古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 

14 名前厭勝呪法 

(1)

 古代民族は名前と霊魂には直接的な関係があると信じていた。現代でもアメリカのネイティブは自分の名前を単純にレッテルとはみなさない。むしろ自分ひとりの一部分とみなす。自分の目や歯とおなじようなものなのである。悪意を持って彼の名前を使用すると、彼は苦しみを味わう。身体上に傷を受けるとそれから逃れることはできないのと同様である。この信仰は大西洋から太平洋までのあいだの各部族に見られる。

 古代中国においても名前に対する信仰は盛んだった。人名、物名、鬼名、どれも自分の霊魂の一部とみなされた。この観念のなかから名前の厭勝法が派生した。[厭勝とは呪詛や祈祷によって相手を制圧すること] 

 人名に関する厭勝法にはおおよそ二種類がある。一つは、名前を用いて厄運を改変すること、あるいは災難を予防すること。もう一つは名前を用いて仇敵あるいは呪術を行う者に対して歯向かう人を攻撃すること。

 商代の礼俗を考えるに、死者の魂を呼ぶためにはその名を呼ぶ必要があった。『礼記』「喪服小記」には「復するに、書銘においては天子より士まで、その辞は一つなり」とあり、鄭玄の解釈では「殷礼」に属するという。この「復」は魂を招くことを指す。「其の辞は一なり」とは、死者が天子であろうと士人であろうと、みな同じく名を称す必要があるということ。古代の「字」(あざな)とは対称的に「名」は乳名を表わす。「字」は成年になってからつけられるもので、それゆえ人は名を認識することで離れた霊魂をさらに近づける。

 招魂のときにはただ名を呼び、遊離した魂の注意を引き、呼び戻す。つまり忌み名に厳しかった漢代、祝官は国君のために祝祷するときに名を呼ばねばならなかった。『淮南子』「氾諭訓」にいう、「祝はすなわち名君である。勢いがないはずがない」と。人名と霊魂の間に密接な関係があると信じられていたので、名を決めることは、ことさら重要視されていた。

 古代文献において、去疾、棄疾、辟兵、却敵、延年、益寿、千秋、万歳などの人名はめずらしくなかった。当時はこういった名を用いたのである。祝願を表わす以外にも、さらに功利的に邪悪や祟りを制圧するために名づけられた。時代が早ければ早いほど、その傾向は強かった。

 古代の算命先生はつねに生辰八字と五行の対応関係から一人の運命を予測した。もしだれかの五行のうちの一行が欠けていることが発見されたら、救済措置を講じる必要があった。欠けている行を名とした。つまり金が欠けているなら、金扁の字を名とした。魯迅の小説『故郷』の主人公閏土は、五行のうち土が欠けていたため、これを名に用いたのである。

 

(2)

 名前を用いて仇敵を攻撃する、あるいは子供をおびえさせるのは、古代ではごく普通のことだった。古代に流行した偶像祝詛術は、仇を象徴する木偶や画像に仇の名を書き、それに対して呪詛するというものである。

 顔之推『還冤志』は、ある残忍な心を持った女性が、夫の前妻の子「鉄臼」に対するために、自分が生んだ子に「鉄杵」という名を付けたという物語を描いて射る。

古代民間では、子供が泣き止まないときにやめさせるため、凶悪で威圧的な名を付けることがあった。まちがいなく、効果は絶大だった。

 宋人周密『癸辛雑識』「呼名怖鬼」に言う、「劉黒、顔は青黒く、胡蛮に似て、人はこれを畏れる。子供が泣くとき、「劉胡が来るよ!」と言えば泣き止んだ。楊大眼、威張りちらして、声も恐ろしかった。淮泗荊沔の間で子供がなくとき、「楊大眼が見てるよ!」と言えば泣き止んだ。将軍麻秋の威勢ある名は轟いていた。子供が泣くやいなや「麻秋が来たぞ!」と叫ぶと泣き止んだ。檀道済の雄名は大いに轟き、魏はこれを畏れた。鬼を祓うのにそれを用いた。江南人畏桓康はその名が子供を恐がらせた。寺の中にその恐ろしい姿を見せようと、瘧病の者は床や壁にその姿(画像)を貼った。するとたちどころに病は癒えた」。

 名を呼ぶと泣き止んだのは、最初は偶発的なものだったかもしれない。人はそれを模倣するようになり、名前と霊魂が密接な関係にあるという観念が解釈に加わっていった。そして名を呼ぶと泣き止むのは遊び半分ではなくなり、巫術活動になっていった。

 

 名は神秘的だが、こと鬼神に関することになると、より神秘を感じるものである。二千年以上にわたって名諱(いみな)制度が続いてきたが、早くには、鬼神の名を避けることから始まっていた。周代には「神のことを忌む」礼俗があったが、この場合の神とは、死んだ祖先のことを指していた。招魂、祭祀などの特殊な場合を除き、死人の名は、とくにそれが祖先の名であるなら、やみくもに口にしてはいけなかった。もし死人の名と世間の何かが同じ名だったら、その物は廃棄され、その名称は換えられ、祖先はその名で満足しなければならなかった。晋僖公がついた「司徒」、宋武公がついた「司空」という官位は彼らの死後廃絶されてしまった。宋国は司徒をあらため司城とした。

 魯献公は名を具、魯武公は名を敖(きょう)といった。敖も具も、魯国の山の名だった。献、武の死後、当地の人は郷名で呼ぶのを改め、山の名で呼んだ。人の死後、同じ名の事物の名称を変える必要があることを考慮すると、不必要な煩わしいことを引き起こすことになり、春秋時代の人が強調したように、名前選びは慎重になる必要がある。国名や官名、山や川の名、隠疾(性病など隠された病気)の名、家畜の名、器幣(礼器玉帛)の名からは取らないようにしなければならない。

 中国の周代だけでなく、世界中の多くの原始民族が「以諱事神」(諱でもって神につかえる)の習慣を持っている。そういったところでは自ら名前を言うことができず、他人の名を言うこともできず、とりわけ死者の名を言うことができない。はなはだしいのは、死者の名が日常語に含まれる場合、そういったことばが廃棄されることになる。名を口にするということは、その人本人に言及したということであり、その名の存在に触れたということである。これは彼を殺しうるということである。彼に対し暴力をふるうことができるのであり、現実の彼を脅迫することができるということだ。これはたいへん危険なことである。

 

 「以諱事神」は平時に鬼名を呼ばないよう要求する。それは鬼名の迷信的側面を反映しているにすぎないが。古代の巫医道士は「以諱事神」の伝統に手足を縛られることはなかった。鬼名と鬼神の関係には積極的な理解があった。彼らにとって、悪鬼と悪虫の名を呼ぶのは、親族の中の名が含まれる悪鬼と悪虫を列挙するということだった。それは悪鬼と悪虫に脅しをかけることができるということだ。

 この特殊な制鬼法(鬼を制御する法)は二つの意味を持つ。一、鬼名によって鬼魂をコントロールすることができる。これは人名によって人の魂をコントロールするのと同様である。二、高みから見下ろす態度で鬼怪に対し、威嚇する。暗がりに隠れて、したいことが何でもできる。あなたの姓名を私はあきらかにすることができる。あなたの親族の状況、家族の内幕をすべて知ることができる。もっとも悪いのは、懲罰から逃げられると妄想することだ。

 

(3)

 古代呪術の呪文のなかの力を示す言葉にはさまざまな種類がある。その一つは、悪鬼悪虫の名を列挙した言葉、あるいはその親族の名を掲示した言葉である。

 馬王堆漢墓から出土した『雑療方』には蛇・虫・(せき。毒虫)の傷の治療の仕方が記されている。その呪文は以下の通り。

 

某、女(汝)兄弟五六七人、某索智(知)其名、而処水者為魣[魚偏に支だが、魣と同じ。獰猛な小魚]、而処土者為蚑[水蛭]、棲木者為蜂、〇斯[の中に虫。詳細不明]、(飛)而之南者為蜮[よく。水中に棲む害虫]。

 

 もし患者が健康を回復しなかったら、あなたはどうするだろうか。この呪文は教訓的に蛇虫の口調で言う。大意はというと、私はあなたの家族の秘密を調べたので、あなたに六人、七人の兄弟があることを知っている。それぞれの姓名と習慣も知っていると。

 馬王堆帛書『五十二病方』は「父兄は大山を産む。而して□谷下にいる」「父は蜀にいる。母は風鳥(鳳凰)を褥(しとね)とする」「父は北に在って居し、母は南に止まって居する」といった呪文を掲げ、悪鬼悪虫である父母に重点を置き、暴きだし、攻撃する。そのなかで鬼怪である父母の名字を明かさず、住所と身分を強調する。こうした示威的な呪文と列挙する鬼名による示威的な呪文は、意図するものとして、また性質において、非常に近いと言えるだろう。

 

 晋から唐代にかけて、巫医道士が鬼名を列挙する呪文がさかんになった。たとえば唐代、「注鬼」を駆除する呪文が流行した。

 

東方之注自名羊、入人体中主腹腸、神師呪注注即亡。(東方の注鬼は羊と名乗る。人体に入り、腹部に宿る。神師が注鬼を呪えば、注鬼は滅びる)

南方之注自名狗、入人体中主心口、神師呪注注即走。(南方の注鬼は狗と名乗る。人体に入り、心臓に宿る。神師が注鬼を呪えば、注鬼は亡くなる)

西方之注自名鶏、入人体中主心臍、神師呪注注即迷。(西方の注鬼は鶏と名乗る。人体に入り、へそに宿る。神師が注鬼を呪えば、注鬼はさまよう)

北方之注自名魚、入人体中主六府、神師呪注注即無。(北方の注鬼は魚と名乗る。人体に入り、六府に宿る。神師が注鬼を呪えば、注鬼は無に帰する)

中央之注自名雉、入人体中主心里、神師呪注注自死。(中央の注鬼は雉と名乗る。人体に入り、心の中に宿る。神師が注鬼を呪えば、注鬼は死ぬだろう)

 

 巫師は注鬼の名を自由気ままに決めているように思える。たとえば呪文ではこう述べる。東方の注鬼は医と名乗る、南方の注鬼は青と名乗る、西方の注鬼は揺と名乗る、といった具合に。さらに呪文は名字について述べる。また姓氏について述べる。

「注鬼の父は張、注鬼の母は楊、注鬼の兄は靖、注鬼の弟が強、注鬼の姉は(きょ)、注鬼の妹は姜である。汝は姓氏を知り、汝は宮商(音階)を得た。なぜ遠くへ行かないのか。どこに住みたいのか」

[宮商は<宮商角徽羽>の略。これは現代のドレミに当たる5つの音階のこと、名前と音楽を得たのだから、好きな ところへ行けばいいのに、あなた(注鬼)はなぜここに留まろうとしているのか]

 このほかにも禁蛇呪文が当時流行した。

 

一名蛇、二名蟾、三名腹(蝮)、居近野沢、南山腹(蝮)蛇、公青蛇、母黒蛇、公字麒麟蛇、母字接肋……。(名は蛇、あるいはヒキガエル、あるいはマムシ。近くの野の沢に、南山にいるマムシである。父は青蛇、母は黒蛇。父の字、あざなは麒麟蛇、母の字は接肋蛇)[南山は生命、陽気の象徴]

 禁〇(虫偏に頼。サソリなどの毒虫)の呪文もある。

 

蠕〇神祇、八節九枝、兄字大節、弟字蠍児、公字腐屋草、母字爛蒿枝。(毒虫の神々よ、八つの節、九つの脚の者たちよ。兄の字は大節、弟の字は蠍児、サソリの子。公(父)の字は腐屋草、母の字は爛蒿枝)

但自攝斂汝毒、不出去何為。(汝の毒を吸い取ろう。どこにも行く必要はない)

急急如律令!

 

 この二つの呪文は、「禁呪」(まじない)の対象やその兄弟および父母の名を列挙することを厭わなかった。漢代の『雑療方』に記録された禁治蛇虫の呪文の伝統をあきらかに受け継いでいる。

 

(4)

 呪文を唱えるとき、鬼の名及びその親族の名を列挙するが、それは呼名駆鬼法術のうちの煩瑣なものにすぎない。伝統巫術のなかにはもっとシンプルな呼名法もあるのである。この種の法術を思いつく人は、くどくどしく鬼怪に向かってその(鬼の)父母兄弟に就いて話す必要がないことを承知している。そして「ぶった切ってやるぞ」みたいな脅しの文句もいらないのである。ただこの種の鬼怪に就いてよく知り、名前を記憶し、その名を叫べば、鬼怪はすごすごと退散するだろう。

 

 晋の葛洪はこの簡単な制鬼術を重視した。彼は山中の精怪の名前を詳しく紹介している。その目的は入山修行者に自衛の方法を提供するためである。葛洪の『抱朴子』「登渉」に言う。山精には4種の形状があり、5種の名前がある。子供のようで独脚(一本足)、反対に(背中の方向に)歩き、好んで人を害し、夜間に大きな声で笑う。その名を「蚑(き)」、またの名を「熱内」という。

 「知ってこれ(名)を呼ぶと、人に危害を加えることはない」「山精あり。太鼓のように赤く、一足(一本足)である。その名を暉(き)と呼ぶ。また人のように見えるが、身長が九尺あり、裘(かわごろも)を着て、笠をかぶる。これを金累と呼ぶ。また竜のように見え、体が五色で、赤い角持つ。これを飛飛と呼ぶ。これらは名前を呼ばれると、危害を加えることはない」。

 大きな枠組みの山精のほか、特殊な山精も数が多い。たとえば「山中に話すことのできる大樹があった。また樹以外にも話すことのできるものもあった。その精は雲陽といった。これを呼べば吉(いい前兆)だった」。「大自然の中に小役人を見た。これは四徼(しきょう)という。名を呼べば吉である」。「山中で頭巾をかぶった大蛇を見る。名を昇卿という。これを呼べばすなわち吉である」。

 

 葛氏が言うには、精怪はふだん見る動植物やその他、モノが変化したものが多い。彼らは決まった日時に出現する。喜んで自らを役人、神仙、あるいはその類の人物と呼ぶ。たとえばつぎのように。

 

「山中で、寅の日、虞吏(ぐり)[山林の管理人のこと]と称する役人がいる。じつは虎である。また当路君と称する者がいる。じつは狼である。令長と称する者がいる。タヌキである。卯日に丈人と称する者がいる。ウサギである。東王父と称する者がいる。シフゾウである。西王母と称する者がいる。鹿である。辰日に雨師と称する者がいる。竜である。河伯と称する者がいる。魚である。無腸公子と称する者がいる。カニである。巳日に寡人と称する者がいる。社中の蛇である。時君と称する者がいる。亀である。午日に三公と称する者がいる。馬である。仙人と称する者がいる。老樹である。未日に主人と称する者がいる。ヒツジである。吏と称する者がいる。獐(ノロ)である。申日に人君と称する者がいる。猴(サル)である。九卿と称する者がいる。猿(さる)である。酉日に将軍と称する者がいる。ニワトリである。捕賊と称する者がいる。雉(きじ)である。戌日に人姓字と称する者がいる。犬である。成陽公と称する者がいる。キツネである。亥日に神君と称する者がいる。ブタである[十二支の亥はイノシシでなく、ブタ]。婦人と称する者は金玉である。子日に社君と称する者はネズミである。神人と称する者は伏翼である。丑日に書生と称する者は牛である」

 葛洪によると、こういった精怪に対処するもっとも簡単な方法は、その特殊な鬼名を呼ばないことである。「その名(鬼名でないそれ自体の名)を知っていれば、これを呼ぶ。すると危害を加えることができなくなる」。

 たとえば、寅の日に山中で山林の管理人と称する人に遭遇する。あなたはただ(虞吏という鬼名でなく)一言「虎!」と叫べばいい。それはたちどころに虎精に変ずる。もはや人に危害を加えることはない。

 

(5)

 葛洪は山中の精怪、とくに動物が変成した精怪をいかに防ぐかについて重点的に述べている。

古い巫術書『白沢図』は鬼の形、鬼の名、および呼鬼名法についてすべて描き、論述している。葛洪と干宝はともに『白沢図』に言及している。干宝が言うには、呉国の諸葛恪は『白沢図』を引用している。また諸葛恪が記す精怪の名称と『白沢図』が一致することが多い。こうしたことから同書は晋代以前には流伝していたことがわかる。そして呼鬼名法術が魏晋の時代には術士が用いていたことがわかる。

 秦簡『日書』「詰篇」を読むと、非常に多くの鬼怪の名称が記されているが、鬼名を直接呼んだものはない。すなわち駆鬼の意味合いはなかったのである。言い換えれば『白沢図』の呼名法術は秦代以降の発明であることがわかる。

 

 『白沢図』の鬼名、鬼形と呼名駆鬼法術の描写は『山海経』と趣が似ている。以下できるだけ原文を尊重して並べてみよう。

 

「厠(かわや)の精」。名を「倚」という。青い衣を着て、白い杖を持つ、その名を知り、これを呼べば、駆除することができる。さもないとそれに殺されるかもしれない。

「火の精」。名を「必方」という。形は独脚鳥と似る。その名を呼べば飛び去る。

「玉の精」。名を「岱委(たいい)」という。そのさまは青い衣を着た美女のごとき。それを発見したとき、桃木の匕首でそれを刺し、同時に名を呼ぶと、捕まえることができる。

「金の精」。名を「倉〇(口偏に唐)」という。ブタに似る。家々にいて、妻を娶るのが難しくなる。その名を呼べば走り去る。

「旧門の精」。名を「野状」という。侏儒のように見える。人に見つかると、つねに身を低くして叩拝するようになる。その名を呼ぶと飲食に困らなくなる。

「故沢の精」。名を「冕(めん)」という。五色の花柄の双頭の蛇のように見える。その名を呼ぶと(蛇が)金銀を取ってくる。

「荒丘廃墓の精」。名を「無」という。老いた小役人のように見える。青い衣を着て、手に木製の杵を持ち、喜んで米を搗く。名を呼ぶと穀物がよく育つ。

「故道野径の精」。名を「忌(き)」という。野人のような外見で、走ったり歌ったりする。その名を呼ぶと、人は道に迷うことがない。

「旧車の精」。名を「寧野」という。臥車(古代のキャンピングカー)のように見える。人に見つかると、人の目を攻撃してくる。名を呼べば、何事も起こらない。

「路上遊走の精怪」。名を「作器」という。大男で、人をよく惑わすが、その名を呼ぶと逃げていく。

「旧臼の精」。名を「意」という。ブタに似ている。呼ぶとすぐに立ち去る。

「旧井旧淵の精」。名を「観」という。美女で、簫を吹くのが好き。その名を呼ぶと離れていく。

「河水の果ての金を産出する場所の精」。名を「侯伯」という。人のように見えるが、背は五尺しかなく、五色の衣を着ている。名を呼ぶと、去る。

「旧台旧屋の精」。名を「両貴」という。外見は赤い犬に似ている。その名を呼ぶと人の目を光らせる。

「山あいの渓流の精」。名を「喜」という。外見は黒い子供に似る。その名を呼ぶとそれ(子供)に食べ物を持ってこさせることができる。

「古戦場の精怪」。名を「賓満」という。首だけで体がない。両目が赤い。人を見るとくるくる回る。その名を呼ぶと去る。

「旧河水の巨石の精」。名を「慶忌」という。人に見えるが、車に乗って空を飛ぶ。一日千里飛ぶことができる。その名を呼ぶと、人が水に潜って魚を捕ることができるようになる。

「旧市場の精」。その名を「問」という。見た目は囲いに似て、手足がない。その名を呼ぶと離れていく。

「旧居室の精」。名を「孫竜」という。外見は子供で、背は一尺四寸ほど。黒い衣を着て、赤い幅の広い帽子をかぶる。腰に剣をさし、手に戟を持つ。その名を呼ぶと離れていく。

「旧牧場、廃池の精」。名を「(こん)」という。外見は牛に似るが、頭がない。人を追いかけるのが好き。その名を呼ぶと離れていく。

夜、お堂の下を走り回っている子供がいる。これは「悪しき精」。名を「溝」という。名を呼ぶと災禍はなくなる。

「百歳老狼の精」。名を「知女」という。いつも美女に変成し、路傍に坐っている。もし好みの男を見かけたら、自分には父母も兄弟もいないので、自分をもらって世話をしてくださいと頼み込む。男が気を許し、女を娶ると、一年後には食べられてしまう。直に「知女!」と呼べば、狼精はさっさと逃げていく。

「旧糞坑の精」。名を「卑」という。外見は美女で、いつも鏡を持って自らを照らす(見る)。その名を呼ぶと、恥ずかしがって耐えられなくなり、身をひるがえして逃げていく。

 

 以上の呼名駆鬼術の奇妙な話のなかでも、一部は論理的に解釈できるものもある。この書に羅列されるのは大部分が荒廃した場所や古い器物の精怪である。古いものに対する人間の恐怖心と関係あるのだろう。

 荒廃した場所には陰鬱な空気が充満し、古いものにはボロボロの、朽ち果てた、汚れた雰囲気が醸し出され、大量の虫や蚊が生まれ出てくる。人は簡単に精怪を生み出すことができる。

 『白沢図』に描かれた精怪はどれも生活で経験しているものである。たとえば古戦場の精怪は、頭はあるが、体はない。両目は赤い。これは戦死者の姿である。牧場の精は、首はないが牛の体はある。おそらく屠殺された牛の姿から生まれたのだろう。故室の精は子供の姿をしているが、子供はつねに室内で活動するものである。旧車の精はやはり車の形をしているが、てきぱきしているのはもとの車を模倣しているのだろう。

 

(6)

 『白沢図』の論法でいえば、どんな精怪も、呼名法術を用いれば制圧することができる。ただ精怪の名はしっかりと記さなければならない。その形状や特性を熟知し、危機的状況になれば、大声を出して呼び、災厄を回避しなければならない。

この種の法術は苦もなくできそうに見えるが、実際はそんなに簡単ではない。それにそれぞれの精怪の名が複雑で覚えるのがむつかしく、辛抱強くない人はしりごみするかもしれない。とりわけ初心者が実習するとき、さまざまな精怪のサンプルを提供するのは困難をきわめるだろう。

 『白沢図』にはさまざまな精怪の画が描かれているが、一部は「山海図」式の画である。ということは、巫術実践者に対する指南書の意味があったのだろうか。『白沢図』は本来鬼怪を制御する方法を教える意図があるはず。しかし当初の目論見とは異なり、鬼の系譜を複雑にし、最終的には現実に適用することができなくなってしまった。

 

 古代の術士、とくに道士に間では神名を呼んで神力を借りて祭南を取り除く方法が流行っていた。名前の威力を用いる迷信的法術と呼名駆鬼法術とは、相通ずるものがある。

 道士らは言う。「天公の字(あざな)は陽君、日の字は長生、月の字は子光、北斗の字は長史、雷公の字は、西王母の字は文殊、大歳の字は微明、大将軍の字は元荘」。

 これらの名を熟知しなければならない。危機に面してこの名を呼べば、男は武器によって死ぬ(殺される)ことはなく、女は難産によって命を落とすこともない。

 またこうも言う。

「水に入り引陰を呼ぶ。山に入り孟宇を呼ぶ。兵(武器)に入り九光を呼ぶ。遠くへ行き、天命を呼ぶ。これをみな呼べば難を免れる」。

 道士が武器の神の名字を呼べば、攻撃され、負傷することはないことを神は保証する。

彼らは言う、弩(いしゆみ)の名は「遠望」、あるいは「箪張」。弓の名は「曲張」、または「子張」。矢の名は「続長」、あるいは「信往」、または「傍徨」。刀の名は「脱光」、あるいは「公詳」、あるいは「大房」。剣の名は「陰陽」。戟の名は「大将」。鑲(しょう)の名は「鉤傷」、あるいは「鉤殃」。鉾の名は「牟」、あるいは「黙唐」。楯の名は「自障」。

 これらの武器はそれぞれ異なる星々に掌握され、支配されている。「戦闘が発生したとき、その名を呼べば、(兵器による)傷害は受けない。人に福をもたらし、大吉である」。 

 武器の神の名はなぜ陽韻を踏むのか。神名が整いすぎると、かえって信用度は下がるものだ。神名をうまく作ろうとして、下手なことがばれてしまったかのようだ。

 

 呼名駆鬼法術は結局、簡単にできることから民間に普及していった。巫術に関する文献はつぎのような例を紹介する。

「夢の鬼名は奇伯(正しくは伯奇)である。その名を呼べば悪夢を見ない」「釜鳴[蒸気で釜が異音を発すること民間の占い法]の鬼名は婆。その字(あざな)を呼べば、災いは起こらず、吉祥を招いた」。こういった奇抜な秘術は、清代の日用書(日常生活に関する本)にたびたび引用された。しかし清代の人たちにとって、これら小技の法術は、試しても損することはないといった程度のものにすぎなかった。もとより彼らの呼名制鬼法術を『白沢図』の時代の法術と同列に論ずることはできなかったのである。