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宋代になると、毎年春節が近づくたびに、街市には桃板や桃符といった追儺の物ばかりが並んだ。新桃符が掛り、春節には欠かせないものになっていた。宋代の桃符は二三尺の長さ、四五寸の幅の桃木でできた薄板で、上の方には狻猊(さんげい)、白沢といった神獣が描かれ、下の方には左に「郁塁」、右に「神荼」と書かれた。あるいは頌春祝禱のことばが書かれた。
王安石の詩『元日』は、「爆竹の音が轟く年の終わり、春風が温もりをもたらし、新しいお酒(お屠蘇)を飲む。千門万戸が新しい日の出を拝み、桃符を新しいのに取り換える」。少なからぬ宋人が詞曲を作り、当時の桃符を換え、新春を迎える情景を生き生きと描いている。
宋代には、桃符が用いられたほか、春帖、柱聯、門額などが現れた。宋人周必大が言うには、毎年除日(大晦日)には、人は忙しく春帖、柱聯、門額を換えなければならなかった。そのとき庭堂、走廊、門楣(門戸の横木)などに「福禄寿」「一財二喜」などの文字を貼り付けた。釈道二教(仏教と道教)のどちらを信じるかによって貼る文字が異なった。たとえば「阿弥陀仏」「悉呾多般呾那」「九天応元雷声普化天尊」などの言葉が貼られた。
明朝の時代になると、紙に書く対聯が桃木から作られる新春の桃符に取って代わるようになった。この対聯は「春聯」と呼ばれた。紙で作られた春聯が普及したあとも、伝統を踏襲してそれを桃符と呼ぶ人もいた。この桃符という名称は、春聯と桃符の古い関係を反映しているけれども、実際桃木と何の関係もなかった。
桃梗、桃枝、桃板から変成して聯語が書かれた桃符ができた。また桃木から製作した桃符が変成して有名無実の桃符となった。巫術の色合いは次第に薄れ、新年のめでたい雰囲気ばかいが目立つようになった。人々は知らず知らずのうちに古い巫術活動を改造し、民俗活動家ら巫術要素を消していった。本来は神秘的な色合いの濃かった「辞旧迎新」(古い年と別れ、新しい年を迎える)の中身がかわり、新しい生命力を得るに至った。
新春の桃符は、特殊な歴史の原因によって、つねに非霊物化の方向に発展してきた。桃符の神秘性は、新春祭日活動のなかで削られてきた。全体を見渡すと、古代中国の桃木に関する迷信は根本的に変わることはなく、桃木辟邪術などはつねに流行していた。