ネオ・ドルイディズム宣言 

ドルイドの書  ロス・ニコルス 宮本神酒男訳 

この300年間のドルイド総長 

 

 過去のドルイドの総長(選ばれし長)のリストを以下に掲げたい。(最新のフィリップ・カー=ゴムは訳者が付け加えたもの)

 

ジョン・トーランド(17171722)哲学者、自由思想家 

ウィリアム・ステュークリー(17221765)医師、古物収集家 

エドワード・フィンチ・ハットン(17651771) 

デイヴィッド・サムウェル(17711799) 

ウィリアム・ブレイク(17991827)詩人、銅版画家。『ミルトン』など 

ゴドフリー・ハギンス(18271833) 

ウィリアム・カーペンター(18331874) 

エドワード・ヴォーガン・ケネアリー(18741880) 

ジェラルド・マッシー(18801906)詩人、エジプト学者 

ジョン・バリー・オカラガン(19061909) 

ジョージ・ワトソン・マクグレガー=リード(19091946) 

ロバート・A・F・マクグレガー=リード(19461964) 

フリップ・ピーター・ロス・ニコルス(19641975) 

ジョン・ブラント(19751988) 

フィリップ・カー=ゴム(1988− ) 

 

ジョン・トーランド 

 論争の余地のある人物ジョン・トーランドからはじめよう。*『大日本帝国の興亡』『アドルフ・ヒトラー』などで知られる歴史家のジョン・トーランドは同名異人。

トーランドは1670年に生まれ、1717年から1722年の間の選ばれし長(総長)であり、ヤヌス・ユニウス・エオガネシウス(彼が生まれたEnis Eogain半島のラテン語読み)だった。彼はまたブリットー・バタヴス(Britto-batavus)であり、パトリコーラ(Patricola)でもあった。一般には唯物主義の哲学者とみなされていた。より正確にはのちに実証哲学(positivism)と呼ばれることになる哲学を作り出した。彼はまた汎神論者とみなされていた。そのことから彼が神をさまざまな姿で見ていたことがわかる。

 トーランドはロンドンデリに生まれ、そこで教育を受け、グラスゴーで学び(1687年)、3年後にエディンバラに移り(16901699)一般教養の学士を取得した。1688年から翌年にかけては、スコットランド教会の暴力的な迫害のもとにあったグラスゴーにいた。それからしばらくは定住しない時期がつづいた。はじめはイングランド、それからライデンに2年、そしてオックスフォードに戻ってきた。

 1696年からトーランドはロンドンで『秘儀なきキリスト教』(邦訳は
2011年刊)を書き始めた。彼は順繰りにオランダでカトリック、プロテスタント、広教派(ラティテュディナリアン)、そしてソシニアン(ソッツィーニ支持者)、理神論者となった。それからジョルダーノ・ブルーノの影響を受けて、唯物論者に落ち着いたのである。

 彼は「すべてのものは物質(マテリア)である」と考え、力本説、すなわち「すべては動作である」として、あらゆるものが自然を基本としていることを説明しようとした。彼が考える理性とは、真の第一の法則だった。ロックとは異なり、そこに欠点を認めず、人間の理性は絶対的だと考えた。(ロックは注意深く健全な理性を仮定した)理性は人間のなかの神性の光であり、革新的なものである。しかしながら彼はふたつのレベルの教えを信じた。ひとつは大衆のためのものであり、もうひとつは完全な清廉潔白さと慎重さを持った人のための個人部屋の奥に隠された秘密だった。

 そして彼がパルメニデスを引用して示したのはダブルスタンダードだった。つぎの理性になるのは自由、それはすなわち自然の法則のことだった。宇宙は本質的に知性であり動きだった。知性は基本的に物質的である。物質というのは彼にとって組織的な物質である。この点において彼の考え方は他の哲学者と異なっていた。観念であろうと、生物学的であろうと、物事の「種子」が本質だった。すべては組織なのである。これがドルイドの教えの概念となった。知識の種子は、人の心に根源を持つ本質的な生きた概念であり、重要な役割をはたしていた。

 『秘儀なきキリスト教』は雷のごとく彼の頭に正統派の考え方が轟いたものだった。彼がアイルランドに移動したのは1697年のことだったが、その年は絞首刑執行人が彼の本を焼いた年だった。彼はこうしてロックと肩を並べるソシニアン(ソッツィーニ支持者)となった。トーランドは徹底的に無分別だった。そして宗教的な問題がそれに加わったとき、彼は退任して国外に出た。ジャコバイトであふれるようになっていたスコットランドとアイルランドに彼の居場所はなく、

 矛先をかわすように彼は1711年にロンドンに移り、彼と理想をともにするグループを集めることに奔走した。大衆の前では、実際報酬を得ていたわけだが、彼はホイッグ党一派のための公証人だった。彼は1717年に『グレート・ブリテンの分析』を出版するが、おなじ年、教皇の未来について予言した『アーマーの聖マラキの予言』も出している。その予言は正確であり、また教皇制度の終焉にも言及していた。また、ハイモス山の森(グローブ)をオックスフォードのオーブリーに再建した後、彼は10のセンターから成る現代ドルイド教団を設立した。そのうちのいくつかは国外のケルトの地にあり、それらは母なる森(グローブ)である
Antich Geata Gairdearchasに結集された。

 その後彼はパトニーにしばらく住んでいたようだ。3年後、彼は『パンテイスティコン』を出版し、冷笑を浴びた。しかしそれは彼が知っていること、すでに発見したものの想像力豊かな描写だった。それは講義、応答、哲学規範祷(リタニア)といった形で示された。それはソクラテスの時代の社会における自然宗教について書いていた。選ばれた者は真実の蔵である。トーランドは述べている。

「いくつかの場所で、少なからぬ汎神論者(パンテイスト)がいる。彼らは私的に集まり、そこで饗宴を開く。そこでのやりとりを哲学に高めるのだ」

 それらはやはり1717年に創設されたフリーメイソンのロッジと同一ではないが、よく似ていた。トーランドはボルテールとはまったく異なり、形而上学に儀礼的な基礎を置く哲学の一派のようなものからはじめた。そしてそれが大衆に拡大されるようになると、終了した。実際彼は謎を作ったのである。

 これは現代のドルイド教のはじまりだった。多くの教派や哲学がはじまり、互いに混乱し誤解することもあった。共通のメンバーもいた。だれがどれに属している、などと言うのは困難だった。どれかに属しているからといって、彼がこれに属していないと決めつけることはできなかった。トーランドは多作家だった。彼は100以上の著作をものにしているのだ。1718年の『ナザレヌス』、1720年の『テトラディムス』のほか、『クリドフォロス』や『ヒュパティア』『マンゴネウテス』などを著した。トーランドはオリジナルのクリスチャンとして登場した。キリストや使徒の教えに教会が付加したものが嫌いだったのだ。

「私は厳粛に閣下に申したい」と彼はロンドン司教に手紙を書いた。その内容はロンドン司教を通じてほかのすべての英国国教会の司教にも伝えられた。「イエス・キリストと使徒によって教えられた宗教は、口伝の伝統か教会会議で決定されたものしかありません。それは純粋で明白なものであり、役に立ち、啓蒙的なものです。等しくだれにも理解できるもののはずです」

 唯物主義の哲学者にはそれほど多くの余地は残されていない。自ら書いた墓碑銘に彼は、「魂は天にまします神とひとつになり、身体は永遠の生へと昇華する」と記し、「しかしおなじトーランドではけっしてない」と加えている。

 彼の著書『ドルイドの歴史』の「質問と答え」を構成するモールスワース卿あての3通の手紙が正確にいつ書かれたかははっきりしない。それらが出版されたのは、彼の死の4年後の1726年である。

 この本のなかでトーランドはドルイドとハイパーボリアンについてとても詳しく調べている。彼はハイパーボリアをヘブリディーズ諸島のなかのルイス島と考えていた。カラニッシュ・ストーン(巨石)をはじめとする島の風景を彼は抒情詩的に美しく描いている。彼はまたそれらをピタゴラスとも関連づけ、ローマ人よりも信用のおける初期のギリシア人、とくにマッサリア(マルセイユ)のピュテアスにも言及している。有名な「エラトステネスの両翼寺院」はスカイ島ではないかと彼は考えていた。それ(スカイ)は翼の生えた島(skianach)という意味だからだ。

 ロンドンデリ出身のトーランドはゲール文化の正確な知識を持っていたが、加えてウェールズ語の知識も擁していた。彼は言語に堪能だったのである。彼はじつに多くのグレート・ブリテンのモニュメントについて詳細に記している。トーランドを読むと、彼の現代的で常識にとらわれないアプローチに驚いてしまう。カラニッシュのような巨石サイトの彼の描写はすばらしいものである。宗教について論じるとき以外は、彼は純粋に観察者に徹し、彼自身の考えで事実を覆い隠そうとはしない。彼の古代ドルイド観は、現代のわれわれの感覚とほぼおなじなのである。もちろん当時はまだ考古学はさほど発達していなかったわけだが。


(つづく)