G・W・カーヴァー伝
奴隷から科学者になった男
ジャネット&ジェフ 宮本訳
14 反応に勇気づけられて
1921年1月21日の朝、ジョージ・カーヴァーは下院議会歳入委員会のヒアリング室の外側のイスに静かに坐っていた。ジョージの前を通り過ぎた数人の人が彼をじっと見た。疑いなく、委員会の前で、宣誓証人するために黒人が待っているのを見て驚いたのである。
予定より一時間遅れてようやくジョージは委員会に呼ばれた。彼はサンプルがぎっしり詰まった巨大なスーツケース――彼はパンドラの箱と呼んだ――を持ち上げ、なんとか部屋の中に入った。入るとき、部屋の後方に坐っている人々の間にクスクス笑いが漏れるのが聞こえた。
ジョージは自らにほくそ笑んだ。彼は外の人間には自分が印象的でないことを知っていた。腰が曲がっていて、髪はすべて白髪、三十年前にアイオワ州エイムスで友人たちからもらったスーツをいまだに来ていた。スーツは清潔で、アイロンをかけたばかりだったが、肘には肘当てを縫い付け、いくつかの裂け目は修繕していた。彼はまた議事堂の階段の横の蒸気孔に生えていた草を襟首に挿していた。しかし見かけに関してはジョージはそれほど気にしていなかった。なぜなら委員会のメンバーが南部の農民たちにとってのピーナッツの重要性を理解したなら、彼らが外国のピーナッツに関税をかけるに一票を投じるであろうことを知っていたからである。
ジョージは豪勢な羽目板の部屋の前に立ち、紹介されるのを待っていた。議長で代表者のジョゼフ・フォードニーはジョージに向かってうなずいた。「委員会はジョージ・カーヴァー教授をお呼びしています」彼はそう高らかに宣言すると、ジョージのほうを見て言った。「大丈夫ですよ、ミスター・カーヴァー、十分間差し上げます」
議長の声は平坦で抑揚がなかった。ジョージはこのパワフルな白人たちに確信を持たせ、耳を傾けさせ、心変わりをしてもらわねばならないことを承知していた。スーツケースをイスの上にのせ、彼は言った。「議長どの、わたしはピーナッツ生産者共同連合からピーナッツの潜在能力について話すよう頼まれています」
彼は話しながら、スーツケースから瓶や箱を取り出して、桜材のテーブルの前の部分に並べた。彼はピーナッツ粉の瓶をかかげて言った。「この砕いたピーナッツの塊はあらゆる組み合わせに仕えます。穀物粉、食事、朝食用に使えるのです」
ジョージが不安を感じ始めるまでそれほど時間がかからなかった。委員会の何人かの下院議員は彼が話すことに注意を払っていた。ジョージは自分の好きなトピックについて話すことにした。つまりピーナッツとスイートポテトの関係、その二つがいっしょに出されたときいかに完璧な食事になるか、といったことである。「スイートポテトからわれわれは澱粉や炭水化物を、ピーナッツから筋肉増強特性を取り出します」
ジョージは話すのをとめて、息を吸った。そのときコネティカット州選出の下院議員ジョン・ティルソンが妨害してきた。「きみにスイカは必要かね。スイカに従えばうまくいくだろうよ」
部屋は沈黙に包まれた。ジョージは神経を集中した。下院議員は故意に彼を侮辱したのである。スイカはしばしば白人に使われる言葉で、貧しい文字が読めない元奴隷を表していた。彼らは人生を改善するにはどうしたらいいのかわからない人々だった。ジョージはもう一度深呼吸して、話をつづけた。歳入委員会の前でのミッションは、粗暴な下院議員ひとりによって妨害されるには、あまりにも重要だった。そかしジョージは侮辱を受けたことに対し、返答する必要があると感じた。
「ええ、まあ、あなたにはスイカは必要ないでしょう。もちろんもしあなたがデザートが欲しいのなら、とてもおいしいものが食べられますよ。でもデザートなしでもうまくやっていけるものです。最近の戦争がそのことを教えてくれましたね」。委員会は笑いに包まれた。そして実際ジョージは手元のトピックに戻ることができた。「ここにはオリジナルの塩味ピーナッツがあります……」こうして彼は話をつづけた。
ジョージは引き続き人々に、キャンディから鳩のエサ、あるいはキニーネを模した薬品まで、驚くべきピーナッツの産品を並べた。十分後のタイムアップまで、下院議員ティルソンを含む部屋にいた全員がジョージの話すことに真剣に耳を傾けていた。
「ミスター・カーヴァー、あなたにもっとお時間を差し上げましょう」委員会の議長はそう宣言した。
「そうですよ」ほかの下院議員も同意した。「ほんとうに興味深い。この人の持ち時間は延長されるべきだ」
実際、時間は延長された。ジョージは1時間45分の間、ピーナッツに関することを委員会のメンバーに実演してみせた。もう誰からも邪魔されることはなかった。話が終わったとき、委員会全員が拍手喝采した。通常のヒアリングでこういうことが起きたのははじめてだった。タスキーギの魔術師は彼らの好奇心を捉え、イマジネーションを駆り立てたのである。委員会の議長ジョゼフ・フォードニーはほほえみながらジョージのほうを向いた。「先生、あなたが取り扱っているテーマを実現しようとしていることに、賛辞を贈らせていただきたい」と彼は言った。
ジョージはサンプルを片付けてスーツケースの中にしまいこみ、スピーチを聞いてくれたことに対し委員会に謝意を表した。そして彼のミッションについての報告を待つタスキーギへ戻った。彼は長く待つ必要はなかった。その週が終わる前に歳入委員会はアジア産のピーナッツに関税――殻付きピーナッツには、1ポンドあたり3セント、殻無しピーナッツには、1ポンドあたり4セント――を課す決定を下したのである。
ジョージの勝利のニュースはまたたく間に南部中に広がった。黒人がワシントンDCで十分に役目を果たすことができるだろうかと疑義をはさんでいた人たちも、祝意を表した手紙をタスキーギに送った。あきらかに、と彼らは書いた。ジョージ・カーヴァーのような人間こそが、肌の色のバリアを越え、黒人、白人を問わず、教育を受けた者であろうとなかろうと、みなから尊敬を受けることができるのである。
アメリカの首都での成功によって、ジョージはさらに世間の目にさらされることになった。いまや彼は全米の有名人だった。1923年、NAACP(全米黒人地位向上協会)はジョージに名誉あるスピンガーン・メダルを授与した。このメダルは黒人のためにもっとも役立った人物に毎年贈られるものである。過去にこのメダルをもらった人の中には、女性の権利を主張した有名な女性メアリー・タルバートや第一次世界大戦中のもっとも地位が高い黒人官吏チャールズ・ヤング大佐、天才的な作曲家、アレンジャーのハリー・バーリーなどが含まれていた。
ジョージは受賞をとても名誉なことだと思った。贈呈者はカンザス州の司法長官だった。どんなメダルであったとしてもジョージは喜んだであろうが、NAACPから贈られるスピンガーン・メダルであっただけに、喜びはひとしおだった。タスキーギ大学の教職員はNAACPとかならずしも良好な関係を築いていなかったが、ジョージはメダルを彼とブッカー・T・ワシントンの考えを支持してきた者たちへの善意のシンボルとみなした。
下院議会の委員会での成功とともに、メダルが授与されたことによって、ジョージの前の扉はさらに開かれた。第一次大戦中、CIC(人種間協力委員会)という新しい組織が誕生した。その目的は、黒人と白人に、互いに相手の言うことに耳を貸すように鼓舞することだった。同じ時期にYMCA(キリスト教青年会)は南部において人種の平等性を鼓舞する方法を模索していた。この二つの団体は、彼らのゴールを実現するために手を結べると考えた。CICは黒人を教育していた。黒人は喜んで彼らの懸念していることについて話し合いたかった。YMCAは南部中の何千人もの白人の学生と接することができた。学生たちは人種平等についてもっと学びたかった。
CIC指導部はすぐに、すべての白人学生グループと対話をするのにジョージ・カーヴァーほどの適任がいないことを理解した。ジョージは人の話を興味を持って聞き、つねに礼儀正しく、それでいて同時にチャレンジ精神を持っていた。ジョージはノースカロライナのブルーリッジで行われたYMCA・CIC共同サマーキャンプで、基調スピーカーの大役を喜んで引き受けた。
皮肉なことに、ジョージはキャンプの指導官ウィリス・ウェザーフォードを知っていることに気がついた。ふたりは三十年前の1893年、ウィスコンシン州レイク・ジェニーバの全国学生サマースクールで会っていた。ウィリスはジョージと会って少し当惑してしまった。というのも当時彼は声の大きな若者で、サマースクールで黒人が学生代表をつとめることに不満をこぼしたのだった。いま彼の考え方はまったく変わっていた。彼はすぐにジョージに過去の粗暴なふるまいについて謝罪した。
いかしながら変わらないものもあった。依然として白人と黒人を同じ宿泊施設に泊めることはできなかった。ジョージは学生たちから離れた心地よいキャビンがあてがわれた。彼はこのことに過度には気にかけなかった。彼は自分の存在がそのようなルールを壊すきっかけとなるのではないかと信じていたからだ。
ジョージはキャンプで若者に負けないよう自分の典型的なスタイルを貫いた。彼は人種関係についてはいっさい語らなかった。かわりに、まわりにある創造の驚異を学生たちが理解するよう助けることに神経を集中した。もちろん人々が彼の話すことを聞いている間、この情報を分け与えているのが黒人の教授であることを彼らに気づいてほしかった。彼はいつも若者に外に出てもらい、自然を学んでほしかった。彼は若者たちに言った。「「自然およびさまざまな異なるかたちは小さな窓のようなもの。この窓を通って神はわたしに神と対話をすることを許容する。またカーテンを開けて、神の栄光、荘厳さ、力を見る。そして中を覗き込む。
学生たちはジョージの講演に強い感銘を受けた。彼らの一部はあとで握手をするためにステージに押し寄せたほどだった。彼はこれを成功のしるしと受け取った。握手は尊敬の象徴と考えられていたが、黒人が握手を求められるのははじめてのことだった。
初日にジョージとの握手を求めた学生のひとりはジム・ハードウィックだった。ジムはYMCAのメンバーになるべくトレーニングをしていたアスリート学生だった。ジョージは聴衆のなかにいるジムに気づいていた。ジムはジムが話すことすべてを注意深く聞いていた。ジョージとジムはすぐに互いに好きになった。ジョージはジムを「彼の少年たち」に加えた。これはタスキーギ大学の課程を修了した百人ほどの若者たちにジョージがつけた名前である。この若者たちは彼の授業で学んだことがあり、バイブル研究教室に通い、卒業後も老教師と手紙やときおりの大学訪問で接触を持ち続けた者たちである。彼らの大半はすでに結婚していて、生まれてきた男の子はジョージにちなんで名づけられることが数えきれないくらい多かった。ジム・ハードウィックは面倒を見ることを申し出た最初の白人の少年だった。ジムは申し出をこの上なく喜んだ。ふたりの友情は長くつづいた。ジムは手紙をかかさず出し、ときおりジョージに会うためタスキーギにやってきた。
もうひとりのキャンプの若者が父親の反対を振り切ってタスキーギ大学のジョージを訪ねていたが、家族から縁を切られてしまった。ジョージはそれを聞いて悲しくなった。人種問題の改善はあまりにもゆっくりで、一歩進んでも、何かが起こるとまた後退してしまうのである。
ジョージがYMCAのキャンプから戻ってすぐ、もうひとつの事件がまさに足元で起こり、彼はそれを無視することができなかった。事件はタスキーギにあらたに建てられた第一次大戦の黒人退役軍人のための病院と関係があった。病院が立てられることになったのは、黒人と白人の退役軍人をひとつの病院に収容するのがむつかしかったからである。しかしこのやり方は多くの黒人を怒らせてしまった。つまり、黒人と白人が横に並んで戦うのがいいことなら、横に並んで病院で回復につとめるのもいいことではないのか、というわけである。それにもかかわらず退役軍人病院がタスキーギに建てられてしまった。工期が完了したとき、だれを配置するかについて大きな論争が起きることになった。NAACPやほかの黒人組織はウォレン・G・ハーディング大統領に対して病院の医師や看護師に黒人を雇うようロビー活動を行った。なぜなら患者全員が黒人だからである。しかしながらタスキーギ周辺の多くの白人はなお黒人に力を与えるのを恐れ、病院の医師や看護師は白人がやるべきだと強く主張した。そして最後に政府はひとつの例外を除いて白人が病院にはいちされるべきだと宣言した。この「例外」が油に火を注ぐことになった。
アラバマ州法は白人の看護師が黒人の患者に触るのを禁止していた。だから白人の看護師が病院に配置されても、黒人の召使が雇われて白人看護師の助手をつとめねばならなかった。つまり実際に看護活動を行うのは召使だった。その間白人看護師は命令を下し、あとは坐って無駄口をたたくだけでよかった。もちろん白人看護師たちはいい給料をもらい、黒人の召使は身を粉にして働くのに雀の涙ほどの給金しかもらえないのだ。
タスキーギは大騒ぎになった。ブッカー・T・ワシントンの後継者、タスキーギ大学の総長ロバート・モートンとNAACPはハーディング大統領にルールを変更するよう圧力をかけた。最終的に大統領は同意し、1923年7月、タスキーギ退役軍人病院の最初の黒人管理者が任命された。
このできごとがニュースとして世に出ると、即座にKKK(クー・クラックス・クラン)は、病院にプロとして地位を得た者はリンチにされるだろうと宣言した。この宣言はアラバマ州の黒人コミュニティを激怒させた。そしてすぐにクー・クラックス・クランの新しい病院の管理人に対する脅しに抗議するため、デモ行進を組織し、タスキーギの病院前に結集した。
この二つのグループの争いの火ぶたが切られると、ジョージは立場的にも大いに困ったことになってしまった。ジョージはこのような人種間の争いが嫌いだったし、戦っている両側に友人がいたからだ。実際、白人の友人の中には状況が落ち着くまでアトランタに滞在することを勧める人もいた。しかしジョージはここにとどまり、正義のために戦う決心をした。もしそれが尊敬を得るために苦労してきた人々と反対の立場を取ることを意味するとしても。
デモ行進の日、不安はかぎりなく高くなった。何か悪いことが進行しているにしても、黒人は白人の裁判で正義を望むべくもなかった。病院で、敷地の境界線に沿って彼らは並び、肩を寄せ合い、ゴスペルを歌った。ほどなくフードをかぶったKKKのメンバーたちが丘の上から降りてきた。彼らは敷地の境界線から1フィート(30センチ)内に入ってきて大声でののしったり、集まっている群衆に脅しの言葉を投げかけたりしたが、境界を越えて病院内に足を踏み入れることはなかった。長いにらみ合いのあと、クー・クラックス・クランは引き上げた。ジョージは安堵のため息をついた。一滴の血も流れなかった。しかし新しい管理人は病院のたった一人の黒人幹部でいたくなかった。彼は生命の危険を感じ、逃げ出した。
闘争は長くなり、もう一年続いたが、最終的にタスキーギの退役軍人病院は黒人職員の病院になった。黒人の召使がすべてをやるのではなく、よく訓練された看護師がおこなうのである。彼らの給料は労働に応じた適正なものだった。
ジョージはタスキーギのにらみ合いの一部であったことを喜んだ。もし時間と努力によって彼らの意見が変わったなら、彼ら白人に道を譲ってもいいと考えていた。しかし黒人が搾取されているのを見たら、彼は我慢することができなかった。
その年の夏、ジョージはブルーリッジに招待された。そこには多くのYMCAの学生たちがいて、彼の話を熱心に聞きたがっていた。学生のひとり、ハワード・ケスターは彼と2ダース(24人)の若者とともにコテージをシェアすることを提案した。ジョージは喜んでその提案を受け入れた。バリアがもう一つなくなったのである。キャンプでの一週間は、朝四時から夜中まで彼は忙しかった。アシスタントが数百人の少年たちとのアポイントメントを調整してくれた。彼らはひとりあたり15分の時間をもらい、年を取った植物学の教授と面会することができた。ジョージは学生たちの反応に勇気づけられることになった。
ジム・ハードウィックは多くの学生とともにふたたびキャンプにいた。学生たちはジョージの「少年たち」のひとりである名誉を欲していた。タスキーギに戻ってから数日後、ジョージは40人ほどのキャンプにいた少年たちから手紙を受け取った。もちろん彼は個人的にそれぞれに対して返事を出した。彼の努力の甲斐あって、国中の白人のみの大学から講演依頼があった。彼はできうるかぎりたくさんの招待状を期待していた。
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