G・W・カーヴァー伝
奴隷から科学者になった男
ジャネット&ジェフ 宮本訳
15 もっとも影響力のある科学者
ジョージはデスクの前に坐っていた。とめどなく涙が流れていた。目の前にはシンプソン大学から届いた手紙があった。彼が最初に通った大学であり、ミス・バッドのもと絵画を学び、とても幸せな時間を過ごした場所だった。とてつもなく昔のことのようだが、実際、37年前になるのだろうか。ジョージは64歳だった。シンプソン大学からのいかなる手紙も歓迎したが、この手紙はほんとうにうれしかった。大学は彼に名誉博士号を授与する決定を下したと発表したのである。
いまジョージは自由に博士という称号を使うことができるのだ。ずいぶん昔から学生たちは彼の名前に博士をつけて呼んでいた。実際そうでないのに博士と呼ばれるのは落ち着かないことだった。しかしいま大手を振って博士として歩けるのだ。
ジョージは学位をもらいにシンプソン大学に戻ることに興奮していた。しかし大学へ行く予定の三日前、彼は近道をするために牧場の中を横切っていた。この牧場には一匹の牛がいたが、見ただけで機嫌が悪いのがわかった。牛が突っかかってきた。ジョージは必死にもっとも近い柵をめざして全速力で走った。柵までまだ距離を残した地点で彼は牛に追いつかれ、角で足を突かれた。命を落とすような大ケガではなかった。しかし名誉博士号を受け取りに出かけるのを取りやめる理由には十分になった。タスキーギの人々の中には牛によって負ったケガによって、ジョージは早朝に田園の中を歩いく習慣をやめるだろうと考える者もいた。しかしジョージは二週間後には夜明け前の霧の中の散歩に戻ってきた。彼はさらなる研究のために植物や虫などのサンプルを集め、ラボに持ち込んだ。
二年後の1931年、ジョージはさらなる名誉を受け取った。今度はトム・ヒューストン・カンパニーが委託して作らせた二つの彼自身のブロンズの胸像だった。この会社はピーナッツ製品の製造会社だった。胸像の一つはジョージア州コロンバスの本社に飾られた。もう一つはタスキーギ大学に寄贈された。
会社のスポークスマンであるボブ・バリーはタスキーギへ行ってブロンズの胸像の除幕式をおこなった。多くの若い黒人男女の渇望した表情を見まわしながら彼は言った。「ここにじつにたくさんの若い黒人男女が集まっています。(ジョージ・カーヴァーは)あなたがたを助けてきました。でもありのままの彼のことをどれだけご存じでしょうか。もしあなたが山の横に住んでいて、毎日見ているなら、高い山だとは思わないでしょう。でもめったにその山を見ない人にとってはとても高いのです」。言うまでもなくバリーが語っているのは、ジョージが大学の寄宿舎に住んでいて、学生たちとカフェテリアで素朴な食事をとっているけど、世界的な有名人だということだった。
ジョージの名声はとくに1930年代のアメリカの大恐慌のあと、高まるばかりだった。大恐慌(Great Depression)と名付けられたのは、多くの人が職を失い、農場を失い、貯蓄を失い、みな絶望した(depressed)からだった。大恐慌の引き金となったのは1929年11月の市場の大暴落だった。それはすぐに国中の大騒乱へとつながった。1932年までに労働力の4分の1が、つまり千五百万人以上の人が仕事を失った。職を失わなかった人も、給料が半分にカットされた。同様に何百もの銀行が破産し、農産品の価格が南北戦争後最低レベルまで下落した。
突然政府は小作農家が自給自足できるよう助ける方法を探し始めた。そうすることで彼らの家族はこの経済的にむつかしい時代に飢えから逃れることができるのだ。多くの人がジョージ・カーヴァーを探してどうすればいいかアドバイスをもらおうとした。すぐにジョージは会報を発行し、食べられる草や家禽の育て方について教えた。彼はまた昔の会報を何千コピーも再発行し、行く先々で配った。
この頃にはジョージは68歳になり、好きなだけたくさんの人のところへ現場でアドバイスをするために小旅行に出かけるということができなくなった。それでもなお彼のアドバイスを求める手紙が山のように積もった。一日に五十通もの手紙が来たが、彼自身がそれを開き、中を読んだ。ほとんどの手紙が絶望した農民からで、育てるにはどの作物がベストか、どこで、どのようにすれば安い種を入手することができるか、といったものだった。
ときおりはるかに遠くから手紙が来ることがあった。ソビエト連邦政府から公式の手紙が来たことがあった。ジョージを国に招待し、農業システムの改善を手伝ってほしいというものだった。ハワイのパイナップル農家から手紙が来たことがあった。彼らの悩みは作物を食い荒らす蟻の害だった。栽培農家は彼がハワイに来て、蟻を駆除してくれるなら、旅費のすべてを払おうという申し出だった。
大恐慌とともにやってきた、ジョージが取り組んだもう一つの問題があった。それはあまりよくわかっていない、症状の重い病気、ポリオだった。一般的に言われるように、人がどうやってポリオにかかるのか、またどうやって治すのか、わかっていなかった。病気にかかるのは、おもに子供だった。それはインフルエンザのような症状ではじまり、すぐに悪化して患者の首や背中、足が耐えられないほど痛くなり、硬化した。子供がポリオから運よく回復したとしても、足に障害が残った。運の悪い子供は全身に永久的に麻痺が残るか、死亡した。多くはないが、おとなもこの病気にかかることがあった。親の多くは病気の子供のための治療法もわからず絶望していた。ジョージも、ほかの何百人もの専門家とともに、さまざまな治療法を実験で導き出そうとしていた。1932年12月31日、いくつもの全国紙にあるトップ・ストーリーが掲載された。それはアラバマ州タスキーギの黒人化学者が十代のポリオ患者の萎えた足にピーナッツ・オイルを塗りこんだというものだった。少年の足は強くなり、そのあとふたたび歩くことさえできるようになった。
これは事実だったが、ストーリーの黒人化学者、すなわちジョージはけっしてピーナッツ・オイルだけがポリオに効くとは主張していなかった。彼は上手のマッサージ師でもあったので、マッサージとオイルのコンビネーションがポリオ患者の回復に役立ったのではないかと彼は推測した。残念なことに、この事実は絶望的な読者のなかで失われてしまった。ジョージも殺到する手紙の中で対処しきれなくなっていた。一月、二千通の手紙や電報、電話などを整理するのがやっとだった。患者たち自身がカーヴァー博士に治療してもらおうとタスキーギに押しかけてきた。ジョージは全力を尽くして若い患者の手足をマッサージし、両親にどうしたらいいかアドバイスを与えた。多くの場合、子供たちの症状は改善した。それがピーナッツ・オイルやマッサージのおかげなのか、時間の経過によるものなのか、それらすべてのコンビネーションによるのかわからなかった。なおも人々は押しかけてきた。ついにアメリカ政府は、タスキーギ大学にポリオによって足が萎えた子供たちを治療するためのクリニックを開くよう16万1250ドルの補助金を出すことにした。医師の監督のもとジョージはクリニックでマッサージをつづけた。
1935年フレドリック・パターソンはタスキーギ大学の新しい総長に任命された。彼が最初に取り組むべき課題は、この経済的に困難な時代に大学の財政を持ち直す道を探ることだった。フレドリック・パターソンはジョージ・カーヴァーのような誠実で有名な教授が広報と募金のための機会を提供しているのだ。彼はジョージにもっと各地をまわり、講演の仕事をこなすよう勇気づけた。フレデリック・パターソンは一般教育委員会(General Board of Education)にも近づき、ジョージのために資金を提供できないかとたずねた。しかしそれ以前にあきらかになりつつあることがあった。それはジョージが71歳になり、健康状態がいままでのようによくはないことだった。
資金はボード(一般教育委員会)から捻出された。そしてオースティン・カーティス・ジュニアがジョージの付き添い兼ヘルパーになった。オースティンは若い黒人化学者で、カーネル大学を卒業し、ノースカロライナ農業工科大学で教えていた。ふたりの関係は当初からうまくいき、ジョージは巡回のプラン立てから、ぬかるみから低価格のペイントを作る実験の手伝いまで、すべてをオースティンに頼ることを学んだ。
翌年1936年はジョージにとってエキサイティングな年だった。まずメトロ・ゴールドウィン・マイヤーが彼の人生についての映画「カーヴァー博士の物語」を制作して上映したのである。映画は即座に成功を収めた。というのも、大恐慌はまだつづいていたからだ。アメリカ人は強い決意と努力で貧困から自力で立ち上がることができると信じる必要があった。ジョージのような、病気がちで孤児の奴隷の子供から始まる人物が映画の主人公にぴったりだった。彼にできるのであれば、大恐慌が終わったとき、彼らもまた困難な状況から登りつめることができるはずだと勇気づけられたのである。
1936年の二番目にエキサイティングなできごとは、ジョージのタスキーギ大学到着四十周記念だった。そんなに長くいることがジョージには信じられなかった。ジョージの名誉のために大学で大きな祝典が開かれた。世界中から数えきれないほどの祝意の手紙が届いた。ジョージにとってとくに意味のある手紙はヘンリー・A・ウォレスからのものだった。ヘンリーは彼がアイオワ州立大学に通っている頃、早朝の散歩のお供を許した小さな少年だった。ヘンリー・ウォレスはおとなになり、いまはフランクリン・D・ルーズベルト大統領のもとで農務長官を務めていた。ヘンリー・ウォレスは書いている。「あなたの人間の性質の信仰、あなたのまわりによいものを見る能力、刺激を必要としている才能に直接手を貸す能力、これらはまさにあなたのライフワークの基礎でしょう」
タイム誌やライフ誌のほかさまざまな新聞やラジオ局のレポーターたちがイベントを取材するためにタスキーギにやってきた。だれもがジョージの生涯について知りたがった。どうやって教育を受けることができたのか。彼自身の家族はあるのか。なぜ彼はタスキーギにやってきたのか。ブッカー・T・ワシントンについて何を覚えているのか。こうした質問のすべてがジョージに考えを与えた。そしてそれを彼はタスキーギ大学の総長と分かち合った。ジョージは博物館を作りたかった。人がジョージについて知りたかったら、答えがここにあるような博物館を。ジョージの人生だけでなく、活用できる情報を学びながら、農民がどうしたら生活を改善することができるか、といったことを博物館は展示するのである。それはジョージが四十年間説いてきたテーマと同一だった。
フレデリック・パターソンは博物館づくりのアイデアを熱狂的に支持し、博物館を建てるなら古いタスキーギ大学のランドリーの小屋の跡地が完璧だと考えた。ジョージにとってもそれ以上の場所はなかった。結局彼は他人の洗濯物を洗いながら、小学校、高校、大学の教育にかかる費用を払ってきたのである。彼はすぐに新しい建物のインテリアのデザインの仕事に取りかかった。
新しい博物館のデザインに取り組んでいる間は、ジョージは極力講演依頼を受けないようにした。講演というのは準備に時間を要するものであり、終わったあと極度に疲労困憊させるものだった。ジム・クロウ法のせいでもあった。南部ではまだまだそれが力を持っていたのである。黒人と白人は、宿泊所でも、公共交通機関であっても、「分かれているが、平等である」。しかしそれは理論にすぎなかった。現実は、白人はつねにいい場所を取り、黒人は劣悪な状況で争わなければならなかった。ジョージはこうしたことに影響を受けていた。列車のなかでも安全に寝ることができなかった。白人のパトロンたちは寝台車を予約することができたが、黒人は硬い木のベンチの上で背筋を伸ばしたまま眠らなければならなかった。72歳のジョージはこのような状況では眠ることができなかった。彼は旅行するのに何度も自家用車を利用した。それでも念入りに計画を立てる必要があった。なぜなら途中で黒人が食事できる場所や利用できるトイレがあるかどうか確認しなければならなかったのだ。
ジョージはミシガン州ディアボーン(ヘンリー・フォードが生まれた町)で開かれた農産化学会議に出席するために多大な努力を要した。農産化学というのは、1930年代のニューサイエンスとして喧伝されていた。実際、それはジョージが専門家としての生涯の大半をかけて取り組んできたジャンルだった。農産化学は農民のためにいかに科学を取り入れるかという研究だった。アメリカでもっとも富裕な、もっとも有名な発明家であるヘンリー・フォードはとりわけこのテーマに興味を持っていた。彼は多くのトップの農業科学者や産業研究者を集めて、農業をいかに科学的にするか論じさせ、農産品を自動車の生産に活用する方法を見つけさせようとした。
ディアボーンの会議で過ごした時間は、ジョージの生涯でもっとも満ち足りた体験だった。彼は人々が自己紹介するのを聞くのが好きだと冗談交じりに言った。彼自身についていままで知らなかった何かを学ぶいい機会だった。
冗談は置いても、ジョージはついに自分のメッセージが広がり始めているのはうれしかった。科学的なアドバイスに耳を傾けさえすれば、すべての農民は自分たちのために改善することができるはずである。しかしジョージはたんに人の考えを聞くために会議に来たわけではなかった。彼は会議でのメインの講演者のひとりだった。いつものように彼はもっとも人気のある講演者だった。なぜならだれもが理解できるように話すことができたからである。
ヘンリー・フォードはジョージのレクチャーに出席した。彼は強く感銘を受けたので、その夜、ディアボーン・インへ行き、ジョージを訪ねた。ジョージはドアを開けてひどく驚いた。雨の中、中に招かれるのを待って立っているのが世界でもっとも影響力のある人物だったからだ。ふたりは一時間たっぷりと話をした。話題はスイートポテト・ゴムから、トウモロコシから燃料を作るやり方まで、さまざまだった。ヘンリー・フォードが立ち上がって部屋を去るまでにふたりは友人になっていた。彼らは互いの才能と能力に敬意を表した。
その月の後半に大手新聞がヘンリー・フォードにインタビューした。彼は20世紀でもっとも影響力のある科学者はだれかと聞かれて、つぎのように答えている。「トマス・エジソン、ルーサー・バーバンク、ジョン・バロウズ、それにジョージ・カーヴァーだね」
ヘンリー・フォードはジョージア州ウェイズに農園を持っていた。冬になると彼はそこで過ごしたのである。彼はそこにジョージとアシスタントを招待したことがあった。ジョージは喜んで招待を受けた。ディアボーンの会議で彼とヘンリーはふたりがいっしょに取り組めそうなアイデアの表面をひっかきはじめていた。ジョージはヘンリー・フォードに彼が定期的に手紙を書いている人々のリストを見せた。冬の間にもう一度集まることを考えていたのである。
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