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 桃木に神秘的な力があると信じていたので、巫師や道士は桃板の上に喜んで符籙を書いた。これはまさに桃符だった。典型的な巫術霊物である。

 『抱朴子』「登渉」は「老君入山符」には五道霊符が含まれると記録している。作者葛洪は強調する、この五符は桃板の上に丹砂で書かなければならない、かつ「文字を大書し、板の上に弥漫しなければならない」と。葛氏によると、この五つの桃符を門戸の上や住居の四辺四角、通る重要な場所、また五十歩以内は、山精鬼魅を辟除することができた。このほか、「戸内の梁柱、皆安んじることができる。山林にいたり、入山したりするときは、これを用いればすべてのものの害がなくなった」。

 北魏の終わり頃、術士劉霊助は巫術を用いて多くの兵士を集めて起兵した。彼はまた「桃木を描いて護符とする」という巫術を用いた。


 古代の文人の表現では、術士が用いる桃符はしばしばこれ以上ないほど神化されている。唐人張鷟(さく)が言うには、唐初の術士明崇儼の法術はきわめてレベルが高く、名声も大いにあったという。あるとき唐高宗は崇儼の実力を試そうと思い、ひそかに楽妓を地窯(地下竈洞)へ行かせ、演奏させた。そのあと崇儼とそのあたりの地上まで歩き、何気ないふりをして問うた。

「このあたり、何やら管弦楽の音がしますなあ。何の怪異であろうか。法術で止めることができますかな」

 明崇儼は音を聞くとすぐに馬上で二つの桃符を作り、地面にそれらを打ち込んだ。すると音楽は停止した。

 のちに唐高宗は楽妓になぜ演奏を中断したのかと聞いた。すると楽妓は答えた。そのとき二つの竜頭が口をあけてやってきたのだという。「あまりに怖くて演奏をやめてしまいました」。

 張鷟はまたこう書いている。隋人の樹提は住宅を建てたとき、まさに新居に入ろうとすると、突然無数の蛇が湧き出てきた。あまりに多すぎて、蚕箔(まぶし)の上に蚕がいるあるさまで、庭も蛇だらけだった。そこにたまたま「符鎮の術」の心得があると自称する通りすがりの人がやってきた。彼は四本の桃枝を持ってきて、符籙の画の上に置き、新宅の四周に桃符を打ち込んだ。しばらくして蛇の群れは退却しはじめた。桃符はあとをぴったりつけていった。蛇はみな前庭の中心にある洞の中に入っていった。通りすがりの人は木を燃やして百(こく)の水を沸かし、熱湯を洞にそそぎこんだ。

 翌日、人々が鉄鍬で蛇洞を掘り起こすと、一尺の深さの洞底からうず高く積もっている二十万貫の古銅銭が見つかった。樹提はこれらの古銭を得たことにより、一代で大金持ちになった。それにしても熱湯をかけられて死んだ蛇がどうして古銭に変じたのだろうか。当時の人は「蛇は古銭の精」と考えていたのである。現実生活の中で巫師は頻繁に桃符厭勝術を用いている。小説家はこれらから豊富な素材を得ている。この素材は小説家を経て脚色され、誇張され、ときには荒唐無稽なものになるのである。[小説は志怪小説と言い換えたほうがいいだろう。現代の我々の小説とは異なることに注意]