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 劉宋(南朝宋420479)以降、門戸を守衛してきた桃梗(桃の木偶)に代わって桃板、桃符が用いられるようになった。桃板や桃符を掛ける風習は、秦代以前の脈々と伝えられてきた桃枝を挿す習俗と相通じるものがある。

『荘子』に言う、「門戸に桃枝を挿し、その下に灰をひく。子供は気にしないで中に入るが、鬼神は畏れて入れない」。あるいは言う、「門戸に鶏を吊るす。その上に葦の縄を掛け、傍らに桃符を挿す。百鬼はこれを畏れる」。

 門戸に桃枝を挿す辟邪法は戦国時代にはすでに広く行われていた。注目すべきは、漢代から晋代にかけての頃、春節について書かれた文献には、桃枝を挿す、あるいは桃板(ふだ)を掛けるといった方法の記述が少ないことである。これは桃板を掛けるといった巫術が劉宋以前には流行っていなかったということなのだろうか。そういうわけではないだろう。

 正史の中の『礼志』には主に皇室や朝廷の礼儀が書かれる。張衡『東京賦』に言う、「度朔(東海中の山)で梗(桃の木偶)を作り、郁塁、神荼が守っている。葦の索(つな)を取り、隅々まで監視する」。後漢の都洛陽の城中の桃梗(木偶)を立てる風習を描き、朗誦している。

 応邵(おうしょう)『風俗通儀』は明確に指摘する。「県官はつねに蠟月除夜になると桃人を飾る」。この県官は皇帝、あるいは朝廷を指す。

歴史家や文人は桃梗の設立に関して比較的多く記述しているが、都市部や上流貴族の間にはこれが流行していたということだろう。農村や下級階級の間では桃枝を挿し、桃板(ふだ)を掛ける形式が一般的だった。これらは著述者の注意をひくことは少なく、文献中の記載は少なかった。

これを分析すると、桃梗を立てることと、桃枝を挿し、桃板を掛けることはおなじ巫術ではあるが、異なる系列に属するのである。後者は民間でさかんにおこなわれたので、やりかたが簡単だった。ゆえに最終的には前者にとってかわった。それは新年の桃木辟邪法術に用いられるようになる。


南朝の時期、春節に門戸に桃板(ふだ)を掛ける風習は社会の各階層に流行した。梁人宗懍(そうりん)は『刑楚歳時記』の中で言う、「正月一日、桃板を作り、戸に著ける。これを仙木という」。この書にはこのあと桃梗に言及はない。

春節に掛ける桃板は最初一枚にすぎず、文字も画もなかった。というのも当時の人は「桃板を作り戸に著ける」と同時に門神の画を貼っていたからである。「門戸に二神の絵を貼る。左に神荼、右に郁塁、俗に言う門神である」。

神荼、郁塁はもともと桃梗の代わりだった。桃梗を立てる風習がなくなったあと、一度は、桃木と門神が関連することがなくなるものの、併存するという現象が見られた。宗懍はどうしてこういう状況になったかについて説明している。

 いつから始まったのか、桃木と門神は新しいかたちで結合するようになった。人々は桃板の上に神荼郁塁の像を描き始めた。辟邪桃板はもともと一枚だったが、左右の二枚になった。南北朝の時代、道教が急速に発展し、道士はつねに桃板の上に符籙を書くようになった。春節に掛ける桃板はとくに門神が描かれていて、道士が使用する桃木符籙と近いものだった。そのためこれらの桃板は「桃符」と呼ばれた。


 唐朝の人は「対仗」という整った形式の律詩を書くのが好きで、この頃から対句を作るのが得意な人が増え、桃符の上に対聯(ついれん)を書いた。

五代の時期になると、達官顕宦(権力を持つ高官や宦官)、文人、学士らは桃符に対聯の題字を書いたが、もはや特殊な現象ではなかった。後蜀の国君孟昹(もうあい)は毎年蝋月三十日(大晦日)になると、各宮門に一対の桃板を与え、『周易』中の言葉「元亨利貞」四文字の題字を書かせた。孟昹の太子孟玄喆(もうげんてつ)は書を得意とし、舞うように墨を揮った。彼は献策から選んで大門に桃符を貼ることとし、その符に自ら「天垂余慶、地接長春」という対聯を書いた。詩句がすばらしく、書の芸術性もすぐれていたので、当時の人はみな称賛した。のちに宋太祖趙匡胤(ちょうきょういん)は蜀を滅ぼし、呂余慶という大将を蜀の知事に任命した。後蜀でもともと採用していたやりかたを彼は踏襲した。

 超匡胤の誕生日は、宋人から長春節と呼ばれていた。しかし結局「天垂余慶、地接長春」という言葉は後蜀の滅亡の前兆だったのではないかと言われるようになった。