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 弓矢で鬼魅邪崇を撃つのは、巫術の重要な手法である。射鬼巫術で用いられる弓矢は実用的ではなく、特別に作られた道具だった。なかでも桃木で作られた弓と酸棗樹の枝から作られた矢は、常見される特製品だった。秦代以前の人はこれを「桃弧棘矢」と呼んだ。

西周の頃、楚国先王熊緯(ようい)は、桃弧棘矢の選定を専門とし、周天子に貢物として献じていた。春秋時代の人が「篳路藍縷(ひつろらんろう)以処草莽(そうぼう)」(未開で、車は粗末なものしかなく、人の着ている衣服もボロボロの貧しい地域)と表現したように、ほかにこれといった宝物がなかったわけではなく、逆に、楚人にとって桃弧棘矢はこれ以上ない宝物だった。

巫術意識の強い人からすれば、禍と咎を除去する桃弧棘矢を貢物としてささげるのは、最高に礼を尽くしたということであり、辟邪霊物を受け取った側からすると、それは非常にありがたい重々しい贈り物だった。


 西周春秋の頃、蔵氷・出氷の習慣があった。毎年十二月に、深山峡谷の「凌室」に氷塊が貯蔵された。春夏には氷塊を取り出し、防腐のために用いられた。出氷の際、山谷内外の温度差が大きく、氷を扱う者は病気になりやすかった。病気や災いを祓除するために、彼らは出氷前に桃弧棘矢を手に持ち、象徴的に邪気に向かって矢を放った。

 秦簡『日書』「詰篇」に言う、もしだれかが長時間にわたって鬼怪から攻撃を受けているなら、それは好戦的な「厲鬼」と出会ったのであると。「桃を弓とし、オス棘を矢とし」、矢筒の尾部に鶏の羽根を挿し、馬上の鬼の影を発見したなら、矢を放つ。そうすれば平安を回復することができる。

 馬王堆帛書『五十二病方』に言う、男子の疝気(せんき ヘルニアなど内臓の一部が飛び出す病気)を治療するには、大きな瓢(ひしゃく)で陰嚢を包み、そのあと東に伸びる桃枝を取って曲げて弓とする。夜になってこの桃弓を用いて三つの矢を同時に発射する。薬物の治療もあわせておこなえば、全快する。

 後漢の大儺儀式で、方相氏が引き連れた打鬼の童子たちが、太鼓を叩きながら矢を放つ。童子が用いる弓矢は桃弧棘矢である。

 張衡『東京賦』はこの情景を描く。「桃弧棘矢、放つも臬(げき)はなし」。臬とは矢の的を指す。桃弧棘矢が射るのは人に対してではなく、鬼怪である。しかし彼らがどこに身を隠しているのかわからないので、自分の感覚に任せて、一気に、めくらめっぽうに乱射することになる。