蝶は自由に飛べる
スティーブン・デーヴィス 宮本神酒男訳
イントロダクション
耳元で甘い自由がささやく
おまえは蝶だ
蝶は自由に飛べるのだ
飛べ、高く、高く、バイバイ
「今夜だれかがぼくの命を救った」(邦題は「僕を救ったプリマドンナ」)音楽:エルトン・ジョン 詞:バーニー・トーピン
ジョージは問題をかかえていた。
それをうまく隠してはいたが、ジョージは基本的に幸せではなかった。十分に満たされていないと彼は感じていた。彼の人生は活気がなく、退屈きわまりなかった。彼は自分の仕事を憎んでいた。しかも不景気のあおりを受けてすぐにでもクビになりそうだった。妻との関係は冷え切っていた。子どもたちと交流することもなくなっていた。働き、食べ、テレビを見て、寝るだけの人生だった。友人といえる友人の数は片手の指で足りた。いかなることもじっさいに変えることはできなかった。どんなことでもいままでよりよくすることはできなかった。
けれども現時点で、そういったことがジョージの最大の問題点ではなかった。気がかりでならなかったのは、眠っているあいだに歩くことだった。
ある晩眠りながら歩いているとき、ジョージはとても深い穴に落っこちた。目が覚めたとき、彼は自分がパジャマ姿で穴の底に横たわっていること、そして穴の中には自分以外何もないことがわかった。彼は顔を上げ、暁(あかつき)の空を見た。上方には陽光の完璧な円形があり、いくつかの葉のない枝がかかっていた。季節は春のはじめ、大気はまだ冷たかった。だれの姿も見えなかったが、いくつかのかすかな声が聞こえた。
とにかく穴から抜け出さなければならないことを彼は重々承知していた。しかし穴の壁は垂直で、すべりやすく、高かった。壁を登るために使えそうなものはいっさいなかった。それでもなんとか登ろうとしたが、すぐに穴の底にずり落ちた。フラストレーションはたまるいっぽうだった。彼は叫んで助けを求めはじめた。
突如として穴の上に男の顔があらわれ、ジョージのほうをじっと見た。
「いったい何があったのだ?」男はたずねた。
「おお、神よ、ありがとう」ジョージは叫んだ。「ここに落っこちて、出ることができないんだ」
「なるほど、そうか。助けてあげたいですね」と男は言った。「で、あなたのお名前は?」
「ジョージだ」
「姓は?」
「ジマーマンだ」
「n はひとつですか? それともふたつ?」
「ふたつ」
「すぐもどってきますよ」
男の顔が消えたとき、ジョージは名前のスペルがそんなに重要なのだろうかといぶかしく思った。しばらくすると男がもどってきた。
「今日はついているみたいですね、ジョージ! 私は億万長者なのです。それに私、今朝はとても気前がいいのです」
彼は手に一枚の紙片をもっていて、それを放った。それはゆっくりと舞いながら穴の中を落ちてきた。ジョージはそれを手に取ると、もう一度見上げた。男の顔はなかった。
ジョージは紙片をじっと見た。それは千ドルの小切手だった。小切手には彼の名が記されていた。
「いったい何なんだ? 穴の底でどうやってこの小切手を使うというのだ?」と彼はひとりごとを言った。彼はそれを折りたたんでパジャマのポケットに入れた。
しばらくすると別の声が聞こえてきた。
「どうか助けてください!」ジョージは穴の最上部に向かって声を限りに叫んだ。
二番目の男の顔があらわれた。やさしくて、気づかいをしてくれそうな顔だ。
「わたしに何をすることができるだろうか、息子よ」
男が穴の端から下をのぞいたとき、聖職者の襟のカラーが見えた。
「この穴から抜け出したいんです、神父さま」
「息子よ」その声はやわらかく、愛情がこもっていた。「5分後には教会でミサをとりおこなわないといけない。わたしはそれを中止することはできないのだ。そうだ、今日は特別にあなたのために祈りをささげよう」そして彼はポケットに手をやった。「これがあなたを助けるであろう」そう言って彼は一冊の本を穴の中に落とし、去っていった。
ジョージは聖書を手に取り、熱心に読み始めた。穴から脱出するために役立つヒントはないだろうかと考えたのである。しかし彼は何も見つけ出すことができず、結局聖書をわきに放り投げた。
つぎにあらわれたのは女性だった。ジョージの苦境を理解したとき、彼女は有機栽培の野菜とビタミンやハーブのサプリを投げ入れた。
「これだけを食べてください」と彼女は言った。
ジョージは聖書の表紙の上にそれらを山積みに置いた。
つぎに医者があらわれ、その週に支給されるはずの医薬品サンプルを寄付した。
そして弁護士が通りかかり、しばらく穴のまわりにフェンスを設置しなかった市の行政にたいする訴訟について話をした。彼は名刺を投下した。
つぎにあらわれた政治家は、ジョージが穴から出られると仮定し、明日の選挙でジョージが彼に一票を入れてくれるなら、夢遊病者を保護する法案を通すと約束した。
この頃までに、ジョージは寒さにふるえながら、穴の底にすわった。だれかが彼を救ってくれるかもしれないという希望はほとんど捨てかけていた。彼は孤独と無力、そしてわずかながら恐怖を感じた。彼はサプリの山をかきわけて、有機栽培のバナナを取り出すと、すこしだけかじった。
「わたしならあなたを助けることができますよ」
強く、確信的な、力のこもった女性の声が聞こえた。はっきりはしないがが、その声に聞き覚えがあるように思われた。テレビかどこかで彼女を見たことがあるような……。
「あなたはネガティブな思考のすべてを放つ必要があります。視覚化することを学び、それから引き寄せの法則を使うのです」
「でも私はそれをやっていたんですよ。だれかを引き寄せてこの穴から抜け出せるようにがんばったのです」とジョージは言い張った。
「それはやりかたがまちがっていたのでしょう」という答えがかえってきた。
彼女が穴に落としたのは薄くて四角い何かであった。それはジョージの足元に落ちた。
ジョージは見上げて大きな声で叫んだ。「でも……ちょっと待ってください!」そこにはだれもいなかった。
彼は収縮ラップに包まれたDVDを拾い上げ、そのカバーをじっと見た。そこには「アブラハム・マスター・コースの教えDVDプログラム」と書かれていた。
「すくなくともポータブルDVDプレーヤーを投げ入れるべきだった」と彼はとくにだれに向かってでもなく、静かに言った。
つぎに禅の老師があらわれ、穴の端に蓮華座の姿勢ですわると、ジョージに瞑想のしかたを教えたがった。
「ほかになにもなく」と老師は言った。「もし十分に長く修行をするなら、穴の中にいても気持ちよくすごすことができるでしょう。いくつかの人生を経るうちに、空中浮揚だってできるようになるかもしれませんよ」
ジョージは声を聞いたとき、あきらめてずっとこの穴にいつづけることになりそうだと覚悟した。
「もう1メートルばかり移動することはできませんか」
ジョージは見上げて言った。「なんですって?」
「穴の中心からすこしだけ移動してもらえないでしょうか」
ジョージは立ち上がり、2、3歩ずれた。「どうしてですか」と彼が聞こうとしたとき、男が飛び降りてきてジョージの足元に着地した。
「どうかしちゃったんですか?」
男が立ち上がり、砂埃を払い落したとき、ジョージは叫ぶように聞いた。
「この穴にわれわれふたりがいます。なぜロープや梯子を投げ入れてくれなかったのですか?」
男はジョージをじっと見てしずかに言った。「それらはなんの役にも立たないからね」
「どうしてそう思われるのですか?」ジョージは信じられないといった表情を浮かべて言った。
「私はここに来たことがあるからね。出口も知っているのだ」
私はあなたが助けを求めていると推測している。でなければこの本を読んでいないだろうからだ。あなたの人生のなかで何かがまちがっている、そしてあなたはそれを変えたいと思っている。
だから私はあなたの穴に飛び込もうとしている。しかしだれかを助けたいという欲望をもっているからでも、義務を感じているからでもない。ほかのだれかを助けるというのは、だれもがひっかかってしまいがちな最大の罠である。
私はまたあなたの、あるいはほかのだれかの教師、グルや指導者、コーチ、何かの、あるいはすべての答えを知っているかのようにふるまうだれかになりたいとは思わない。
もしあなたが望むなら、私を西部開拓時代の幌馬車隊のスカウト(偵察隊)と考えてもいい。スカウトの仕事は、先駆けてロッキー山脈を越え、太平洋へと通ずる、あとから来る人々にとっては自然の驚異からも、インディアンからも安全で無事な道を探すことである。
私は唯一のスカウトではない。そしてすでに太平洋にたどりついたなどと主張するつもりもない。しかしこのルートをたどるということにかけては唯一の存在である。このルートはもっとも効果的であり、話すためにもどるのに十分安全である。
旅において私は危険な地域を開拓し、たくさんの道がほかの人にとってどうかといった情報を集めた。そういった情報の受け渡しが私がこの本を著すおもな理由である。たくさんの人がいることを私は知っている。少なくとも一部の人は私が行く道を、あるいは私が行った道をたどりたいと考えている。あなたはそんな人々のひとりにちがいない。
あなたは私をスカウトとして雇ったのだ、それを意識するにしろしないにしろ。しかしあなたがこの情報についてどう考えるか、またどう使おうとするかについては、私にとってどうでもいいことは知っておいてもらいたい。あなたはそれを手に取ることができるし、捨てることもできる。私の唯一の仕事、そして喜びは、私が見つけたことをあなたに報告することである。
私はあなたの穴に飛び込もうとしている。それは楽しみであり、この瞬間、宇宙が私のために貯めているものと同調しているように思えるのだ。
しかしながらあなたは私に穴の中に入ってきてほしくないかもしれない。もしあなたがこの本を読み続けたら、後戻りできない地点に到達するだろう。比喩を変えるなら、エベレストに登るようなものである。この旅は肉体的にも、精神的にも困難である。それに時間もかかるだろう。
すでに述べたように、私はまだ頂上に到達していない。しかしそれは視界のなかにある。十分な高みに私は達している。評価、喜び、平安、存在の平静は期待以上である。確信をもって知っていること、またほかのスカウトから証人の目撃証拠として確認されたことは、頂上に着くというのは骨を折る価値があることということである。
この道を進む、進まないはあなたの自由である。あともどりできない地点まで来たかどうかは、私から知らせることになるだろう。
一方で、この穴からずっと出ないとあなたは決心するかもしれない。もしそうなら、この本を読み進める必要はない。ここにとどまることは、何も悪いことではないのだ。十分なお金と健康によいオーガニック食品、本、DVD、薬、こういったものに囲まれて楽しめばいい。
それはあなたの選択である。