古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
12 青牛と髯奴
(1)
魏晋南北朝の頃、呪術を信じる者たちは、青牛やひげもじゃの下僕に強い興味を持っていた。彼らは青牛とひげの奴(やっこ)、すなわち髯奴(ぜんど)を特殊な霊的な組み合わせと考えていた。この組み合わせが鬼を制御し、邪を避ける神秘的なパワーを持っていると信じたのである。青牛とひげやっこを擁していれば、魑魅魍魎は門から入ってきて祟りを起こすということはなかった。髯奴に青牛を牽かせて道を開けば、魑魅魍魎は自ら退避三舎(争いを避けること)した。
晋代の神怪小説のなかで、小説家は鬼怪の口を通じて当時の人の青牛ひげやっこの見方を語っている。『雑語』に言う、宗泰が青州刺史を担当していた期間、『無鬼論』を著し、有鬼説に反駁した。正確で緻密な考えを持ち、屈することなく、淫祀を禁じ、風俗習慣を変えないように命じた。その影響は近隣の各州にまで及んだ。
のちに鬼が書生に変じて宗泰を訪ねた。ふたりは人情や物の道理について心置きなく話し合い、意気投合した。しだいに話題は鬼神のことに移っていった。書生は鬼が存在することを証明しようとして、しだいに言葉がとげとげしくなった。宗泰は言い返すことがだんだんできなくなった。このとき書生は立ち上がって言った。「閣下は青州におられる頃、あまたの祭祀儀礼をおやめになった。われらは二十数年もの間、食べることができなかった。以前あなたは青牛やひげやっこを有しておられた。われらはあなたに抵抗することができなかった。しかしいま青牛は死に、ひげやっこはどこかへ逃げ去った。あなたに本当のことを教えるいい機会がやってきたのだ」。そう話すと声も姿も消えてしまった。翌日、病気にかかったわけでもないのに宗泰は死んでしまった。
陶淵明選『続捜神記』(旧題)には青牛と髯奴(ひげやっこ)の威力が描かれている。この書の中で、西晋安豊候王戎(竹林七賢の一人)が若かった頃、友人の家族の葬送に参列した。葬送儀礼がまだ始まらないので、彼はしばらく馬車の中で休んでいた。このときぼんやり空を見ていると、異物があることに気づいた。はじめは鳥が飛んでいるのだと思ったが、それはしだいに大きくなり、ついに赤い馬車となった。馬車の中には頭巾をかぶり、赤い衣を着て、手には鋭い斧を持った人がいた。この人はいきなり王戎の車の中に入ってくると言った。
「王君は清らかで爽快であり、万物を洞察する能力を持っている。ひとかどの人物と見える。いまあなたに約束いたそう。忘れてはならぬぞ。近親でもなければ、葬送にあわてて参列することはない。できるならば青い牛車に乗り、もじゃもじゃのひげの下僕に車を御させるがいい。さっそうと白馬に乗るのもいい。それらは災難を避けてくれるからな」。
家族が遺体を入棺すると、待っていた弔問客がどやどやと門から入ってきた。すると赤い衣を着た鬼もまた人込みにまぎれて庭に入り、手に鋭い斧を持ったまま棺の上に立った。ある人が棺の前で死者と決別したとき、赤い衣を着た鬼は斧でその額をかち割った。その人は声をあげ、その場に倒れた。群衆が入り乱れているとき、鬼は棺の上で、にやつきながら王戎を見ていた。「おれはなんだってできるんだぜ」と言いたげだった。
これらの怪異小説は一種の共同思想を表現している。すなわち呪術活動においては、青牛と髯奴(ひげやっこ)は不可分なるコンビである。それらはいっしょになることで、鬼を駆除し、邪を避けることができるのである。牛と奴を組み合わせたのは、晋人の独創かもしれない。ともかく青牛と髯奴(ひげやっこ)が巫術の霊的なものおと考えられたのは晋代が最初である。秦や漢、あるいはそれ以前に、神秘的な意識は形成されていた。ただまだ牛と奴(やっこ)は結合されていなかったのである。
青牛は鬼を鎮める霊物として用いられてきた。青牛が凶暴だが戦いを得意とする特性と関係がありそうである。梁(南梁)人劉孝威は『辟厭青牛画讃』を書いている。「辟厭」とは辟鬼厭邪(鬼を避け、邪悪を厭う)という意味である。題目からわかるが、この一篇は「青牛鎮鬼図」を称賛する文章である。
劉孝威の讃文のなかにも「気嘘風噴、精回(迥)電流」「狡力難京、肆怒横行」「雄児楷式、悍士規模」などの語句が並ぶが、どれも青牛の狂暴さと勇猛さを表している。それゆえ「辟厭」の能力を持っている。劉は何を「辟厭」するかは述べていない。銭鐘書(1910-1998)はこの点に関し、劉氏に批判的に「文章の心遣いがおろそかだ」と述べる。子細に分析すると、この「おろそか」な原因はほかにあるかもしれない。おそらく劉氏からすると、青牛の勇猛さを賛美するなかで「辟厭」のことは含まれているので、あえて言葉を加えることはないと考えたのだろう。
(2)
晋代以前、神化した青牛伝説が社会に流布していた。こうした神話伝説によって青牛の制鬼法術が形成され、空気と土壌に合致するようになった。「青牛制鬼法術」の伝播によって反対に青牛崇拝の発展に拍車がかかった。関連した神話は大衆が受け売れるのをたやすくした。
秦漢から六朝の頃、「青牛制鬼法術」と密接な関係にある以下の少なくとも四つの神話伝説があった。
<蚩尤神話>
蚩尤(しゆう)は兵器の発明者とみなされる。伝承によると蚩尤には八十一人の兄弟がいて、みな「獣身人語(姿は獣だが、言葉を話す)で、銅頭鉄額(頭は銅でできていて、額は鉄でできていた)、沙石子(砂や石)を食べた」。尋常でなく凶暴だった。蚩尤は黄帝も敗れたとはいえ、漢代に至るまで民間では戦神として祭られた。神話中の蚩尤の姿は「人身牛蹄、四目六手」(体は人間だが足は牛の蹄、目は四つ、手は六本あった)だった。また「秦漢の民間伝説によると、蚩尤の耳や鬢(びん)は剣、戟のようにとがり、頭には角が生えていた。軒轅(黄帝)の軍隊と闘うときには、角で人を突き、だれも抵抗することができなかった」(『述異記』)。このさまを見ると、まるで牛である。
梁朝の頃、「冀州に蚩尤戯という民間遊戯があった。その民、二二三三と並んで、牛角をかぶり、角を突き合わせた」。「太原の村落の間で蚩尤神を祭ったが、牛頭は用いなかった」。
牛角をかぶって角を突き合わせる遊戯を蚩尤戯と呼んでいる。蚩尤は牛神の化身と明らかにしている。蚩尤を祭るのに牛頭は無用だという。なぜなら蚩尤自体が神牛だからである。漢代に石に描かれた蚩尤の像を見ると、牛首獣身である。
伝説によれば黄帝が蚩尤を破ったあと、天下は不安定になり、黄帝は混乱をコントロールできなくなり、「蚩尤の姿を像に描き、その権威を天下に示すしかなかった」。「世の人は、みな蚩尤は死んでいないといい、八方すべての国が帰順した」。この伝説が意味するのは、蚩尤像を掛ける習俗はかなり早くからあったということである。蚩尤は牛頭獣身であり、蚩尤像を掛けるのと、青牛図を掛けるのとでは大同小異である。梁朝の人が青牛図を使って魑魅魍魎を「辟厭」する根源は、たしかにここにある。
<青牛と水神>
漢代の伝説によると、秦昭王のとき蜀郡守李氷は一頭の青牛に変化し、江水の神の化身である別の青牛と江水の岸で対決した。最後に李氷は衆人の助けもあって江神を殺すことができた。これよりのち江水が憂いとなることはなかった。
後代の小説には神化した青牛の故事が少なくなかった。たとえば唐代の余知古の『渚宮旧事』の物語では、東晋の桓玄はひとりの老翁から奇異な青牛をもらった。のちに「牛に水を飲ませるために車を停めたところ、牛が水に入ったまま出てこなかった」。桓玄は人を水辺にやって待たせたが、一日たっても青牛のゆくえはわからず、「当時は神の物(御業)とされた」。
南唐徐鉉の『稽神録』に言う、「京口の人が夜、江上に出ると、石公山に二頭の青牛がいるのが見えた。腹と口は赤く、水辺で戯れている。白衣を着た三丈(9m)の背の高さの老翁が鞭を持ってそのかたわらに立っている。しばらく見ていると、翁は振り返ったかと思うと、鞭打って二頭の牛を水に入れ、翁はその上を飛び跳ねている。飛ぶ距離は次第に伸びていき、ついには一足飛びに石公山の山頂に到達したかと思うと、姿が見えなくなった。青牛が神聖化されているのはたしかである。ただあとで出てきた奇妙な話と李氷の治水の神話はおなじものといえるだろう。
<青牛と樹精>
伝説によれば春秋時代の「秦文公のとき、雍南山に大梓樹(キササゲ)があった。文公がこれを伐ろうとすると、たちまち暴風雨が起こり、樹は絶えず生まれた」。のちに秦文公は秘術を会得し、幹のまわりに赤い糸をぐるぐるとまくと、髪を振り乱して伐りかかり、ようやく大梓樹を伐り倒すことができた。するとそこから一頭の青牛が走り出て、豊水に飛び込んだ。しばらくすると青牛は豊水からまた走って出てきた。秦文公は騎兵をやってそれを捕えたが、かえって青牛に追い散らされた。馬から落とされたひとりの騎士が髪を乱しながらもう一度馬に乗ると、青牛はその姿を見て恐怖を感じ、水の中に逃げ込み、二度と姿を現さなかった。武都郡に人々は怒特祠を建立し、大梓牛神を祀った。帝王からこの髪を振り乱した騎士は先駆者とみなされ、髦頭と呼ばれた。[髦は幼児の前髪が額に垂れた状態のことを言う]
また伝説に言う、「漢桓帝のとき、河の上で遊んでいると、突然青牛が水の中から現れ、桓帝のほうへ向かってきたので、みなが驚いて逃げた。太尉の何公が(……)右手に斧を持ち、それで牛の頭を斬って殺した。この青牛は万年木精である」。この伝説の青牛も河水と関係があるが、木精と言われているところが違う。こののち、青牛の木精は伝説の類型の一つとなった。
『崇高記』に言う、「(崇)山に大松があった。千歳ともいう。その精は青牛である」。
『述異記』に言う、「千年木精、青牛となる」。
『玄中記』に言う、「千歳樹精、青羊となる。万歳木精、青牛となる。多くは出て人間のなかで遊ぶ」。
犬禳法術のところで紹介したように、張華が燕昭王の墓前の千年木柱に火をつけて妖魔を照らしたという故事がある。青牛はすでに木精の化身であり、人々は千年木柱と同様に青牛を辟鬼厭邪のために用いるようになっていた。
<老子と封君達>
老子は周王朝の史官である。漢代に至って老子は神と奉られ、道教徒は老子を神格化して太上老君と呼んだ。伝説の中では老子は青牛に乗っている。
劉向『列仙伝』に言う、「老子が西遊したとき、関令の尹喜は遠くの関所に紫の気が浮かんでいるのが見えた。老子が青牛に乗って関所を過ぎようとしていたのである」。神仙が青牛に乗るさまは、道家の神話伝説のパターンである。
葛洪『神仙伝』が羅列する神仙の最後のひとりが後漢の封君達である。封氏は「黄精を服すること五十余年、鳥鼠山に入り、水銀を精錬して服す。百余歳にして郷里を往来する。これを見たのは三十人ほど。つねに青牛に乗り、死にそうな病気の人がいると聞くと駆けつけて、薬を与えて治した。どんな病をも癒すことができた。姓が何であるか語らず、青牛に乗っていることは知られていたので、青牛道士と呼ばれた」。道士は鬼怪に対処するのを専門年、道士のなかには成仙者となる者もあった。彼らは青牛に乗ったので、迷信を信じる者はこの現象や観念を根拠に青牛は辟邪霊物(邪悪を取り除く霊的なもの)であると結論づけたのである。
(3)
人はもっぱら青牛の身に兵神、水精、木精を見いだすので、あるいは道士が青牛を崇拝するので、青牛が巫術の実践に霊物として運用されるのは必然と言えるだろう。実際、青牛と髯奴の組み合わせが用いられた六朝時代、人は単独で青牛を利用する機会を放棄したわけではない。
梁朝の時代、青牛画像を用いた厭勝鬼魅法術があった。上述の劉孝威『辟厭青牛画賛』もその一つである。唐代にも「画青牛障」の習俗があった。張守節はこの習俗と秦文公の神話は関係があると考えていた。
古代の医術家から見ると、青牛によって夢魘(むえん)、猝死(そつし 突然死)を治すのは、奇妙な治療法だった。葛洪によると、夢魘から醒めない症状に対する処方はつぎのようなものだった。「馬のような牛によって悪夢に臨み、二百息。青牛であればさらぬよい」。
北斉の学者顔之推はこの方法について言及している。顔氏の小説『還冤志』に書く、晋富陽県令王范は誤って都督孫元弼を殺してしまった。しばらくすると孫元弼の鬼魂が復讐するためにやってきた。ある夜、王范が寝入ったところで「突然悪夢を見はじめ(うなされ)、連呼しても目を覚まさなかった。家人が青牛を范のところまで連れてきて、桃木の人形やアシの縄を加えた。少しよくなり、小康状態を保ったが、十日余りで死んでしまった」。青牛を見ることで悪夢から救う法術が当時相当流行していたことがうかがえる。
唐代の医術家はこのような法術とともに発展した。張思邈『千金方』巻二十五には猝死の医方(治療法)が述べられている。「牛を牽いて鼻の上に臨み二百息。牛が舐めればかならず瘥(い)える。牛が舐めたがらなければ、塩を病人の顔に塗る。そうすれば牛は舐める」。
また悪夢を見ても覚めないときの処方は以下の通り。「慎重に火を灯せ。手を動かさないように。牛を顔のところまで牽け。そうすれば目が覚める」。こういった医方は青牛辟厭法術の影響を受けている。
(4)
青牛辟厭法術と同様、髯奴辟邪術の源も相当古い。
秦代以前は、勇武が尊ばれていた。当時の人は絡腮鬍(らくさいこ)[口のまわり、あご、頬に生やしたヒゲ]を男子の勇壮さのしるしとみなしていた。
『詩経』「盧令」の最後の章で詠まれている。「盧重鋂(ろじゅうまい)、その人美しく、偲(ひげもじゃ)である」。盧は猟犬の一種。鋂は狩猟のとき首にかける金属の輪。偲(さい)は男子の頬いっぱいに生えたヒゲ。絡腮胡子(ひげもじゃ)の大男が獰猛な猟犬を連れている。そのさまは、伝説中の青竜偃月刀を持った美髯公関雲長(関羽)にすこぶる似ている。最初に掲げた詩が女性の心をうたったものだと理解すれば、彼女が称賛した「美しく、偲(ひげもじゃ)である」が当時の女性のもっとも敬愛すべき男子の姿であることがわかるだろう。
春秋時代、宗国大臣華元は鄭国と戦っているとき捕らわれて俘虜となった。宗人は百両の戦車、百頭の馬と引き換えに華元を取り戻した。のちに華元は築城の監督を務めたとき、築城の現場で働く国人が彼を風刺する歌謡をうたっていることに気がついた。
「目は見開き、おなかは大きく、甲冑を捨て、また取り戻す。思い、思いて、甲冑を捨て、また来る」。
大きな目で刮目し、壮健勇猛で(原文は挺胸腆肚)、顔面いっぱいに立派な髯(ひげ)をたくわえ、威武そうそうたる風貌ではあるが、惜しいことに、かぶとをなくし、よろいを捨てた敗軍の将である。この歌謡をこまかく見ると、相貌と行いが不一致であることをうたっている。立派な美髯は無駄に生えているだけ。
前535年、楚霊王新しく建設した章華の台の宴に魯昭公を招いた。門は「長鬣(ちょうりょう)の士」という侍者に守らせた。「長鬣とは美しい須髯(ひげ)のことなり」。楚人から見ると、長鬣の士は大国の気風を表していた。長鬣は勇武を代表し、勇武の士は鬼魅を御することができた。「鬼畏髯奴」(鬼はひげやっこを畏れる)という観念はこうして形成されていった。
前525年、呉楚が交戦したとき、楚人は呉の前の世代から伝わる戦船「余皇」を奪った。呉の公子光は雪辱を誓い、三人の長鬣者を楚軍に潜入させた。戦船余皇の近辺に潜伏する前に、光は三人と約束を交わした。
「おれが余皇と声を上げるから、聞こえたら暗闇の中で答えてくれ」
その日の深夜、公子光は三度「余皇!」と呼んだ。戦船近辺に潜伏していた三人の呉国の長鬣の士は三度高い声でこたえた。
楚人は潜伏者たちを殺したが、混乱を収めることはできなかった。呉人はこの機に乗じて攻め入り、楚師を撃破し、余皇を奪回した。
なぜ長鬣者は前もって潜伏したのだろうか。長鬣者らは余皇と呼ばれて答えたとき、どんな雰囲気だったろうか。なぜ楚軍は三人の長鬣者らに撹乱され、大混乱を起こしてしまったのだろうか。当時の鬼神信仰から見ると、この戦役のなかで、長鬣者は戦船の神にしかみえなかったろう。公子光は三人の「大胡子(ひげもじゃ)」に「余皇」の呼び出しにこたえさせ、戦船に霊的な見せかけの雰囲気を醸し出そうとした。
戦船が自ら答えるのは気味悪かった。ヒゲを胸に垂らした三人の長鬣者が船から飛び出したら、さらに恐怖はつのっただろう。楚人は殺した三人の長鬣者が人か神かわからなかった。まさに恐れ、疑っていたとき、戦闘意欲は崩壊してしまった。これは公子光の狙い通りだった。
公子光は長鬣者に神霊の扮装をさせたが、当時、長鬣は神霊と関係あると考えられていた。長鬣者が扮する神と鬼を駆除する髯奴はまったく同じというわけではないが、よく似ていた。長髯は武勇の象徴であり、鬼神に扮するのはいわば自然の装飾である。鬼神を威嚇する自然のお面だった。
晋人は髯奴と青牛を同等の威力を持つ特殊な巫術霊物とみなした。今まで述べたように、観念が発展した結果である。