GW・カーヴァー伝  

奴隷から科学者になった男 

ジャネット&ジェフ 宮本訳 


 07 よくいる学生 

「ミスター・カーヴァー、明日の朝、いっしょに来てもらえってお父さんに言われました。ぼくのうちに寄って、いっしょに行ってもらえますか」

 ジョージは希望あふれるヘンリーの目を見下ろした。ヘンリーは農学の教授、ヘンリー・ウォレスの六歳の息子だ。彼は少年を見てほほえんだ。「もちろん、そうしますよ。きみといっしょに行けるなんてすばらしいことだね」と彼はいった。「スカーフを巻くのを忘れないように。首を暖かくしないといけないからね。それと標本を入れたバッグを持ってくるように」

 少年は真剣な面持ちでうなずき、「はい、わかりました」とこたえた。「お父さんは古いバッグをくれました。明日まで待ちきれません」

 ジョージはヘンリーの髪をくしゃくしゃになるまで撫でた。「さあ、おうちに帰りなさい。床にモップがけをしないといけないんでね」

 ヘンリーは廊下をはじけるように走って行った。ジョージは向きを変え、ぶつぶつ言いながら床の上をリズミカルにサッサっとモップがけした。授業料の支払いの足しになるようアルバイトで用務員の仕事をしていたのである。

 翌朝田舎道の散歩につきあってくれたたヘンリー・ウォレスは、ジョージがエイムスに着いてから一か月の間にできた新しい友人のひとりだった。リストン夫人の訪問のあと、中傷するような言葉がジョージに浴びせかけられることはなくなった。徐々に教職員も学生たちも彼のことを認知するようになった。結果として、自分を世の中に合わせていくよりも、社会的な義務を負うことのほうが多くなった。彼はウェールズ折衷主義協会の会員に推薦された。このグループは戯曲や弁論術を含む興味深い分野を開拓していた。またドイツ人クラブや討論クラブに参加した。州兵やYMCAにも参加した。毛色の変わったことと言えば、ジョージはアメフト・チームの二人の選手に足のマッサージを提供した。すぐに彼が痙攣した筋肉、疲労した筋肉をうまく通常に戻すコツを得ているという評判が立った。その結果フットボール・コーチはジョージをチーム・トレーナーに指名した。ジョージはトレーナーとしても収入を得るようになった。

 ジョージはまたふたりの教授、農学部の学部長ジェームズ・ウィルソンとヘンリー・ウォレス卿と親交を結んだ。

 ジェームズ・ウィルソンはアメリカの農民の生活を改善する試みのため教師職に就くことを目的にアイオワに戻ったのだが、その前は連邦議会の議員だった。学部長は聖書学者でもあったので、彼とジョージは定期的にいっしょに聖書研究をおこなった。

 学部長ウィルソンはジョージが絵画好きであることに気づき、彼の絵を実際に見て、芸術を研究することを勧めた。このような才能があるのに、それを生かさないのは罪なことだと言った。ジョージはミス・バッドとの会話を思い出していた。彼女は農業を研究するために絵をあきらめるよう促したのである。いま、学部長ウィルソンは真逆のことを示唆していた。ジョージは画家でいるより、農業技術を教えるほうが人々の役に立っているんですよ、と説得しようとした。ウィルソン学部長は二度とジョージに芸術研究を進めることはなかった。

 ウォレス教授はとくに土壌に興味があった。そしてこの興味をジョージにしみ込ませようとしていた。農民のためだけでなく、国全体のためにも、良質の、肥沃な土壌は重要だった。ウォレス教授の好きな言葉のひとつは「表土がつづくかぎり、国家は長くつづく」だった。ジョージは残りの人生においてこの言葉を忘れることはなかった。表土なくして、農民にとって、そして国のほかのだれにとっても繁栄はなかった。ジョージは土壌を肥沃に保つあらゆる方法について学び始めた。

 土壌を分析するのは科学の新しい分野だった。その分野は五十年前のドイツの科学者ユストゥス・フォン・リービッヒ男爵によって切り開かれた。フォン・リービッヒは土壌を分析し、それに含まれる炭酸カリウム、硫黄、リン酸、石灰、ナトリウムの量を計る方法を発見した。彼はまた植物が土壌からこれらをどうやって分離するか示した。これらは土壌を弱めるのである。ユストゥス・フォン・リービッヒは人工肥料によってこれらの元素を土壌に戻し、ふたたび肥沃にする方法も編み出した。アメリカの科学者はフォン・リービッヒの画期的な方法が、農民がよりよい穀物を生み出すのをいかに助けるか、ようやく理解できるようになっていた。実際、南北戦争のあとまで、アメリカでは農業が本当の科学だとはみなされなかったのである。政府が米国農務省を発足させたのはまさにこのときだった。連邦会議は農業問題を調べる実験局を創設する法案を通過させた。アイオワ州立大学は農業と科学の両分野に関して国家をリードした。

 ジョージが興味を持ったもう一つの分野は、より強い、より多くの果実が結ばれる、より旱魃や病気に強い新種の植物の異種交配だった。ジョージはカーヴァー農場にいたときから、森の中の小さな畑で植物を集め、「ミックス」しようとしていた。いま、彼は専門的にどうやって植物のハイブリッドを作るか学んでいるのだ。修道僧であり科学者でもあったグレゴール・メンデルはオーストリアでこの科学の新分野を発展させていた。ジョージがアイオワ州立大学にやってくる七年前に、メンデルは修道院の庭でさまざまな種類の豆を交配させる実験をおこなっていた。この研究アプローチから衝撃的な結果が得られていた。メンデルは1865年の「ハイブリッド植物の実験」という題の小論文に彼の研究を要約していた。世界中で確認のフィルターを通し、研究結果が得られるまで15年を要した。そして1892年までに、アイオワ州立大学を含む多くの大学機関でこの論文は研究された。

 ジョージは、メンデルのような忙しい司祭がたっぷりとある時間のなかで、庭をぶらぶらしながら、成功するまでつぎからつぎへと技術を試してみる姿を評価した。それは長年自身の植物で試してきた実験とおなじだった。

 ジョージが気がついたときには、クリスマスがすぐそばまでやってきていた。彼はインディアノーラ行きの列車に乗り、リストン夫妻と楽しい一週間を過ごした。そこにいる間、彼はまたエッタ・バッドの冬休みの絵画クラスに参加した。カンザス西部を歩き回った日々を思い起こしながら、サボテンなどそのあたりにあるものをあえて描いてみた。こういったことが好きでたまらなかったが、まもなく始まる後期の準備のためにアイオワ州立大学へ戻らなければならなかった。

 ジョージはこうして一年目をまっとうした。植物学や園芸学では3・9から4・0の高評価を得て、数学や歴史などそれほど好きでない科目はまずまずの3・0だった。

 ジョージの友人の多くはクリスマス休暇中に彼が描いた絵画に大きな感動を受けていた。彼らはジョージに110マイル(180キロ)離れたシーダー・ラピッズで開催されるアイオワ芸術エグジビションにエントリーするようすすめた。ジョージは彼らに甘い夢にふけるほどのお金は持っていないといった。しかし仲間の学生たちが自分たちの手でいろいろと進めていることを彼は知らなかった・

 ドアがノックされたとき、ジョージは鉢植えの植物に水をやっているところだった。ドアを開けると、五人のクラスメイトがにやにや笑いながら立っていた。

「ぼくたちといっしょに来てくれ」植物学クラスの学生がいった。「見せたいものがあるんだ」

「え、何だい」ジョージはたずねた。

「たぶん気に入ってもらえると思う。だけど今言えないんだ。とにかくいっしょに来て」

 若者らはジョージの乱雑な部屋の中へ押し入り、かれの両腕をつかんだ。そして両側から、足が床から離れるほど持ち上げて、ホールへエスコートし、玄関の扉から出て、道路を進んで町に出た。ジョージはどこに行こうとしているのかまったくわからなかった。しかし学生らは彼を連れていきながら笑ったりジョークを飛ばしたりした。とにかく身に危険が及ぶことがないのはわかっていた。

 若者たちは野菜市場や男性用服飾品店を通って、最後にテーラーショップの前に着いた。彼らは立ち止まり、中に入った。ジョージはつぎに何が起こるのだろうと考えながら、立って待った。整然と並んだハンガーにかかったすばらしいウールのスーツを見ながら少し自意識過剰になった。彼はすり切れたズボンをはき、手製のシャツを着ていたのだ。

「おやおや、若者がおいでだね」彼らが店に入ってくると、テーラーはそういった。彼は巻き尺を手に取り、ジョージのほうへ歩み寄った。「腕をあげてください」と彼は指図した。

 スーツを新調するために巻き尺ではかろうとしていることに、かれははじめて気がついた。「あのう、ぼくはお金を持っていないので……」彼は泡を飛ばしながらしゃべった。

 植物学のクラスの学生は大声で笑った。「ジョージ、お金なんて必要ないさ。心配しなくて大丈夫だ」

 ジョージは体を計測されている間、学生の言葉の意味を吟味しながらおとなしく立っていた。いままで仕立屋が仕立てたスーツを着たことがなかった。なぜ学生たちは自分のために新しいスーツを買おうとしているのだろうかと、いぶかしく思った 。

 仕立屋が計測し終えたとき、学生のひとりがジョージに封筒を渡した。表にはこう書いてあった。「J・ウィルソンよりジョージ・カーヴァーへ」

 ジョージは注意深く封筒を開けた。なかにはシーダー・ラピッズ行きの列車の往復チケットが入っていた。彼はアイオワ州芸術エグジビジョンへ行く途中なのだ、新しいスーツを着て!

「いやこれは申し訳ないよ」学生たちの親切と気前良さに感動しながら、彼は口ごもった。

「止めることはできないよ!」学生のひとりがからかうように言った。

 ジョージの新しいスーツはダークグレイで、ジャケットの前にボタンが三つついていた。それは彼の体にぴったりで、誇りを持ってシーダー・ラピッズへ行くことができた。じつは彼の代表作四枚がすでにアイオワ州芸術エグジビションに運ばれていた。その四つのタイトルは「ユッカ(糸ラン)」「バラ」「花々と花瓶」「シャクヤク」だった。これら4枚の作品すべてが翌年前半に開催されたシカゴ万国博覧会にノミネートされた。彼自身は博覧会に行っていないが、「ユッカ」は佳作に選ばれている。

 ジョージは受賞したことをたいへん誇りに思った。しかし何よりも望んだのは植物研究であり、農業技術の研究だった。ある日、彼が学んでいることすべてが役に立って、国中の貧しい農民を救えるのではないかという希望を持っていたからである。

「ぼくたちといっしょに来てくれ」植物学クラスの学生がいった。「見せたいものがあるんだ」

「え、何だい」ジョージはたずねた。

「たぶん気に入ってもらえると思う。だけど今言えないんだ。とにかくいっしょに来て」

 若者らはジョージの乱雑な部屋の中へ押し入り、かれの両腕をつかんだ。そして両側から、足が床から離れるほど持ち上げて、ホールへエスコートし、玄関の扉から出て、道路を進んで町に出た。ジョージはどこに行こうとしているのかまったくわからなかった。しかし学生らは彼を連れていきながら笑ったりジョークを飛ばしたりした。とにかく身に危険が及ぶことがないのはわかっていた。

 若者たちは野菜市場や男性用服飾品店を通って、最後にテーラーショップの前に着いた。彼らは立ち止まり、中に入った。ジョージはつぎに何が起こるのだろうと考えながら、立って待った。整然と並んだハンガーにかかったすばらしいウールのスーツを見ながら少し自意識過剰になった。彼はすり切れたズボンをはき、手製のシャツを着ていたのだ。

「おやおや、若者がおいでだね」彼らが店に入ってくると、テーラーはそういった。彼は巻き尺を手に取り、ジョージのほうへ歩み寄った。「腕をあげてください」と彼は指図した。

 スーツを新調するために巻き尺ではかろうとしていることに、かれははじめて気がついた。「あのう、ぼくはお金を持っていないので……」彼は泡を飛ばしながらしゃべった。

 植物学のクラスの学生は大声で笑った。「ジョージ、お金なんて必要ないさ。心配しなくて大丈夫だ」

 ジョージは体を計測されている間、学生の言葉の意味を吟味しながらおとなしく立っていた。いままで仕立屋が仕立てたスーツを着たことがなかった。なぜ学生たちは自分のために新しいスーツを買おうとしているのだろうかと、いぶかしく思った。

 仕立屋が計測し終えたとき、学生のひとりがジョージに封筒を渡した。表にはこう書いてあった。「J・ウィルソンよりジョージ・カーヴァーへ」

 ジョージは注意深く封筒を開けた。なかにはシーダー・ラピッズ行きの列車の往復チケットが入っていた。彼はアイオワ州芸術エグジビジョンへ行く途中なのだ、新しいスーツを着て! 

「いやこれは申し訳ないよ」学生たちの親切と気前良さに感動しながら、彼は口ごもった。

「止めることはできないよ!」学生のひとりがからかうように言った。

 ジョージの新しいスーツはダークグレイで、ジャケットの前にボタンが三つついていた。それは彼の体にぴったりで、誇りを持ってシーダー・ラピッズへ行くことができた。じつは彼の代表作四枚がすでにアイオワ州芸術エグジビションに運ばれていた。その四つのタイトルは「ユッカ(糸ラン)」「バラ」「花々と花瓶」「シャクヤク」だった。これら4枚の作品すべてが翌年前半に開催されたシカゴ万国博覧会にノミネートされた。彼自身は博覧会に行っていないが、「ユッカ」は佳作に選ばれている。

 ジョージは受賞したことをたいへん誇りに思った。しかし何よりも望んだのは植物研究であり、農業技術の研究だった。ある日、彼が学んでいることすべてが役に立って、国中の貧しい農民を救えるのではないかという希望を持っていたからである。

   1893年、ジョージはスーザン・カーヴァーおばさんが亡くなったという悲しい知らせを受け取った。ジョージは心の底から嘆き悲しみ、彼女の死を悼んだ。スーザン・カーヴァーは実用的な技をじつにたくさん教えてくれた。生みの母親ではないとはいえ、彼が知るこの世の唯一の母親だった。彼はすぐにモーゼスおじさんに悲しみを慰める手紙をしたためた。

 カレッジの生活はつづいた。そしてジョージの人気は高まりつづけた。ジョージはウィスコンシン州の国家学生夏季学校(ナショナル・スチューデンツ・サマー・スクール)におけるアイオワ州立大学を代表する代議員に選ばれた。はじめ一部の代議員は、この南部の州の集会において、黒人の学生が混じるべきではないとは考えなかった。ウィリス・ウェザーフォードという名の若者がいた。彼はとくにジョージに対して粗暴な態度を取った。ジョージはしかし気にせずに自分の仕事をした。

 いつものようにジョージはショルダー・ストラップ(肩ひも)がついた、蓋がはねあげ式の筒状の容器を持ってきていた。彼は容器に標本を保存したのである。毎朝夜明け前、彼は外に出て、まわりの田舎風景のなかで標本を集めた。すぐにサマー・スクールの多くの学生たちが彼といっしょに行きたがるようになった。彼らはジョージが古代の地形や小さな虫に注意を向けて説明するのを注意深く聞いた。サマー・スクールが終わる頃にはウィリス・ウェザーフォードのような偏見の強い南部人以外は、驚くべき自然の知識を持ったジョージの話を喜んで聞くようになった。ジョージは当時気づかなかったが、彼の道とウィリス・ウェザーフォードの道は将来ふたたび交わる運命にあった。

 ジョージにとってエイムスでの時間はあっという間に過ぎていった。1894年の春、科学の学士を持って彼は卒業しようとしていた。彼はアイオワ州立大学を卒業した最初の黒人となった。いま、仲間の学生たちは彼の肌の色に気づくこともない。彼らにとってジョージはもうひとりの学生にすぎなかった。彼らはそのように彼を受け入れたのだ。

 卒業式の日は、ジョージ・カーヴァーの多才さを見せるいい機会であったことはいうまでもないけれど、彼の人生の中でももっとも輝かしい日の一つとなった。セレモニーにしても、そのあとの晩餐会にしても、ジョージの手助けを借りないものはなかったかのようである。彼はホールのデコレーションも監督した。壁を伝う蔓や花々も彼が飾ったのである。クラスの桂冠詩人として彼は卒業の詩をつくり、詠んだ。

 リストン夫人はジョージが学位を授与されるところにちょうど間に合った。彼女は巨大な赤いカーネーションを持ってきた。これはシンプソン大学の芸術クラスからの贈り物だった。

 卒業式が終わると、ジョージがつぎに何をするのかだれもが知りたがった。彼の人生においてはじめてたくさんの選択肢があった。おそらくアメリカの黒人のだれよりも。すべての選択肢が彼にアピールしているかのようだった。ボストン音楽学校で研究をすることもできた。奨学金も授与されるというのである。彼は軍人としてのキャリアを歩むこともできた。というのも彼は昇進して州兵のキャプテン、すなわち学生として可能な限りもっとも高いランクに就いていたのだ。彼はまたシカゴ芸術アカデミーの研究過程を取るという選択も考えた。しかしジョージは選択について考えれば考えるほど、農業に集中すべきだと確信するようになった。

 卒業式のすぐあとにジョージはアシスタント・ステーション・ボタニスト(農業観測所植物学教授補佐)としてアイオワ州立大学の教師とならないかという打診があった。彼にとっては願ってもない地位だった。教えながら研究をして修士号を取ることができるのだから。

 エイムスにいる間にジョージが植物に関して驚くべき能力を持っているという噂が広がった。アイオワ州の園芸学協会の会長がジョージに休暇の間、リンゴやプラム、梨、桃を含むさまざまなフルーツの交配の研究をすることはできないかと問われた。ミズーリ州ネオショーで学問を追求するようになって以来はじめて彼は生活費稼ぎのために洗濯したり、料理を作ったり、床を掃除したりしてする必要がなくなったのである。彼は一日中、毎日、好きなことをすることができるようになったのである。

 アイオワ州立大学の植物学部の学部長ルイス・パメル博士がジョージの新しい上司となった。パメル博士は調査をするのが大好きで、『毒性植物のマニュアル』というタイトルの本を書いていた。この本の評価は高く、パメル博士が二冊の新しい著作のプロジェクトを手助けするよう頼まれたときは、ジョージはうれしくてたまらなかった。彼らはいっしょに『アイオワ州エイムスにおける斑点病と真菌病を防ぐためのアカスグリとチェリーの扱い方』を著した。タイトルは衝撃的なものではなかった。しかし作物のチェリーが斑点病や真菌病にやられた地元の農家からすれば、これらの本の中にある情報によって、売れる作物があるかないかの違いとなってあらわれる。

 これらの二冊の本を書いている間、ジョージは菌類学に興味を持つようになっていた。マッシュルームや唐傘キノコ(毒キノコ)、かび、うどん粉病菌などの真菌の研究に力を入れるようになったのである。ジョージは2万種以上の菌類を発見し、識別するほどに、マッシュルームやその他の真菌のコレクションを充実させた。パメル博士を除けば、アメリカでジョージ・カーヴァー以上に菌類学に詳しい人物はいなくなった。

 ジョージはアイオワ州立大学で懸命に研究をつづけ、記録的な速さで修士号を取った。そして1896年10月に卒業した。卒業することによってアイオワ州エイムスのける彼の時間は幕を閉じた。ジョージの人生における新しい章がまさに始まろうとしていた。



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