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黄帝が桃木癖邪術(魔除け)を創ったという神話が広く流伝すると同時に、漢代の学者の間には桃木の霊化の過程にはいくつかの異なる解釈があった。この種の解釈は神話とはいえ、具体的な歴史内容に関わっていた。
『淮南子』「詮言訓」に言う、「羿(げい)は桃の棒で死んだ」。
許慎注に言う、「棓(ほう 棒)、大杖、桃木でもってこれをつくり、打って羿を殺す。以来これにより、鬼は桃を畏れる」。
許慎は学問を修めるに「博采通人」(すべてに通じた人)であることを重視した。彼は多くの人が「黄帝がすべてをつくった」という説を信じていることに対し、独自の意見を持っていた。伝説には根拠があると考えたのである。
桃木辟邪説は「鬼、桃を畏れる」の観念をもとに形成された。「鬼、桃を畏れる」の観念が形成されるには、先祖が桃に食用の価値と薬用の価値を見いだしていたこと以外にも、歴史上の事件によって促進され、歴史が契機となって需要が増すことになったと考えた。現存する資料から見るに、許慎の論理は歴史がどうやって作られるかということに対し、最もいい説明となっている。
我々は羿が夏朝初期東夷族の窮氏首領であり、武勇と弓の腕前で世に聞こえ、一度は東夷人を率いて夏朝政権を奪取したことを知っている。大衆の心の中では、羿は天から派遣された神聖なる人で、戦争ではつねに勝利するはずだった。しかし天下無敵のはずが、信頼していた一族外の人物、寒浞(かんさく)の陰謀によって、桃の杖のもと弓に射殺されてしまう。
羿を崇拝していた一族の人々には受け入れがたいことだった。彼らは心の中の偶像を破壊されたくなかった。しかし羿が殺されたという事実から目を背けることもできなかった。受け入れがたい感情を納得させるための解釈が必要となったのである。寒浞は盗賊の類ではあったが、根本的に羿のライバルとはいえなかった。桃杖の力によってたまたま勝利を得たにすぎなかった。
羿は能力のある者によって陥れられ、殺されたわけではなかった。桃木自体が神秘的な力を持っていたのである。羿の崇拝者は本来こうした解釈を示すことで羿に対する思いと崇敬を表現するのである。ただしこうした認識によって、羿の死の解釈の範囲はますます狭くなっていき、「鬼は桃を畏れる」の観念がより普遍的になっていった。
鬼神と巫術を信じる者から見ると、羿のような超越した神人でさえ桃木の支配を受けるということは、どんな魑魅魍魎や邪悪なものでも桃木にはまったくかなわないということである。羿が桃木によって死んだという故事を聞いて、鬼はこうした超自然的な力を有する霊物に恐れをいだくだろう。羿の死は桃木の力を連想させ、桃木の威力は魑魅魍魎と桃木の関係を連想させる。そして最後に「鬼は桃を畏れる」の観念を導き出す。この観念があれば、巫師とその信徒は巫術の実践のなかで桃木を用いることになるだろう。
羿が桃の杖によって殺された話と、神荼郁塁が大桃樹の下で百鬼の検閲を受けたという話、この二つの神話には共通点がある。鬼が桃を畏れるという観念は東方、あるいは東方人と関連することである。羿は東夷族の首領であり、大桃樹は東海の度朔の山に成長する。
これから推測するに、鬼が桃を畏れる観念および桃木を用いて悪鬼を取り除く習俗は東方民族から起こったものである。民族が融合し、拡大し、濃厚になるにしたがい、東夷人の信仰と開発はさらに拡大する範囲内で拡散していくことになる。