イエスの旅 

 イスラム教から見たイエスにわれわれはハッとさせられることがある。中世ペルシアのミールハンドが著した歴史書『純粋庭園』(Rauzat-us-Safa 1497)に描かれるイエスは、「旅するイエス」なのだ。

 

 イエスはメシアと呼ばれた。というのも彼は偉大なる旅行者だからだ。彼は羊毛のターバンを頭に巻き、羊毛の上着を身にまとい、手には杖を持っていた。彼はいつも国から国へ、町から町へとさまよった。夜が来ればそのいる場所に泊まった。彼は森の野草を食べ、森の湧水を飲み、どこへでも徒歩で行った。

あるときイエスの友人たちは、彼のために馬を買って贈った。イエスは一日馬に乗ってみたけれど、馬に食べさせることができなかったので、馬を返却した。彼は故郷を出て旅をつづけ、千キロ離れたナシバインに着いた。数人の弟子たちを連れていたが、イエスは彼らを町に送って布教活動をさせた。しかし町ではイエスと彼の母親に関する悪い噂が広まっていた。町の知事はそれゆえ弟子たちを逮捕し、それからイエスを召還した。イエスは奇跡を使って人を治し、その他さまざまな奇跡を見せた。ナシバインの王はそれゆえ軍隊や市民といっしょにイエスの信者になった。

 

 アフマドはイエスがナシバイン(ナシブス、現在のヌサイビン)に来ていることに注目している。ナシバインはイラクのモースルから西へ80キロほどのところにあるトルコのシリア国境上の町である。エルサレムからだと720キロも離れているのだ。重要な点は、ナシバインは中東とペルシア、アフガニスタンを経由してインドへ向かう交易ルートの拠点であることだ。イエスはこの宿場町に布教するためにやってきたのではなく、すくなくともアフガニスタンをめざしたであろうとアフマドは推理した。

 なぜアフガニスタンなのか? アフガン人は(後述のカシミール人同様)失われたイスラエル十部族の末裔だからだという。磔刑をのがれたイエスは、後半生を離散したイスラエル人探しに費やした。あえて推測に推測を重ねると、イエス自身はキリスト教徒ではなく(キリスト教が生まれるのはイエスの死後、あるいは磔刑の後)ユダヤ教の改革者をめざしていたのであり、各地に散らばったユダヤ人に布教するということは、民族のアイデンティティーを高めるとともに、信者獲得に役立つと考えられたのかもしれない。

 アフガニスタンにはイサ・ケルとう部族があり、彼らはイエスの末裔だという。もっとも、それではイエスが現地の女性との間に子供を作ったのか、ということになってしまう……。

 アフガニスタンの主体民族はパシュトゥン人であり、彼らの話すパシュトー語は東部イラン語に属すので、ヘブライ語との直接的なつながりはない。もしイスラエル十部族の末裔がアフガニスタンへ移住したとするなら、パシュトン人のなかに溶け込んだか、少数民族として生き抜こうとしたか、どちらかだろう。

 


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