら王はたずねた。「おまえはだれだ?」。威厳のある人物は楽しそうに答えた。「神の子(Isha Putram)として知るがいい。あるいは処女から生まれし者(Kumarigarbhasangbhawam)として。真実と苦難が与えられた私は、ムレッチャ(外国人)に法(ダルマ)を教えた。おお、国王よ。私ははるか遠くからやってきた。そこに真実はなく、悪は限界を知らない。私はムレッチャの国にイシャ・マシハ(救世主イエス)として現れた。そして彼らの手の中で苦しんだ。私は彼らに言った。「すべての心の、体の不浄さを取り除きなさい。われらの神の名を覚えなさい。神のことを瞑想しなさい。神の住まわれる場所は太陽の中心である」

 サカとはスキタイのことであり、ペルシア系の民族の国である。インドにも版図を広げたことにより、現在もその影響が残っている。サカ暦という暦は、現在もインドで使われているのだ。上述のイエス伝説が残っているのは、サカ国内にキリスト教信者が増えていたことを反映しているのかもしれない。イエスが来たことを証明することはほとんど不可能だが、キリスト教が早い時期に到来していたことの証しを見いだすことはできそうだ。