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まず、第一類巫術がどういうふうに用いられたか、分析しよう。
秦代以前の巫師が常用した巫術の道具は二つあった。一つは桃棒であり、もう一つは萑(おぎ)と葦(あし)から作った笤帚(てぼうき)である。この二つの巫術霊物は組み合わせて使用する。当時の人はこの両者を合わせて「桃茢(とうれつ)」と呼んだ。
巫師から見ると、桃棒によって鬼魅を撃退することができ、笤帚(手箒)によって不吉なものを排除することができた。桃茢は攻撃能力を増し、巫術の目的をより達成しやすくなった。
唐人孔穎(こうえい)によると、秦代以前、桃茢とは桃棒を柄とする萑葦笤帚(かんいちょうしょう)、すなわち、「おぎ」や「あし」で作った「こぼうき」を指した。この説は、ある程度理屈にかなっている。桃茢の桃はそれだけで桃棒を指すので、それを本体に「おぎ」や「あし」で縛り付けて箒(ほうき)の柄にしたのだろう。基本的なものは変わらない。秦代以前の巫師は習慣として、霊物の固定的な組み合わせの桃茢を常用していたのだろう。
春秋時代、君主が臣下の家に弔問に行くとき、(行進する君主の列の)前で、巫祝が桃茢を手に持って「開路」をした。死者の家の門に入ると、死者が発する凶邪の気を掃いて除き、君主の身の安全を守った。巫師は桃棒と笤帚を持って、遺体の周囲を払った。こうしたことを「祓殯(ふつひん)」あるいは「祓柩(ふつきゅう)」と呼んだ。
祓殯法術は、基本的に死人や新鬼への恐れに対しておこなわれるものである。本来はすべての死者に対して施術される。君主の地位が高まるにつれ、祓殯は変成し、君主が臣下に対してのみおこなう「君臨臣喪の礼」となった。
たとえば前544年、魯襄公が楚国を訪問したとき、随行していた巫師に桃茢を持たせ、楚康王の棺の上で祓除(祓い)をさせた。そしてこれを「君臨臣喪」と表現した。
桃茢駆邪術は盟誓、飲食の際によく用いられてきた。周代の盟誓には「歃血(そうけつ)儀式があった。盟誓に参加する者は、盟約への忠誠を、動物の血をすすることによって示したのである。彼らは動物の耳を切って血を流し、また桃棒と笤帚を使って動物の血を攻撃し、掃祓した。
原始信仰は血液を凶、邪、不潔なものとみなした。桃茢を用いて動物の血を祓うのは、血と関係した濊気を駆除するということだった。
周代、もし大臣が自分の作った料理を国君に献上するとき、この美食(料理)の上に一束の桃枝と笤帚ひとつを置いた。この特殊な献食礼は、秦漢代以降の人には想像もできなかったろう。美食を献じる者は自分の作った食事に邪気がないことをあえて保証しなかった。自分の好意に反して君主に面倒をかけることを恐れたのである。このため彼らは美食の上を桃茢で覆い、君主が不吉なものをいつでも攻撃できるようにしたのである。